第十四章 阿修羅の章3 夢の中
再び物語は阿修羅の心の中に。
「私の妃になってはくれないか」
シッダールタは遠慮がちにそう言った。酔っぱらってはいたが、あの言葉に嘘はなかっただろう。
一瞬時が止まったかと思った。心臓が一つ大きく打って、早鐘が後を続く。息ができなくなった。
「愚かなことを……」
そう息と共に口にした。他に何と言っていいのか、わからなかった。とにかく、息がしたかった。そんなことが、許されるとでも思っているのだろうか? 私は未だに自分が何者かわからない。『名前のない子供』、『流沙の阿修羅』、『軍神』、どれも二つ名はあっても本当の名前ではない。
あの凱旋パレードの時、もしかして母が来ているのではないかと、探してしまった。生きているかどうかもわからないのに。顔ももううろ覚えだ。いたとしてもあの群衆の中、探せるわけもないのに。
ただ、カピラヴァストゥの街に出て、母を探す気持ちにはならなかった。母との約束など、もう気にはしていない。時間が惜しかった。
母に会いたい気持ちがないわけではない。でも、それより私は自分が何者なのか知りたい。このカピラヴァストゥに入って、私はずっと緊張している。例えば玉座。王の背後には大きな旗があって、その旗には天の山が描かれている。私はそれを見ると、不安に駆られるのだ。ルンピニーの宮殿で見た、王の親衛隊が身に着けていた武具に、同じ印があった。
そして何よりもスッドーダナ王だ。シッダールタが心配していたが、私もとうに気付いていた。あのやつれよう。私を見る目。何かある。だが、このパズルにはまだピースが足りない。私の疑念は膨れ上がる一方だ。
その疑念の答えはここにある。母を探すよりも、ここにいたほうがその答えに辿り着ける。私の勘がそう私に囁いていた。
浮かない私のところに、ダイバダとか言うヤツが現れた。腹に一物も二物もありそうな油断のならない男。あの男はシッダールタの従弟と言っていたが、性格が正反対だ。おそらくシッダールタの敵側にいる奴なのだろう。
広間から酔客の歌声や大声が漏れてくる。時々湧き起こる喝采と歓声に私は耳を覆う。この国の歴史になにか手掛かりがないかと読んでいた書も、全く頭に入ってこなかった。
「安心しろ。私はおまえの他に妃を取る気など最初からない。お前とこの世の果てまで駆け抜けて行く。命ある限り」
鬱々と日々を過ごす私のところに、シッダールタがやってきて、突然の求婚をした。私の脳内は既に容量満載で溢れそうだというのに。あいつはそれを無理やりこじ開けてくる。
どうしていいのか、わからなかった。私はどうしたいのだ? いや、妃に収まるなどあり得ない。それとも夫婦ともに戦場に出るか? それもいいかもな。ははは。何を馬鹿なことを。愚かなのは私の方か。
あいつを追い出した。あいつの肌の温もりを体が求めていたけれど、そのまま流されたかったけれど、今の私には無理だった。あのまま流れてしまったら、とんでもないところに飲み込まれてしまいそうで。
夕暮れの柔らかい光に染まって、天の山がオレンジ色になっている。誰も越えられない高い壁が私にのしかかる。このままここにいたら潰されてしまう。シッダールタ、おまえの名を追ってここまで来た。それは正しかったのか? どうしてこれほどに心が痛いのだろう。
その日、私は夢を見た。それはすぐに夢と気付くお粗末なものだった。
景色も色もないぼんやりとした空間に私はいた。ふと見ると、私の目の前に十字路がある。私はまず、東の道を選んだ。その先には、死も近い老人がいた。なぜかその顔はスッドーダナ王に似ていた。
私はまた戻って、今度は南へ向かう。そこには病に伏す女がいた。その人は、幼い日に見た母に似ていた。
私は踵を返して西に行く。そこには、生気を失って横たわる、『私』がいた。周りには誰一人いない。体中の小さな傷から赤い血を滲ませ、『私』は独りで死に瀕している。それとももう死んでいるのか?
私は怖くなってそこを去り、最後の北の道を歩く。そこにいたのは。
――シッダールタ……。おまえがいてくれたのだな。
私は思わず駆け寄った。優し気な微笑をたたえる彼の元へ。だが。それはシッダールタであって、そうではなかった。私は立ち止まる。
――おまえは? 誰だ?
――私だよ。阿修羅……。
何度も心震わせた彼の声だった。だが、そいつは私の知っているシッダールタより、少し歳を取って見えた。そして何よりも、修行僧が身に着ける、袈裟を纏っていた。
――私はずっと先の世界のシッダールタ、いや、その世界では既にブッダと呼ばれている。
――仏陀? まさか! そんなはずはない! シッダールタは出家などしない!
