06.こいつはまずいんじゃないか
アジール軍の増援の出現でインフェルシア陸軍は撤退し、両軍は一時的に戦いの手を止めた。砦まで戻ったシャルとヴィッツは、先行していた他の部下たちと合流する。真っ先に駆けつけてきたリヒターが、尋常ではない様子のシャルを見て目を見張る。
「准将……何があったのですか?」
シャルは馬から降り、苦く笑った。
「負けた。アジールの敵将は、とんでもなく強いな。なんとか逃げてきたけど」
「真っ向から戦って、准将が負けるなんて……」
フォルケが驚いたのも無理はない。シャルはまず間違いなくインフェルシア一の剣の達人だ。大半の者は数回剣を打ちかわしただけで敗北するし、互角の戦いをできる人間も少ない。だというのに、ヴァンドールという騎士はあそこまでシャルを追い詰めた。シャルが「負け」を認めたのだ。そんなことが、長年シャルの部下だったフォルケらには信じられなかった。
シャルは重々しい装備を無造作に解き、ヴィッツを見やった。
「さっきは有難うよ、ヴィッツ。お前がああしてくれなきゃ、俺は死んでたな」
動揺していたのと、部下の無謀な行動にひやひやしたせいで説教臭くなってしまっていたが、シャルは改めてヴィッツに礼を言う。上官としての責任感から「先に行け」と言ったが、本当にヴィッツが行ってしまっていたらシャルは殺されていた。ヴィッツは紛れもなく命の恩人だ。
ヴィッツはすっかりいつもの調子に戻って「と、とんでもない!」と俯く。シャルとしてはもう少し己の力量と功績に自信を持ってほしいのだが、それは常々シャルがレオンハルトに言われていることだから、あまり説得力がなかった。
「行きましょう。フロイデン中将らがお待ちです」
リヒターに促され、シャルは頷いた。
★☆
「思わぬアジールの裏切りと大量の援軍投入、それに馬鹿みたいに強い指揮官か。……シャル、本当に怪我はないんだな?」
槍歩兵隊隊長アーデル・キーファー准将が、腕を組んだままシャルに尋ねる。シャルは無言で首肯する。
場所はラーディナ城塞の会議室の一つである。海軍は交戦中であるため、ハルブルグは不在。よって、今この場では最年長であるキーファーが話を進めていた。
「援軍の登場で確かにこちらの士気は下がったが、対抗できないほどじゃない。平野戦で壊滅させることも、籠城して敵の気力を削ぐこともできるだろう。だが厄介なのは、その指揮官だな」
「指揮官の才能如何で、その軍の質が変わることもありますしね」
剣歩兵隊のモースの言葉はもっともであったが、フロイデンにはシャルの話を聞いて解せないところがある。あのヴァンドールの行動は、おかしいのだ。
「というよりも、あの指揮官は動きの予測がつきません。部隊を放り出し、単騎で敵部隊を追いかけるなど、指揮官のすることではない」
予測不能な単独行動をし、かつあれだけの力量を持つ人間。だとすれば、何かとんでもないことをするのではないかという不安しか抱けない。沈黙していたシャルが、初めて口を開く。
「……アジールの軍階級の、『上級将軍』ってのはなんだ?」
それに答えたのは、外国情勢に通じるレオンハルトだ。
「確か、軍の最高位だ。インフェルシアにおける元帥と同等の意味だろう。もっともインフェルシアじゃ、名誉の階級になっているから大将と役職は変わらないけれど」
「つまり、陸軍の総帥ってことか?」
「いや、そうじゃない。陸軍の総帥は総帥でいる。上級将軍は、その上だ」
「その上……?」
「国王の傍仕え……近衛、親衛とでも言えばいいかな。とにかく、軍の中で最も強く、常に国王の傍にあって主を守り、時に国政への干渉も行う者――それが上級将軍だ」
軍総帥と近衛の力関係が、見事にインフェルシアとは逆だった。シャルは軍の中での地位もまだ准将であり、常に王の傍にいるというのは同じでも、シャルが国政に口を出すことは決して許されない。反面、シュテーゲルが軍部の代表として意見を述べることはできる。
つまり、アジールではそれだけ強さが尊ばれ、単純に個人の力量によって順位づけされているということだ。
「けれど、上級将軍はそんなほいほいと戦場には出てこないはずだ。まして軍を率いるなんて……」
「この戦いがアジールって国の総意で、かつそれだけ本気――ってことでしょうかね?」
エルドレッドの言葉に、レオンハルトも同意するようにうなずく。
室内に沈黙が流れる。それを破ったのはシャルである。
「あの男、俺と戦うのを楽しみにしていたと言ったんだ」
「シャルと戦うことを楽しみに……?」
フロイデンが眉をしかめる。
「追い詰められれば人は真価を発揮する、とも言った。……なあ俺、すげぇ嫌な予感しかしないんだ。あいつは、何かとんでもないことをやらかす気がしてならない……」
