第九十一話:カノン・レディ(後編)
切っ掛けは、ほんの小さな綻びからだった。
モーリス・ド・オリヴィエ率いる先遣隊が余の命令から逸脱し、本隊の進軍準備が整う前にパルマ市を奪取した。
その所為でパルマ市の奪還、ひいてはパルマ市の焦土化を許す事となった。
そこまでは良い。
確かにパルマという戦略拠点を失った事は手痛い損害であったが、致命的では無かったと考える。依然としてラーダ王国の介入は阻止出来ており、未だにオーランド連邦軍は組織されていなかったのだから。
風向きが変わったのは、オーランド連邦軍の編成が可決された時からだ。
ここで明確に、敵の動きが変わった。内憂外患に苦しむ烏合の衆だった筈のオーランドが、確固たる殺意をもって、双頭の鷲を啄み、食い殺そうと襲い掛かってきたのだ。
「…………」
オーランド軍の練度が、帝国軍のそれを上回っているとは断じて思わない。現に余の兵達は、ここまでに獅子奮迅の働きを見せているのだ。我が金鷲に誓って、オーランド兵共にこのような戦働きは出来ない。
であるならば、この眼前に広がる戦況の説明をどう付けようか。
敵砲兵陣地を包囲せんと騎馬を走らせた第一重装騎兵連隊は壊滅。
ベルナール率いるローヴィレッキ軽騎兵は砲兵直射を受けて敗走。
有翼騎兵はあの忌々しき砲兵令嬢に敗北。
そして両騎兵の敗北が知れ渡った歩兵戦列は恐慌をきたし、吾先にとエルヴェット橋へ殺到している。
ここまでの惨状を招いたのは誰か。兵ではないとするなら誰か。戦術ではなく、戦略に責があったとするなら誰か。
「余の責に帰す物か」
ただ一点、モーリス・ド・オリヴィエの独断先行を阻止出来ていれば。
それだけで本戦役の様相は大きく変わっていたのだ。
パルマが灰になる事も、タルウィタへの強行軍を決する事も、オーデル湖を渡る事も、ラカントで舎営する事も、極寒の中パンテルスの畔で昼夜を明かす事も無かったのだ。
そのただ一点で。
「……その一点の瑕疵が!おぉ神よ!そのただ一点の瑕疵が!ここまでの惨禍を齎したと仰るのですかッ!?」
組織的な抵抗力をほぼ喪失したノール帝国軍の惨状を前にして、プルザンヌ公は悲痛な叫びを上げた。
◆
「貴様らの求める物は何か!」
「勝利なり!」
「その為に貴様らが差し出せる物は何か!」
「この身なり!」
「良いだろう!余もこの身を以って諸子の先頭に踊り出ようではないか!」
漆黒の甲冑に身を包んだコロンフィラ伯が、銃剣の林の中から姿を現す。先程装着したばかりの黒鎧はてらてらと黒光りしており、幾度の戦闘で汚れたオーランド兵達の中でより一層異質に、そして神々しく輝いている。
「明日の己に笑われたくなければ、今ここで前に出よ!嘗て臆病者と笑われた者こそ、今ここで前に出よ!」
サーベルを掲げるコロンフィラ伯の後には、手綱を握るエリザベスと、旗竿を握るイーデンが続く。
「今貴様らが成し遂げようとしている大義は、はたして諸君を笑った者に出来る芸当か!?貴様らを軽んじ、貴様らを貶め、貴様らが誇り高き戦士である事を見抜けなかった者に出来る芸当か!?」
「「否!否!否!」」
兵士達が銃床を地面に何度も叩き付け、大地が気迫と怒りで震える。
今まで踏みにじられてきた彼らの自尊心や承認欲求を掻き立て、内側から湧き上がる憤怒のベクトルを敵へと差し向ける。煽動者が行う常套句だ。
『そんな分かりやすい扇動に乗せられるものか』
この場に居ない者は、そう考えることだろう。
『軍団長が、指揮官が、貴き御仁が、自らの目を見て話していらっしゃる』
『親に褒められた事も、他人に認められた事も無かった自分に対して、今までの全てを見返すまたと無い機会を与えてくださった』
