第十九章 リュージュの章3 再集結
カピラ国が風雲急を告げる頃、リュージュとナダは決意する。
全く酷い目にあったものだ。
阿修羅が去って十ヶ月後、俺に言わせれば遅過ぎたぐらいだけど、王子は彼女の後を追った。表向きは出家ということになっているが、そんなわけはない。王子、(シッダールタ王子は実際、王になってるし、今は王でも王子でもなんでもないんだけど、俺は一番呼び慣れた名称を未だに使っている)は、間違いなく阿修羅を追ったのだ。俺だって、阿修羅の気持ちが俺にあるなら追いかけたかったさ。
国王がダイバダに代わって、嫌な予感はしていた。コーサラの西端では異国が攻めてきて、何度も侵略されていたし、領土の境界線は後退してるって話だ。マガダも同様、国境のあたりはいつもきな臭い。
だが、まさかこんな通達が許されるとは思わなかった。俺やナダ一隊長、(当時はマガダ領軍司令だ)はあっという間に更迭された。主だった前第一団隊の仲間も体よく異動を言い渡され、俺たちはてんでバラバラになりながらも、上手に激戦地に送られた。
お陰で平和で鈍ってた体は無理やりたたき起こされたけど、今までと違って補給もないし、指揮系統もできてない、戦場は酷い有様だった。幸い俺のことを知ってる兵士が何人かいたので、俺の持ち場はなんとか支えることができた。だが、旧コーサラの兵士達や、その辺から招集された一夜漬けの連中は次から次へと敗走、逃亡、全滅を繰り返していた。
王子や阿修羅とともに戦に打って出てから一年、戦いに明け暮れた日々だったけれど、これほど過酷な現場はなかった。命を落とす仲間もいたけれど、あの頃は希望もあったし勝利の高揚感はなんとも言えなかった。だが、ここには絶望と失望感しかない。
「リュージュ、新しい任務だぞ」
同じ旧第一団隊の仲間から伝達を聞いた。それは、この真っ暗闇の地獄の中で、わずかに灯った一筋の光だった。たとえ向かう戦場がここよりも厳しいものであったとしても。
旧コーサラ国の前国王、ヴィルーダガが生きていたという。この男の首を確認したのは、奇しくも俺と阿修羅だった。つまり、俺たちはまんまと騙されたというわけだ。あの首は、では身代わりだったんだな。全く、俺たちとしたことが、へまをやったもんだ。しかも、阿修羅は主君の首を差し出した裏切者たちを殺さなかったからな。彼女にしてみれば、潔い死を与えるより、屈辱を与えたのだろう。生き延びるとは考えていなかったとも思うし。
でもそうじゃなかった。甘かったな。やはり他国とは言え、最高権力者の地位にいたものは、そんなに簡単には葬られないらしい。
そのヴィルーダカが、旧コーサラの残党とともに挙兵したという。しかも、その数は日を追うごとに増え、勢いを増しているらしい。俺たちはヴィルーダカを仕留めそこなった咎を受け、ヴィルーダカ率いる反乱軍と戦うことを命じられた。そう、つまり俺たち旧第一団隊が再集結したんだ!
「ナダ司令! ご無沙汰しております!」
俺達は旧コーサラの領土に入るとすぐ、荷物を解く暇もなく現場に駆り出された。カピラ国の領土として残っているのは、既に半分にも満たない状態だ。俺達が向かわされたのは、文字通り最前線。俺は敵味方が入り乱れる地獄さながらの戦場で剣を振りながら、ナダ司令を探していた。
「おお! リュージュ! 生きておったか。俺はもう、司令でも何でもない。ただの一兵卒だ!」
本当にこんな馬鹿げたことがあるだろうか? シッタールダ王子と副官阿修羅の下、カピラが北印度を平らげた戦。その戦場で常に第一線で戦い、幾たびも勝利に導いた隊長が一兵卒! あり得ない。
それにここに来て俺は初めて気が付いた。元第一団隊の連中が集められていると聞いていたが、その数の少ないこと。風の噂で、随分の仲間がやられたというのは嘘ではなかったらしい。カピラ軍でも随一の部隊だったというのに、その能力も生かせず鬼籍に入ったのか……。
「ナダ司令は、俺にとっていつでも司令です」
ナダ司令が自慢の槍を振り回している。その姿も様になっているが、こんな指揮系統もまともじゃない消耗戦で戦う人ではない。俺は悔しくて悔しくて、振う剣につい力が入ってしまった。
「ここいらはもう片付いたようだな。どうだ、リュージュ、少し話をしないか?」
俺とナダ司令で大方の敵兵を片付けた。今日のところはこれで十分だろう。
「喜んで!」
全身血の混じった泥まみれであっても、この数カ月で最も俺の気持ちは揚がっていた。
俺たちはすし詰め状態の天幕を嫌い、シュラヴァースティの城下町を臨む大木の上にいた。
俺は、マガダ、ラージャグリハへ阿修羅と二人偵察に行った夜を思い出していた。あの時もこうして大木に登って、灯りの続く市街地を見ていた。あの夜は月が綺麗だった。いや、月に照らされた阿修羅の肌が白く浮かび上がって、魔性のように美しかったな。
