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魔女ルシエンヌの物語  作者: 五十鈴 りく
Chapter Ⅴ「割れ得ぬ鏡」

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69/73

◆17

 ルシィの故郷であるラウンデルの森が見えた時、ルシィは思わず涙ぐんでいた。

 しかし、魔女に涙は似合わない。涙を指先で拭い、ルシィは森に降り立つ。


 森の主たる魔女の帰還に、森の動物たちは一斉に集まってきた。

 その中に数体のグリフィンがおり、ルシィはリドゲートの姿を認めて歓喜の声を上げた。


「リドゲート!」

『ルシエンヌ殿、どうやら魔力を取り戻せたようだな』


 動物たちの中から前に進み出たリドゲートに、ルシィは駆け寄って頬を寄せた。


「あなたがいなかったら、今の私はいないわ。本当にありがとう」

『礼には及ばぬ。あれから、この森にはたくさんのニンゲンが来た。あなたを捜していたようだった』


 魔力を失ったルシエンヌを隈なく捜し回ったのだろう。

 そのせいで草花が踏み荒らされてしまったに違いない。なんと腹立たしいことか。


『力も戻ったことだから、これからは今まで通りに過ごせるのだろう?』


 その言葉に、ルシィはうなずけなかった。

 魔族だの兵器だの、その説明をして理解できるのは幻獣たちくらいだ。他の動物たちにはきっとわからない。


「いいえ、私はまた力を失うの。そして、この森には住めなくなるわ」


 これを聞いた動物たちはざわついた。ルシィも心が痛む。


「それでも、この森は護られるように手を打つから。あなたたちの住処が奪われることはないの」


 そこにルシィがいないだけだ。

 それを考えただけで、ルシィの中にぽっかりと穴が開いたような気分だった。


 ずっとここに帰りたいと思ってきたのに、今度はこの森を捨てようとしている。

 クリフたち人との繋がりも今のルシィには大事で、どちらを選んでも後悔はする。身を切られるような決断なのだ。


 ルシィは涙を見せたくなくて、急いで家に向かった。

 家は、外から見ただけでは変わったところもない。相変わらずの小さな可愛い家だ。


 鍵はなく、簡単に開く。

 家の中は――荒らされていた。絨毯はめくれ、引き出しの中身はすべてテーブルの上に並べられている。

 あの〈魔封石〉とやらを探した結果か。何も持ち出されていないのは、魔女が戻ってきたら困るからだろう。


 ルシィは瞬時に魔法を使って部屋を整えた。何事もなかったかのように、部屋は以前と変わりなく元通りだ。


 家を出て裏手に回る。

 そこには母と祖母の墓があった。人と同じくらい簡素な墓石で、その上なんの銘も入っていない。

 祖母のことは直接知らなかった。母から、綺麗で優秀な人だったと話に聞いただけだ。


 アンセルムによると、その祖母は聖女だったらしい。その地位を捨ててきたのなら、相応の理由があったのだろう。


 ルシィは簡素な墓標に手を合わせた。人間臭いことをしているが、これから人間になるのなら構わないだろう。


 自分は二人に何を詫びているのだろうと自問する。この力をなくすことか、それともこの森を去ることか。

 祖母が祖国を捨てたように、ルシィが己の心のままに振る舞うことを咎められる気はしなかった。


 これから約一カ月。

 それだけが魔女ルシエンヌに残された時間である。



 ルシィは家の中に留まらず、日中はなるべく森に出て過ごした。

 森で動物たちとの別れを惜しむ。


 そして、少しずつ力を使って森を覆うような、目には見えない障壁を作り上げた。

 クリフが町を出る際にハンナの食堂にかけた術は、これに比べるとカーテンくらいの強度である。


 それでも、この障壁でさえ耐えられるのは精々が人の侵略だ。上級魔族までは無理だろう。

 ただし、あれもこれもと欲張るときりがない。本当に必要なものだけを選んだつもりだ。

 この森が幻獣と動物たちにとっての楽園となるよう、ルシィからの最後の贈り物である。


 この期間、家の中に余計なものは増やさなかった。

 出してもすぐに消す。家の中は空っぽにして去りたかった。


 もう宝石には興味がなく、むしろ嫌いになっていたルシィだが、ルビーだけはベッドの枕元に残していた。

 その赤い色を見ていると、会いたい人を想って心が慰められるから、毎日ルビーを眺めながら眠った。


 クリフたちには会いたいけれど、次に会う時はルシィが魔力を失った時だ。

 残念ながら、素直に喜べる気もしない。


 ――そうして、約束の時が近づいた。



     ◆



「ルシエンヌ、約束通り迎えに来た」


 アンセルムが自ら森へやってきた。

 クレイグと名乗っていた青年が、才覚に見合った身分を手に入れ、あの時よりも堂々と佇んでいる。ただし、苦悩の色はあの頃よりもずっと深い。


 それと、アジュールの王もいる。何年も前に会ったきりだが、何十年前だったか。あの頃よりは老けた。あと何年生きられるのかなと思うような枯れた老人だ。それでも、色々と経験したのか昔よりも動じなくなっている。


 二人で来たことが、ルシィに対する誠意のつもりなのだろう。


「森の外で待っていて。すぐに行くわ」


 ルシィは穏やかに告げた。気が変わったわけではない。

 この力を差し出さねば、魔界の門は消えない。そうしたら、シェブロンの町もラウンデルの森もいずれ魔族の襲撃を防げなくなる。

 ルシィが力を残していても、どちらか一方しか護れない。今のルシィがどちらかを選べない以上、この流れは避けられないのだ。


「わかった。決行は我が国から行う。ついてきてくれ」


 オーアから最も近いのはセーブルだ。近い方が威力も増すのだろう。

 ルシィは人間たちが森を去ると、家を出た。開けた場所に幻獣たちを呼び、別れを告げる。


 やはり、最も別れがたいのはグリフィンのリドゲートだ。

 ルシィは彼の首に腕を回し、顔を埋めると込み上げてくる涙を抑えきれなくなった。別れを惜しんで泣くなんて、ちっとも魔女らしくない。


 寂しいなんて陳腐な感情は自分には似合わないと言いきったくせに、ひどく寂しかった。


「これからもずっと、私が生きている限り、あなたたちの無事を祈っているわ」


 よちよち歩きの頼りない頃から、動物たちはルシィの家族だった。

 母を喪ってから一人で生きてきたような気でいたルシィは、この時になって初めて孤独ではなかったことを知った。


 ここにはあたたかさが満ち溢れていたのだ。だからルシィはここが好きだった。

 皆がルシィを囲み、寄り添って生きていてくれた。その心に今はひたすら感謝する。


「ありがとう、皆……」


 声が震えた。長く生きてきただけで、ルシィの心は感情の起伏に慣れていない。この心をどう扱っていいのか持て余した。 


『ルシエンヌ殿、またいつか会える日もあるだろう。今生の別れではない』


 リドゲートはそう言ってくれた。本当にそうだ。そう思いたい。

 顔を上げ、涙を拭うと、ルシィは森の空気を肺に満たすように息をした。泣いていたせいもあって、鼻の奥がツンとする。


 アンセルムたちの前では毅然とした魔女でいなくては。

 さようならとは言わなくていいだろう。彼らもまた、気まぐれにルシィのところまで羽ばたいてくれるかもしれない。


 別れを惜しみつつ、ルシィは箒に腰かけて森を飛び立った。

 こうして美しい故郷を上から眺めることは二度とない。

 それでも、雨粒のような涙を零すのはやめようと、ルシィは空を仰いだ。


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