シャルの予感が外れたためしはない。そうでなくとも、ヴァンドールのやることがインフェルシアにとっての『嫌なこと』であるのは言うまでもないことだ。キーファーが改めて口を開く。
「シャルの名と強さは、近隣諸国の者なら誰しもが知るものだ。己の力量に自信があれば、挑んでみたいと思うのも当然のことかもしれん。……しばらく、シャルは前線に出ないほうがいいだろうな」
いつもなら異を唱えるが、このときシャルは何も反論しなかった。
「敵将ヴァンドールに細心の注意を払いつつ、戦闘を続行する。各自準備にあたれ」
「了解」
キーファーの言葉に各々が頷く。今は敵の出方を見ていることしかできなかった。
会議室を出て、シャルは思う。ヴァンドールは、本当にただシャルが強いから戦いを挑んできたのだろうか。何か並々ならぬ因縁や執念を、あの声と視線からシャルは感じ取っていた。
年齢は三十代半ばに見えた。つまり、死んだ兄のクライスと同年代だ。あの若さでアジール最強の座を手にしているのだから、少年のころからかなり強かったのだろう。クライスはヴァンドールのことを知っていたかもしれない。いや、それならばフロイデンも同じように知っていなければおかしい。もしかして、大人になってから急に力をつけたのか。そういう大器晩成型の人間もいる。だとすれば若いころのヴァンドールの知名度が低かったことも分かるのだが――。
「ねえ、シャル」
背後から急に呼び掛けられ、シャルは思考を中断した。振り返ると、レオンハルトがそこにいる。
「なんだ?」
「ヴァンドールって騎士がシャルを狙っているのなら、また戦いを挑んでくる可能性が高いよね」
「ああ、だろうな……」
「……今まで僕からは何も言わなかったけれど、一つだけ言う。次、ヴァンドールと戦うことになったら……奴を斬れ」
シャルはぴくりと肩を揺らす。
「それは君が一番よく分かっているはずだ。殺すつもりでかからないと、あの騎士には勝てない。次は殺されるよ」
剣の峰で昏倒させる、相手の馬を蹴り飛ばす、武器を叩き折る。無意識のうちにシャルが行ってきた手加減すべて、ヴァンドールには通用しないだろう。そんなことをすればシャルが返り討ちに遭うのは目に見えていた。
確かにレオンハルトがこのことについて口を出したのは、今回が初めてだ。シュテーゲルやフロイデンからは散々「本気でやらないと死ぬぞ」と言われてきたが、レオンハルトは何も言わなかった。手加減であろうとシャルは生き延びると信じていたからだ。だがこればかりはどうしようもできない。今まで何も指摘してこなかった親友の言葉に、それだけ事態が切迫しているということが伺える。
「死にたくない、生きたいという気持ちは僕よりずっと強いだろう? なら、何が何でも生きてよ。他人の人生蹴落としてでも、石にしがみついてでも。卑怯とか恥とか、そんな風に思うことじゃない。だって、自分が生きるってことは誰かを死なせるってことなんだから」
容赦のない言葉が、シャルに突き刺さる。
「君は優しすぎるから……人を傷つけることができないのは、僕も分かっているけどさ。自分を幸せにできない人が、誰かを幸せにはできないと思うよ」
――『いいか、シャル。お前は、自分が生き残るために剣を振るえ。誰かを守る、なんていうのは余力のある奴に任せればいい。今は生きるために戦うんだ』
剣技の教えを受け始めたころに言われた兄の言葉を、シャルは思い出す。今求められているのは誰かを守ることじゃない。自分が生きること。シャルに死んでほしくないと、心から心配してくれる人々のために、生きることだ。
「……俺は一回、初心に戻るべきなんだな」
「初心、か。確かにそうだね」
「……分かった。俺は俺が生きるため、殺しに来るやつは斬る。身勝手だと、承知のうえで」
そう告げると、レオンハルトはふわりと微笑んでシャルの肩に手を置いた。
「大丈夫だよ。君ならきっと」
「ああ……ありがとな、レオン。気を遣わせちまって」
「いや、今のはついでみたいなものだったからね」
「ついで? 他に何か用があったのか?」
「……実は」
レオンハルトが言いにくいことのように目を伏せる。一体なんだとシャルが身構えていると、あろうことか彼は沈鬱な表情を一瞬にして捨て去り、先程までの真面目さはどこに行ったのかと言いたいほど爽やかな笑みでこういうのだ。
「さっき敵の矢を避けた拍子に、シャルからもらった鎮痛薬を落としちゃってさ。追加もらえないかなー、ってね」
「それが本題かよ!?」
「僕には大問題だよ。何日分を一気に紛失したと思ってるの?」
「知るか、自分に聞け」
そう吐き捨てながらも、予備で持って来ている薬の量を慌ただしく思い出してくれているあたり、レオンハルトが言うようにシャルは「優しすぎる」のかもしれない。
「シャル! レオン!」