今夜も月は青く輝いている。だが俺の目の前にあるのは、死を待つように息を潜めている城だけだ。
「ヴィルーダカが生きていたとはな」
思い出に浸っている場合ではなかった。ナダ司令が太い幹に背を預けながら言う。俺が寄りかかる二又に分かれた枝のすぐ上で、手にはどこかでくすねてきた酒を持っている。もちろん俺もご相伴に預かっている。久しぶりに飲む上手い酒だ。
「俺らの失態です。言い訳できないですね」
少し肩をすぼめて言うと、ナダ司令は大きな声で笑った。
「気にすることはない。ヴィルーダガが死んでいても、こんな反乱軍いくらでも湧いて出た。旗印としては格好の人物だが、王家の血を引く者などどこにでもいるだろうしな。今年の雨季の嵐のせいで作物も育っておらん、どこもかしこも飢えと病で死人の山だ。それを何の施策もせず、大げさな即位式だけやった王だ。反乱が起きるのも必然だろうよ」
最後は強い怒りが込められていた。ナダ司令が言うように、今年の雨季は酷かった。大雨が何日も続き、大河は氾濫、家や土地を失う人が続出した。当然作物は不作。旧マガダの豊かな大地も水浸しの泥まみれ。
俺たちが駐屯していた頃は、それでも兵士を総動員して土地を元に戻そうと一緒に頑張っていた。だが、戦地に追われてからはどうなっているのか知る由もなかった。
つい最近のことなのに、もう何年も経ったような気がした。共に汗をしながら、懸命に鍬を振った日々。俺は少し切なくなった。
見上げれば、夜空を照らす青い月が俺達を憐むように見ている。俺の横では、緑の葉が風に揺れてカサカサと歌っていた。
「ところで、これは極秘情報なんだが」
「なんですか?」
つい大きな声をだしてしまったナダ司令は、今度は突然声をひそめだす。極秘情報? なんだろう?
「この戦場でな、アナンを見つけた。知っているだろう? 以前、スッドーダナ王に仕えていた側人だ。ダイバダ王の異母兄だがな」
アナン。確かに俺は知っている。スッドーダナ王崩御の後、王子にしばらくついていたのだが、その主も失って、ダイバダにこんな戦地に送られたのか。ほとほとツキに見放された人だな。悪い人ではなさそうだったが。
「こんなところにアナンさんが。でも、それがなにか?」
人畜無害だったあの人に、何か情報があるとも思えない。俺は自然と眉をひそめた。
「どうやらアナンは、カピラ城内、というかダイバダ王の周辺に情報をくれる人物がいるらしい」
俺の疑念をすぐに察知したようだ。多分、ナダ司令も同じことを思ったのだろう。アナンに情報を流す人? しかし、彼に流したところでそれを活かすことはできなかっただろうな。ナダ司令がここに来たのは彼にとって願ってもないことだったに違いない。
「ダイバダ王はシッダールタ様を探しているらしい」
「シッダールタ王子を?」
そうか。なるほどね。俺はすぐに合点がいった。全然嬉しくない合点だったが。
「捕らえてコーサラに渡すつもりですね」
ナダ司令は声には出さず、大きく頷いた。顔つきはさっきまでとは打って変わって厳しいものになっている。酔いも冷めたか。
「コーサラ国にシッダールタ様の首と領土を返して、事なきを得るつもりだろう」
「ったく。尊敬できねー奴だな。だが、絶対に見つからないですよ。王子はもうここにはいない」
ナダ司令の右眉が少しあがったのが見えた。俺からの情報も欲しかったのかな。どっちにしろ、俺も何かを知っているわけじゃない。確信してるだけだ。
「やはりな。ダイバダ王も尊敬できないが、シッダールタ様もシッダールタ様だよなあ。まあ、阿修羅に会って、惚れない男なんていないとは思うが……。シッダールタ様は阿修羅を追ったのだな」
もとはと言えば、王子が国も俺たちも捨てて阿修羅を追ったことが、今のこの惨状に陥った原因なのだ。『亡国の王』であり、『傾国の美女』か? 二人は同時にカピラを北印度一の大国にした英雄だったのにな。おかしなことになったもんだ。
「それは間違いないと……。阿修羅は砂漠に帰ると言ってましたから、盗賊の仲間のところにいると思います。ただ、彼らの隠れ家は砂漠の向こうで。ちゃんとした場所がわからない限り見つけることも難しいはず。王子が辿り着けたかはわかりません」
「たどり着いたろうよ。シッダールタ様であれば」
「……そう思います」
あの最後の朝、城門で抱きしめた阿修羅のことを思い出す。鍛えられた筋肉と相反するようなしなやかな肢体。ふわりと香る髪の匂い。あれほどの強さを誇りながら、か細く今にも壊れてしまいそうだった。
「どうする?」
「え、何がですか?」
俺の切ない思い出からいきなり引き戻すように、唐突にナダ司令が尋ねてきた。どうするって、何を?
