09.不覚にも、動揺しちまったじゃないか
テオドーラとの戦争が収まって三か月。
国内情勢も落ち着きを取り戻し、国王代理のアシュリーも仕事に慣れ、シャルもまた騎士隊で以前の生活を取り戻しつつあり、暑さも真っ盛りとなったその日。
ここまで激務に追われていたアシュリーは、仕事が一段落して気が抜けたのか、疲労で倒れてしまった。朝食の席でふらりと倒れ、そのまま自室のベッド行きである。公の場で倒れなかったことがせめてもの救いだった。
侍女たちが食べやすそうな料理を作って運んできてくれたが、熱は高いし身体はだるいしで食欲がなく、殆ど手を付けられなかった。結局そのままベッドで眠る。
うつらうつらと夢と現実の狭間で行ったり来たりしながら、アシュリーは考える。こんなに静かなのは初めてだ、と。いつだって傍には誰かいて、色々話しかけてきた。彼らがいなくなっただけで、自分の世界はこんなにも静か。勿論隣の控室には侍女が控えているから、呼べばすぐ来てくれる。しかし今は、そんなことをするのも億劫だ。
静寂が気持ちいい。でも、誰もいないのは寂しい。そんな矛盾した思いを抱えながら、アシュリーの意識はゆっくり浮上したり沈下したりしている。
大丈夫ですか?――なんて聞かれたくない。むしろ他愛無い話を聞きたい。過剰に心配しないでほしい。みんな私を、壊れ物のように扱う。同じ人間なのに――。
だから会いたい――私をひとりの人間として見る、あの人に。
不意に、ひんやりと額に冷たいものが当てられた。それがどうしようもなく気持ちいい。アシュリーは思わず呟いた。
「……シャ、ル」
「――なんだ、起きていたのか?」
「ふぇ……?」
驚いてアシュリーは瞼を開けた。自分の額に当てられていたのは人間の掌で、ベッド脇の椅子に腰かけている掌の人物は、シャルだったのだ。
「えっ、嘘、なんで……?」
「いや、嘘じゃねえよ。お前が倒れたって聞いたから見舞いに来るっていうのは、そんなにおかしいことか?」
自然にかけられた言葉に、アシュリーは真っ赤になる。もっとも、熱のせいで顔は赤いので、ばれてはいないだろうが。
「あ、有難う御座います……」
「そんなことより、今日何も食べていないって聞いたんだけど。少しは無理にでも食ったほうが良いぞ」
シャルはそう言いながら、傍の棚の上に置いてあった盆を持ってきた。盆の上には器があり、蓋を取ると一気に湯気が広がった。
「それは?」
「お粥。フロイデン中将に教わって、作ってみたんだ。典型的な病人食だな。……起きられるか?」
アシュリーがもぞもぞと身体を起こすと、シャルは背中に手を入れて支え起こしてくれた。それだけだというのに、シャルに触れられた部分がかあっと熱を持つ感覚がする。
「熱いから気をつけろよ。それと、これは薬」
シャルがそう言って、粉末状の薬を盆の上に乗せた。アシュリーはそれを見て目を丸くする。
「これ、シャルが調合した薬……ですか?」
「ああ。過労で熱が出たからって侍医が出入りしたら、大事になって面倒だろ? 今は政治も不安定な状態だし、お前の不調はなるべく伏せておいた方がいい。そういうわけで、俺が代わりに薬を出してやるってわけだ」
そう言いながらシャルは、室内の窓を開け放つ。定期的な換気が必要なのである。しかし吹き込んでくる熱風に眉をしかめ、すぐその傍を離れて戻ってくる。
「こいつはちゃんと、俺が親衛隊隊長として宰相のおっさんから命じられたことだ。心配しなくてもいいぞ」
「宰相の命令……」
アシュリーはぽつりと呟く。そうか、シャルは宰相の命令で見舞いに来てくれたのだ。そうでなければ、自分のところになど――。
シャルがぽんぽんとアシュリーの髪を撫でた。顔を上げると、シャルは笑みを浮かべた。
「……つまらんことを考えるな。そうしょぼくれた顔をしていると、治るもんも治らないぞ」
そのシャルの笑みは、アシュリーが今までに見たことがないほど優しいものだった。幼子をなだめるような、そんな包容力のある笑みだ。いつも大胆不敵なこの男だが、人を労わり慈しむ心を彼は知っている。
――『シャルって、時々無条件に優しいときがあるんですよ。大体は病人に対するときですが、ごく稀に、シャルが特別視している人にそんな態度を取るんです』
いつだったか、レオンハルトがそう言っていた。彼の言う「特別」は、レオンハルトのような親友という意味でも、フロイデンやシュテーゲルのような恩人や上官という意味でもない。
シャルでも持て余す感情――恋心、である。
シャル・ハールディンが基本的に女性に紳士なのは周知の事実。では、紳士として接しない相手は一体どういう存在なのだろうか。
(シャルは、私が病人だから優しいの? それとも、そうじゃなくて……?)