私は全身で拒絶する。また元に来た道を戻ろうとすると、彼は私の手を掴んだ。
――そうだね。そういう未来もあるだろう。
強く掴まれたわけでもないのに、私は動けなかった。彼は変わらぬ笑顔で私に話しかける。
――そんなことは、どうでもいいんだ。一つだけ言っておきたいことがあってね。
ほわほわといくつもの丸い光が漂ってくる。それは蛍の囁きなのか、それとも鬼火の舞なのか。私は彼の言葉を待っていた。
――もう、苦しまなくていいんだよ。私はいつもお前を見ている。生も死も、時すら私を遮るものはないから。だから恐れずに思うように生きろ。必ず一つになれる日がくるから。
――なに……? なんのことだ?
ゆっくりと彼は私の手を離す。腕に彼の体温が残る。漂う光の中、柔らかい笑顔を残して彼は遠ざかっていく。待て、行かないでくれ。
――待て! どういう意味だ!? シッダールタ? 仏陀!?
私は去っていく彼を、彼の影を追った。だが、彼は丸い光とともに消えてしまった。
夢だとわかっていた。最初から。こんなことはあり得ないと夢の中で打ち消した。
それなのに、目覚めてもまだ夢の中にいるように、つかまれた手首には熱が残っていた。
騒音でしかなかった大宴会はようやく終わった。カピラ城を覆っていた気怠い空気が少しずつ払われていく。それにつれ新国の行政についての議論が活発となっていった。私はようやくいるべき場所を与えられ、憂鬱に沈む気分から解放された。無論、何一つ解決はしていないのだけれど。
「俺ら、ラージャグリハに行くことになったよ」
会議は午後にはお開きになる。空気も澱む昼下がり、自室にリュージュが訪ねてきた。こいつと話すのも久しぶりだ。変な緊張をしなくて済むからなんだかホッとする。
奴は戦場ではあまりお目に掛かれない、青で統一された単衣の上下を粋に着こなしていた。袖の無い上着からは奴の鍛えた体が惜しげもなく披露されている。素材が上質に見えるのは、これが恐らく上官に対する正装だからだろう。上官とは私のことだ。当の私は普段使いの軽装、雑に薄い上着を羽織っている。暑い場所だから、手足は剥き出しに限るのだ。
私たちは小一時間、冗談を言いながら歓談した。奴はこの先、ずっとマガダの異国の地に留まるのかと心配していた。すぐにも新たな戦に呼びつけてやると言うと、心底安心したように上機嫌となった。これは別に社交辞令でも何でもない。
奴はシッダールタが『誰とも婚姻しない』と宣言したことを知っていた。どうやら城にいる主だった者の耳には入っているようだ。愚かなことを言ったものだ。
「耳が早いな。ふん、あの愚か者は自分の立場がわかっていないらしい」
「何を言ってる。おまえのためだろ? 素直になれよ」
簡単に言ってくれるな。事は複雑に絡んでいる。まるでほどけなくて塊を作る糸のように。素直になったくらいで解決するならこんなに苦しい想いはしていない。
「素直にか。リュージュ、私は時々わからなくなる」
「なにが?」
「奴にとって、ここから先へ進むことが本当にいいのかどうか……。妃をもらい平和に印度国を統治し、世継ぎをもうけ……。その方がいいのではないかと」
リュージュはこの北印度を統一できたのは、預言者の言ったカリスマ、シッダールタの力ではなく、私の力だと言った。私がいなければ、何事も成し得なかっただろうと。だが、それは物事をある一面でしか見ていない。
私はわかっていた。私はシッダールタの名前に引き寄せられてここへ来た。あいつが兵を興こし、戦の舞台に立たなければ私はここにはいなかった。今でも砂漠の乾いた風に吹かれていただろう。
「何言ってる!おまえらしくもない。おまえと王子なら、さらに大国を目指すことが出来る。こんな国一つで満足するな。俺も手を貸す!」
私らしい。私らしいとはどういうことを言うのだ。おまえ、私の何を知っている。私ですらわからなくなっているのに。
「だいいち、このまま立ち止まってしまったら、おまえはここを出ていくだろう?」
奴は私の顔を覗き込むようにして問う。この土地特有の浅黒い肌に彫の深い彫像のような顔立ち。くっきりとした二重の双眸が私を見ている。私はその瞳に急かされるように頷いた。
「そう……だな。平和は私を必要としないからな」
陽が落ちてきて、バルコニーから吹き抜ける風が幾分涼しくなってきている。中庭の大きな葉を持つ樹々が風にそよいで優しい音を立てている。リュージュは私の答えに首を振った。