自身が歩んできた道程の全てが、力強く肯定される。そんな反則とも言える程の強烈な誘惑を前にして、抗える人間は居ない。
更にこの場を包む熱気と硝煙の香りや、炎にも劣らず巻き上がる歓声が、その誘惑に輪を掛けるように作用している。この不可視の巨人のような力を以ってすれば、理性の抵抗など無意味に等しい。
「わたくしも軍団長閣下に続きますわ!この声に!この旗に!集おうとする限り!貴方達の栄光は保証されますわ!」
カロネード商会の教育で、扇動への耐性を付ける訓練を受けてきたエリザベスも、むせ返るような熱気の渦中へと不意に流されそうになる。
兵士は良い。しかし将校が、部隊指揮官までもが空気に流されてしまうのは駄目だ。どれだけ美辞麗句を並べ、口端に泡を作り、熱意と汗とを浮かべている時であっても、頭の中は冷静に算段を付けなければならないのだ。
「行進!前へ!」
笛者が戦死し、鼓者のみとなった鼓笛隊のドラムロールが響き渡る。
一分間に百二十歩。
焦る気持ちを抑え、引ける気持ちを前へと向けるマーチのテンポに合わせ、軍靴の音を響かせる。
「銃剣!構え!」
コロンフィラ伯の命令が横隊戦列へと響き渡る。すると第一列の兵士が筒先を前へと向け、脇の下で銃床を保持する。もう射撃はしない、あとは突撃するのみという意志表示だ。
「エルヴェット橋へ敵を追い立てよ!二度とパンテルスの川を渡れぬように!」
最早戦列を組む士気すら無く、背中を見せて逃げ散るノール戦列歩兵達を、常に一様のテンポで追いかけて行く。行進するオーランド兵達は士気高く、それでいて声を上げる者は居ない。みな無言で、しかして雄弁な足音と共に進んで行く。
「射撃用意!」
しかし士気高い者は、当然ノール軍側にも居るのだ。
「構え!」
ハンター・オブ・オーデルの猟兵達と同じように、橋の欄干へとライフルを委託し、腰を据えて狙い澄ますノール猟兵達。昼の陽光を受けて、ライフルの銃身がキラキラと光を反射している。
「……!敵猟兵が狙ってますわ!」
「馬鹿者!怖気付くな!」
「撃てェ!」
緑に染める彼らから放たれた弾丸は、錐揉み回転しながら空気中を飛翔し、歩みを進める将校達を的確に撃ち抜いた。
「絶対に足を止めるな!身を屈めるな!後ろを見るな!一万を数える兵の前ぞ!範を見せよ!」
思わず背中を丸めようとしてしまったエリザベスに対し、コロンフィラ伯が叱咤を飛ばす。
死ぬ覚悟はできている筈なのに、無意識に体が生きようとしてしまう。真っ直ぐ伸ばそうとした背中が、小刻みに震える。
「安心しろ、お前にゃ弾は当たらねぇ」
背中に暖かな感触を感じて横を見ると、イーデンが歩調を合わせながら背中を押してくれていた。
「大抵の弾はコイツが吸収してくれるさ」
穴だらけになった部隊旗を見せしめのようにパタパタと振ってみせる。長距離の射撃を行う際、無意識に目立つ物を狙おうとするのは、戦列歩兵も猟兵も変わらないのだ。
「ええ……ありがとう……!」
戦友が隣に居る事の、なんと頼もしい事か。
今私は、彼らと同じ視座で戦っている。
ラーダ王国の演習で見た、あの夢にまで見た、彼ら戦友達と同じ場所で戦っているのだ。
「……さあさご覧なさいな!今やノール軍を潰走させる為に弾丸など使う必要はありませんわ!」
鐙に両足の体重を預け、馬上で仁王立ちの姿勢になる。
「前へ進むのですわ!貴方が前に進むだけで、忽ち敵は霧散しますわ!それこそが!この戦役で貴方達が勝ち取った勲ですわ!」
顔は振り返らず、背中を見せながら歩兵達へと語りかける。それだけで、我に続けという号令になる。
「射撃用意!」
絶対に当たる物か。
いや、むしろ当てて見せろ。
「構え!」