アシュリーはぼんやりと目の前の器に盛られたお粥を見つめた。そして、なんて自意識過剰な考え事をしていたのだろうと己を叱る。シャルは、病気の私を見舞いに来てくれたのだ――そう、薬師として。
「どうした? 食べられなさそうなのか?」
「い、いえ……ごめんなさい、頂きます」
シャルの言葉に我に返ったアシュリーは、匙をとってお粥を掬い、口に運んだ。仄かな塩味が口の中に広がる。初めて食べる食感ながらも、あれほど食べ物を受け付けなかったアシュリーの喉はすんなりと粥を飲み込んだ。
「美味しい……です」
「そうかい。そりゃ良かった」
シャルも満足そうに微笑んだ。
お粥を平らげたアシュリーに薬を飲ませて寝かせると、シャルは急にこんな提案をした。
「なあ。お前の調子が良くなったら、一緒に街に行かないか?」
「え?」
「思うに、お前は根詰めて働きすぎなんだよな。少しは肩の力を抜いたほうが良いぞ」
「そ、それは……要するに、お忍びですか?」
「間違っても視察じゃねえな。俺がいれば、他の奴らも文句は言わないだろ」
どうする? などと聞かれても、アシュリーのためを思って提案してくれているシャルの言葉を無下にすることなどできず。
アシュリーはシャルと出かけることを約束したのであった。
★☆
数日後、ついにその日はやってきた。
「……ちょっ、ちょっとシルヴィア!? こ、こんな服、着ていけないっ」
「何をおっしゃいますの! たとえどんな目的であろうと、年頃の娘が殿方とふたりで街を歩く、これはデートに他なりません! であればこそ、それに相応しい身なりを整えなければ。テューラ、お姉さまを抑えつけて」
「は、はぁい……」
「うわうわっ、やめてったら!」
明らかに罪悪感を表情に滲ませている侍女のテューラが、それでもがっしりとアシュリーの身体を抑えつける。シルヴィアが嬉々としてアシュリーが身につけている男装を引っぺがし、代わりに用意していた服を着せてしまう。その早業、手馴れていること間違いない。
あっという間に着替えさせられたアシュリーは椅子に座らされ、シルヴィアが直々に髪を整えた。アシュリーは憮然としている。
「髪は短いんだから、梳かすくらいで十分なのに……」
「お姉さま、同じことを何度も言わせないでくださいませ。短い髪であろうと、セットは大事です。テューラ、あれを取って」
「はい、どうぞ」
テューラが差し出した「それ」を見て、さあっとアシュリーの血の気が引いた。
「……嘘。嘘嘘、ちょっと待ってったら――っ!」
「ええい、問答無用!」
両者とも深淵の姫君とは思えない。抵抗するアシュリーを必死に抑えつけながら、シルヴィアが言う。
「いいですか、これは『変装』なのです! 男性の振りをしているお姉さまが、もし万が一女性であるとばれたら大変でしょう!? そうならないための措置ですから、謹んで受け入れるべきです!」
「そ、そんな無茶な!」
「さあ、これが終わったらお化粧に入りますよ」
アシュリーががっくりと肩を落とし、一切の抵抗を諦めて妹のなすがままにされたのであった。
それから数十分して、離宮にあるシルヴィアの部屋をレオンハルトが訪れた。彼には、変装したアシュリーをシャルの待つ王城の正門まで送り届けてもらうように頼んであったのだ。アシュリーが一人で出歩いて不審に思われたら大変だからだ。その点、諸侯に睨みの利くレオンハルトが共にいれば、声をかけられる可能性は皆無といっていいだろう。
――むしろ、あれだけ頑なに花嫁を拒むレオンハルトが女性とともに歩いている、ということに驚かれるだろうが。そこは、レオンハルト特有の笑みで華麗にスルーである。
「殿下、お迎えに上がりましたがよろしいでしょうか?」
そう声をかけると、侍女のテューラが扉を開けてくれた。レオンハルトが室内を覗き込むと、仕事をやりきった表情のシルヴィアが満足そうに佇んでいた。
「いらっしゃいませ、レオン様。我ながら見事な出来ですわよ」
「ん……?」
視線を転じると、部屋の隅で縮こまっているひとりの少女がいる。それを見て、レオンハルトともあろうものが度肝を抜かれて目を丸くした。
「……あ、アシュリー殿下……?」
「……はぃ」
羞恥心からなのか真っ赤になっているアシュリーの返事は、実に心細そうだ。
「……」
「あ、あの、レオン……黙ってないでなんか言ってください……」
「あ、これは失礼。あまりに予想外の恰好をしていたので、驚いてしまいました。……へえ、これはこれは……」
シルヴィアは愉快そうに笑みを浮かべる。
「レオン様でも驚いてお姉さまに見惚れてしまうのですもの。これでハールディン准将もイチコロですわね、ちょろいもんですわ!」
「シルヴィア殿下、話が支離滅裂ですし、姫君の使うお言葉ではありませんよ」
レオンハルトは困ったように肩をすくめる。知識欲の塊のような人間であるシルヴィアは、庶民と親しく付き合うことも厭わない。そのため、そんな言葉を使うようになってしまうのである。