廊下の向こうから、ラヴィーネが叫びつつ走ってきた。何やら尋常ではない様子で、レオンハルトが表情を引き締める。
「ラヴィーネ先輩」
「なんだよちょっと待ってくれ、いま数えてるんだから話しかけられると……」
「数字数えるなんて暇つぶしは、ほんとに暇なときにやってくれ!」
ばっさりと斬り捨てられたシャルが、ひくりと口元を引きつらせる。
「数字数えて暇をつぶすとか、俺はどんだけ寂しい奴だよ!?」
「ちょっと黙りな、一大事なんだから!」
「……はいはい」
シャルが諦めたのを見計らって、レオンハルトが肝心のことを尋ねた。
「それで、何が一大事なんですか?」
「あんたたち、ここの国境にはいくつも抜け道があるって知ってるよね?」
「ああ、アジール工作員が不法入国するときに使った奴だろ」
このラーディナ城塞は国境の砦であり、平時には関所も兼ねている。だが、アジールの工作員や裏商人たちは正面から堂々と国境を通過せずに、周辺にある『抜け道』を使うのだ。森の獣道を通ったり、時には地下道を掘った者までいたという。何十年も前はそれらの不法入国のための抜け道の数が膨大に増えていたが、現在に至るまでに抜け道は激減した。これにより、アジールからの不法入国はほぼ不可能となったのだ。
「今でも通れるところは残ってるけど、どこも警備が立っていて通過はできないって聞いてるぞ?」
「ああ、そうなんだけどね」
ラヴィーネはきゅっと眉根を寄せた。
「西の抜け道を破られた。警備は一人残らず殺され、侵入防止のゲートも壊されてね。誰かがあそこを通ったことは間違いないよ」
「!?」
シャルとレオンハルトは目を見張った。
「そんな無茶苦茶な……」
「無茶苦茶だが、実際に起きたんだよ。とにかく、現場まで来てくれ!」
ラヴィーネに急かされ、ふたりは急いで彼女の後を追った。
その場所、ラーディナ城塞の西部は鬱蒼とした森に囲まれている。何代か前に抜け道が大量に造られたが、現在は森そのものが鉄ゲートで進入禁止となっていた。そんなゲートの一角を何者かは破り、警備兵を斬殺したのである。
現場に到着したとき、数名の騎士とフロイデンがそこにいた。まだフロイデンも到着したばかりのようで、部下たちが血だらけで倒れた兵の遺体の片付けにあたっている。その惨たらしい光景に、ラヴィーネだけでなくシャルとレオンハルトも眉をしかめた。
フロイデンはシャルらに気付き、こちらを振り返った。そして目を閉じる。
「……私がここに到着したとき、まだ息のある兵士がいてね。ここを通過した犯人のことを聞いたんだ」
「どんな……奴ですって?」
「アジールの制服を着た騎士、ひとりだけだったそうだ」
シャルが息を呑む。レオンハルトは地面にしみ込んだ血の色を見て呟く。
「ひとりで、これだけのことを……」
「……長い髪を結った男だそうだ。シャル……ヴァンドールって人は、そんな人?」
フロイデンに尋ねられ、シャルは頷く。あの強烈な姿、忘れられそうもない。
シャルを取り逃がしたその足で、ヴァンドールはここを通過したのか。この速さから考えれば、それ以外考えられない。『追い詰める』と言ったヴァンドールは、どこへ行って何をするつもりなのか――。
「――……フロイデン中将ッ!」
「な、なんだ」
唐突に跳ね上がったシャルの声に、フロイデンが気圧されかける。シャルはフロイデンを真っ向から見据えて一言、告げた。
「王都に戻りたいです」
「王都に? ……まさか、殿下の身が危険なのか?」
「分かりません。はっきり言って根拠はない。だから俺一人で良いです。王都への帰還の許可をッ」
切迫した言葉と、目の前で深々と頭を下げるシャル。ここまで余裕のないシャルの姿は、フロイデンも初めて見るものだった。沈黙していたフロイデンだったが、決断は早かった。
「……分かった、許可する。早急に戻りなさい」
「有難う御座いますッ」
シャルが顔を上げると、レオンハルトが進み出た。
「僕も行くよ」
「レオン、お前は……」
「部隊はブラント少将に任せる。対するのは得体の知れない相手だ、ひとりよりふたりがいいだろう。それに……」
レオンハルトはにっこりと微笑んだ。
「まだ君から薬受け取ってないし」
「そっちが本音かよ」
こんな状況でも相変わらずの二人組にフロイデンは気が抜けたように笑い、頷いた。
「レオンハルトくんも同行してやるといい。……こっちは私たちに任せて、君たちは無事に王都まで戻ってくれ」
「はい」
シャルは頷き、レオンハルトを振り返る。レオンハルトはやはりいつものように、優しく微笑む。多分レオンハルトは、シャルが無茶をしようとすれば殴ってでも止める人間だが、そうでないときはどこまででも無言でついてきてくれる友だ。
「行こう」
そう呟き、シャルはレオンハルトと共に駆けだした。