私が斃れようとも、後に続く者達は決して歩みを止める事は無い。
「撃てェ!」
橋上で散発的に煌めく発砲炎などに、もう怖気付く必要は無い。
頬を掠める弾丸も、頭上に逸れる弾丸も、無い物と同じだ。
「…………え?」
背中を支えてくれていた手の感触が、はたと消えた。
「旗持ちがやられた!」
「後送しろ!部隊旗は俺が受け継ぐ!」
「他でもない砲兵令嬢の御前だぞ!足を止めるな!」
後ろから聞こえてきた言葉の意味が、よく分からない。
手綱を握る手に、力が入らない。
仁王立ちする脚が、小刻みに震え出す。
「なんで」
今直ぐにでも、振り返って彼の無事を確かめたい。
耳鳴りが酷い。
喉が渇いた。
目頭は熱いのに、心の臓が冷え切っている。
「なんで」
そんな筈は無い。弾など、当たる筈がない。
弾の殆どは旗が吸収してくれると、他でも無い貴方が、そう言ったではないか。
「……し」
振り返ってはいけない、屈してはいけない、絶対に泣いてはならない。
振り返って、彼の容態を確かめる様な惰弱な振る舞いなど、断じてしてはならない。
「指揮権――!」
私は砲兵令嬢である。
「――指揮権掌握!」
戦友よ、貴方の名前と指揮を受け継いでみせよう。
「コロンフィラ伯閣下!部隊長のイーデン・ランバート少佐が脱落した為、現時刻を以て小官、エリザベス・カロネード中尉が臨時で指揮を執りますわ!」
目の前のコロンフィラ伯は何も答えないが、背中で自分の言葉を受け止めてくれている。
「小官にあっては、このまま閣下に付き従い、エルヴェット橋への進軍を継続!然る後にじかんたるルッツ・フォン・ディースかうたいいへとじぎけんをいじょゔじ、じごのりんじへんぜいにあッでは……!」
舌が麻痺したかように、呂律が回らない。呼吸がどんどん浅くなり、目の前が滲んでくる。
目を拭ってはならない。隷下の兵達に、悟られてはならない。
「ディースカウたいいをぶたいじょうとし、副官としてしょうかんがほさをおこないます……!」
「承知した!一時ではあるが、貴様に我が軍の砲の一切を託す!余の期待に応えて見せろ!」
そう答えるコロンフィラ伯の声に、乱れは全く無かった。
◆
夕刻。
エルヴェット橋の北端にて。
「ノール帝国軍……いや、ヴラジドの兵士達諸君よ!」
橋の中央で乗馬を操るフレデリカが、白旗を担いで呼び掛ける。
「我が方はオーランド連邦軍、パルマ軽騎兵中隊長、フレデリカ・ランチェスター少佐である!」
彼女が呼び掛ける先には、有翼騎兵の忘れ形見と化した槍兵達と、第七フュージリア連隊の兵士達とが銃槍を構えている。
「嘗ての仇敵に膝を屈し、しかれども殿を務め切るその誉高さ、敵ながら見事なり!」
敵の勇戦を讃えながら、彼女は両手で白旗を差し出した。
「ノール帝国軍が尻尾を巻いて逃げ去った今、最早我々の間に戦う理由は無い!共にアトラの麓に座す隣人として、理性あるご決断を期待するや切である!」
銃声も、砲声も止んだパンテルス川は、先程までの熱戦がまるで嘘だったかのように静まり返っている。
聞こえるのは馬の息遣いと、乱戦でボロボロになった両軍旗が風に靡く音だけだ。
降伏勧告を受けても武器を下ろそうとしない旧ヴラジド軍と、オーランド軍との間で緊迫の空気が流れる。
銃剣と長槍が交互に並ぶ彼らの戦列から、おもむろに一人の高級将校が姿を現した。
「フレデリカ・ランチェスター少佐とやら!我が方は第七フュージリア連隊、連隊長のヤン・クラヴィエスキ大佐である!」
「クラヴィエスキ大佐殿!ご尊顔を拝する事が出来、大悦至極にございます!」
敬礼の代わりに、フレデリカは白旗を眼前に捧げた。
「繰り返して言上奉ります!最早、我らと貴公との間に戦闘の事由は無し!どうか旗を巻くご決断を!」