「俺はもう、あの男についているのはご免だ」
「ナダ司令!」
何を言い出すかと思ったら。俺は思わず辺りや足元を見回した。大木の下には誰もいなかった。兵士たちは深手を負っても満足な治療を受けられない。あの不衛生な天幕で、痛みに耐えながら体を横たえているはずだ。
「それは、そうですが……。王子はもういない。俺たちが仕えるべく人はいないんですよ」
ナダ司令は持っていた酒を飲み干すと、器をじっと見ている。視線はそこにあっても、見ているものは別だろうけれど。
「野盗にでもなりますか?」
俺は、半ば冗談でもなく言ってみた。ナダ司令が言いそうなことはわかっていたけれど。なぜかそれを俺は言葉にしたくなかった。
「それもいいがな。その前に、カピラ国のためにも玉座の掃除をしてやりたい」
しかし、あっさりとナダ司令は言葉にした。俺は漏れそうになった驚きの声を思わず飲み込む。見上げると、心痛な顔を俺に向けている。巨体がいくらか小さくなったようにも見える。ナダ司令の倍の太さはある大木の幹のせいかもしれない。
「リュージュ、俺は自分の部下が虫けらのように扱われて殺されていくのをこの目で見てきた。コーサラ、マガダと戦い抜いて、カピラ国を印度国の盟主にした戦士たちをだ。生き残っているのはおまえや俺のような悪運の強い数名だけだ」
その惨状は俺もここに来て悟った。それまでは噂で聞いていたとしても、信じたくなかった。味方が攻める道を造るため、幾たびも危ない橋を渡ったが、決してあきらめなかった俺達第一団隊。ナダ司令の目にこらえきれない涙が溢れ出ていた。
「こんな仕打ち、俺は絶対に許せない! 俺の大事な部下たちを殺した罪は、命で償ってもらいたい。それだけではない。あんな男を後継者にして、この国を捨てたシッダールタ様にも正直腹が立っている。だが、もし生きているのなら、戻ってきて欲しい。そのためにも、ダイバダを殺す」
俺はナダ司令の涙が痛すぎるほどわかった。誰よりも部下を思い、育て、死線をくぐってきた。俺達、先鋒隊はその特異な任務のため、死者も多く出た。悲しくもあったが、それが任務と知っていたし、その犠牲あっての勝利とも考えていた。
だが、今回の戦はただの捨て駒。意味もなく死体の山に積まれていくのが、ナダ司令にとっては手足を引きちぎられる思いだったろう。そんなことは容易に想像できる。俺だって、悔しい!
「シッダールタ様はダイバダに俺たちの処遇は変えないようにと約束させたそうだが、そんなものが守られると思っておいでであったか。阿修羅ともし再会できているなら、二人でまたここに戻ってこの国を立て直してほしいんだ」
ここまで話すと司令はしばし沈黙した。腕でぬぐってはいるが、涙が止まらない。この人の悔しさは、俺の持っている想いとは比べ物にならないのだな。でも……。
ナダ司令。王子は多分、戻ってこない。でも、あんたがそれを望むなら、つきあってやってもいい。俺はこの地獄のなかで、ただ生き延びることだけ考えて剣を振っていたが、本当はどうしたかったのかな。大した目標もなくて、何となくいつ死んでもいいやと思っていたかもしれない。それなら。
このまま死ぬのを待つよりも、無駄とは知りつつやってみるのも一つか。もう一度、勝利を信じて生きるのも一興かもしれない。
「わかりました。ナダ司令。ここには少ないながらも昔の仲間がいる。どうせ明日をも知れぬ命だ。俺たちの思う通りに使いましょう」
「リュージュ! まことか!」
「へへっ。面白くなってきましたね」
俺は唇の端でふっと笑った。あの日、あの木の上で阿修羅が笑ったように。