「さあ、それでは行きましょうか、姫様?」
レオンハルトが恭しく頭を下げると、アシュリーは溜息交じりに部屋を出た。それを見送ってシルヴィアが言う。
「お姉さま。楽しんできてくださいませね。王太子としてではなく、今このときだけは一人の女として」
「有難う、シルヴィア」
妹の優しい言葉に、アシュリーはやっと笑みを見せた。
廊下を歩きながら、レオンハルトはちらりとアシュリーの姿を見やる。それに気づいたアシュリーが赤面した。
「そ、そんなにおかしいですか?」
「いえ、似合いすぎていて。少々、不意打ちをくらった気分です」
レオンハルトは微笑んだ。アシュリーは照れくさそうに下を向く。
「今日仕事が入っていなければ、是非とも尾行してみたかったのですが……」
「れ、レオン……」
「という無粋者は引っ込みますので、どうぞ存分に楽しんできてください」
「は、はい」
「ふふふ、シャルの驚く顔が目に浮かぶなぁ……」
なんともレオンハルトは楽しそうである。
城内から出たところで、レオンハルトは足を止めた。巨大な水路にかかる橋の向こうを指差す。
「あそこ、あの柱のところにいますよ」
目は良いはずのアシュリーからでも、シャルの姿は判別できない。レオンハルトの視力の良さにアシュリーは感嘆するばかりである。
「有難う、レオン。行ってきます」
「はい、いってらっしゃい」
アシュリーが軽やかな足取りで橋を渡っていく後姿を、レオンハルトはにこにこと笑みを浮かべて見送った。とりあえず、親友の驚愕する顔を見るまではここを去らないつもりであった。
シャルは正門の柱にもたれて立っていた。アシュリーにしてみれば、フォロッドの街で出会った時以来の私服姿である。夏も近いということでシャツ一枚にズボンと軽装だが、それでも長身で秀麗な顔立ちのシャルは、黙って立っていればレオンハルトにも負けない雰囲気がある。その茶色の髪など、下手をすればそこらの女性より綺麗な色艶である。
「あ、あの……シャル?」
歩み寄って声をかけると、シャルは今気づいたようにこちらを振り返った。そして硬直する。アシュリーが俯くと、シャルは絞り出すように言葉を発した。
「あ……アシュリー……か?」
レオンハルトと似たような表情である。しかし、無理もないことだ。
このときのアシュリーは、薄青の綺麗なワンピースを着ていた。清楚な雰囲気があり、とてもアシュリーに似合っている。シルヴィアによって施されている化粧も、いつもより彼女を美しく見せている。
が、何より驚くのはその髪。
昨日までは肩に届かないくらい短かった彼女の金髪は、どういう訳か背中まで届いている。緩いウェーブのかかるその髪には、服や瞳と同じサファイア・ブルーの宝石をあしらった髪留めがついていた。どこからどう見ても美しい少女で、よもや王太子であるなどとは思いもしない。
「か、髪は、シルヴィアが勝手にウィッグをつけて……この方が変装になるからって」
「そ、そうか。ウィッグね……」
シャルは明らかに動揺していた。たちまちアシュリーは不安になり、ぱっと背を向ける。
「や、やっぱり変ですよね! シルヴィアに言って、服とか替えてきます!」
「っ……行かなくていい!」
足を前に踏み出した瞬間、アシュリーの手をシャルが掴んで引き留めた。たったそれだけで、アシュリーの心臓は早鐘を打つ。
「誤解させるような態度を取って悪かった。そのままでいいから」
「で、でも……」
「あんまりにもお前が綺麗だから、驚いただけさ。やっぱりお前は、そういう服のほうが似合う」
「綺麗? 似合う……? だ、誰が?」
「お前だよ」
「な、なんで急にそんな、歯が浮くような……」
シャルは呆れたように肩をすくめた。
「事実を言って何が悪い」
「うぅ……」
恥ずかしさのあまりに真っ赤になったアシュリーに、シャルは微笑む。
「さ、今日はどこに行く? お前が行きたいところ、どこでも連れて行ってやるぞ」
「え、ええっと……」
アシュリーは束の間思案し、そして呟く。
「……演劇」
「ん?」
「前に、シャルとレオンが話してくれた演劇……私も、それが見てみたいです」
きっと彼女には、自由に行きたい場所がたくさんあっただろう。
「分かった。行こう」
シャルは頷き、アシュリーに右手を差し出した。ぽかんとするアシュリーが意味を悟り、顔を上げる。
「手……繋ぐ、んですか……?」
「本日限りのデート気分って奴だ」
「……!」
アシュリーはおずおずとシャルの手に自分の手を重ねた。シャルはその手をしっかり握り、ふたりで大通りを歩き始めた。その姿は仲の良い恋人同士にしか見えない。
「……っ」
その様子をすべて遠目に見ていたレオンハルトは、橋の上で面白さとむず痒さのあまり悶絶しそうになりながら、笑いを必死でかみ殺していたのだった。
あと1話で2章終了となります。