「……貴軍の寛大なる処遇、甚だ感佩なり!」
臙脂色に光るロングジャケットの襟を正しながら、彼は首を横に振った。
「しかし謹んで!お断り申し上げる!」
「降伏を受け入れられぬのは何故か!理由をお聞かせ給う!」
フレデリカは初めから答えは分かりきっていたかのように、次の質問を投げかけた。
「我々が此処を堅守せし理由は、ノール軍の命令故ではない!ただ御一人が為である!」
「その御一人とは誰か!」
「オルジフ・モラビエツスキ閣下!ただその御一人である!」
捕縛され、還らぬ人となった将を待ち続ける彼らに、オーランド兵達は憐れみに似た眼差しを向ける。
「……モラビエツスキ率いる有翼騎兵は我が砲兵によって撃破された!最早彼の退路を守る理由は無きものと進言致します!」
「否である!」
断固とした短答と共に、彼が纏うコートジャケットの裾が突風で巻き上げられる。
「閣下は我が戻るまでこの橋を死守せよと仰られた!そして閣下は未だ戻らず!であればお戻りになられるまで、此処で守り続けるのみ!」
一息に言い切ったクラヴィエスキは、右手を高らかに挙げた。
「射撃用意!」
第七フュージリア連隊の兵士達が、白兵戦の構えから射撃戦の構えへと姿勢を正す。
「狙え!」
半身に立ち、肘を上げ、首を僅かに傾けながら、旧式のマスケット銃を構える。
オーランド軍に向けられた銃。
その全ては撃鉄が落ち切っていた。
「……」
フレデリカは無言で白旗を下げ、味方戦列の元へと去って行く。
すると橋幅一杯に広がっていたオーランド兵達も同時に退いて行き、最後には戦列の後ろで待機していた六門の騎馬砲がその姿を現した。
「散弾!発射用意!」
基準砲の側に立つディースカウが、躊躇いもなく腕を振り下ろした。
「放てェ!」
その砲声が、パンテルス会戦終結の布達となった。
ノール帝国が幾年にも渡って刃を研ぎ澄ませ、渾身の力を以て突き出した二万の一槍は、ついぞオーランドの喉元へ達する事無く、砕け散ったのだ。
◆
【パンテルス川会戦:戦果】
―オーランド連邦軍―
連邦戦列歩兵第一連隊:2000名→1299名
連邦戦列歩兵第二連隊:2000名→1456名
連邦戦列歩兵第三連隊:2000名→1189名
連邦戦列歩兵第四連隊:2000名→0名
連邦戦列歩兵第五連隊:2000名→0名
南部辺境伯義勇軍:765名→372名
パルマ・リヴァン駐屯戦列歩兵連隊:1674名→724名
連邦猟兵大隊『ハンター・オブ・オーデル』:500名→457名
連邦第一騎兵連隊:700騎→563騎
パルマ軽騎兵中隊:98騎→64騎
コロンフィラ騎士団:90騎→0騎
連邦砲兵大隊:20門→6門
死傷者数:8,288名
開戦時比損耗率:57%
―ノール帝国軍―
帝国戦列歩兵第一連隊:1122名→987名
帝国戦列歩兵第二連隊:1345名→712名
帝国戦列歩兵第三連隊:1419名→0名
帝国戦列歩兵第四連隊:2000名→0名
帝国戦列歩兵第五連隊:2000名→0名
親衛古参擲弾兵連隊『ヴィゾラ』:2000名→1753名
帝室近衛擲弾兵連隊『プルザンヌ』:2000名→1643名
第七フュージリア連隊『ラ・フズィル』:2000名→0名
帝国第十三猟兵大隊『ヴェルディール』:332名→31名
帝国重装騎兵第一連隊:410騎→0騎
帝国重装騎兵第二連隊:567騎→0騎
帝国第一軽騎兵連隊『ローヴィレッキ』:561騎→324騎
有翼騎兵大隊『フッサリア』:98騎→0騎
帝国榴弾砲兵大隊:6門→0門
帝国カノン砲兵大隊:8門→3門
死傷者数:10,754名
開戦時比損耗率:66%