「そんなことを王子が許すはずもない。おまえを失うことがわかっていて、おまえ以外の妃を迎えるなんて考えるわけがない。王子が本当に望んでいるのは、おまえとこの世を駆け抜けることだと俺は思うがな。次の大地も平らげろよ。さらに貪欲に、さらに激しく突き進む。おまえと王子ならできるはずだ」
次の大地。今、西方からは砂漠を越えて印度を喰らおうとする異国の大国があった。私はこいつらが酒だ、女だ、と大騒ぎしている間に、情報を集め計画を練っていた。次の戦いはもう目の前にある事実だ。既にシッダールタには話もしてある。
「そうだな。それがいいのかもしれん。さらに貪欲に、さらに激しく……か」
「そうだよ。そんなおまえに俺は惚れてるんだから」
どさくさに紛れて、リュージュはとんでもないことを捻じ込んで来た。奴の気持ちに気付いてなかったわけではない。いや、とは言え、あまり深刻には捉えてなかった。人の心の綾は、私には難しすぎる。
「何を言っている。愚か者」
いつもの決まり文句で私は返す。あいつは両手を広げて肩をすぼめた。
「ああ! もうこんな話はやめだ! そうだ、稽古をつけてくれないか? 飲みすぎ食べ過ぎで体が重くて仕方ない!」
リュージュはそう言って、置いてあった試技用の剣を私に手渡した。剣を手にしたとたん、何かが体の中で静かに滾るのを感じる。
「いいね。久しぶりにお手合わせといこう」
「そうこなくては。でも、お手柔らかに頼むぜ!」
「約束できんな」
汗を流せば、重い気持ちも一緒に流れ落ちるかもしれない。私は随分気持ちが楽になるのを感じた。二人、長い廊下を渡って、武道場へと向かった。
私たちは暗くなってお互いが見えなくなるまで剣を打ち合っていた。私はまだまだいけたが、リュージュが白旗を上げてきた。
「もう無理! 調印式の前に殺されるわ!」
と、音をあげたので仕方ない。しかし、随分とすっきりした。感謝しないといけないな。私は腕や足、首元の汗をぬぐう。
「明日は城を上げての式の準備だ。いい感じで疲れたから、ぐっすり寝るさ」
調印式には、今回の戦でカピラの配下に降った、マガダ、コーサラを始め大小十数国の代表が集まる。その準備は宴が終わった翌日から始まっていたが、明日は総力戦だ。私も担当の者から指示書をもらっている。心底かったるいが、そうも言っていられない。私は憂鬱な明日を思いやりながら、リュージュとともに武道場から廊下に出た。
「体中が痛いけど、楽しかったよ。あ、あれ?」
「どうかしたか?」
私の肩越しに、リュージュが誰かを見ている。私は後ろを振り返った。そこにはやや年配の、だが衰えぬ筋肉をみせる体の大きな男がいた。
「ディーパ殿! どうされました? こんな遅くに! 阿修羅、おまえも来いよ。紹介しよう」
私はリュージュに右手を掴まれて、視線の先にいた男のところへ連れていかれた。
「ディーパ殿、ご無沙汰しております。今夜は、王のお見舞いですか?」
「おお、リュージュか、この度の戦では随分活躍したそうだな。誇らしいぞ」
ディーパ前将軍。リュージュの話では、スッドーダナ王が軍の総司令だった頃の将軍らしい。親衛隊隊長も兼務し、王から絶大の信頼を受けていたという。リュージュは入隊の頃、ディーパに見いだされて鍛えられたとのことだった。
「こちらは、阿修羅殿ですね。ご活躍は兼ねがね耳にしておりました。こうして直接お会いできるとは光栄の極みです」
ディーパは私に向かって丁寧な言葉づかいで挨拶をした。彼の差しだした右手に私は右手を添える。ぐいっと握られた圧力には元軍人の誇りを感じた。そして同時に、私を見る目に違和感を覚えた。
今まで、初対面の奴からは誰もが共通の意志をもって私は見られてきた。それはシッダールタすら例外ではない。『こんなチビが本当に強いのか?』『想像と全く違う』『噂は何かの間違いか?』。大体そんなところだ。
だが、ディーパはそうじゃなかった。私に対してなんの驚きも、なんの違和感も抱いていなかった。私のことを当然見知っていて、それを確認しただけの様子だ。
「どこかでお会いしたかな」
私はカマをかける。
「いえ。ですが、凱旋式でお見受けしましたので」
百点満点の答えだな。私の意図に気付いたか。
「ディーパ殿、今夜は王のお見舞いですか?」
リュージュは私達の間にある不穏な空気に気付きもせず話を続けた。
「あ、ああ。昨夜もお伺いしたのだが、倒れられたとのことでお会いできなくて……。お待たせしているので、失礼するよ」
スッドーダナ王は、昨夜シッダールタと歓談中に倒れたとのことだ。大事ないとは聞いていたが……。親子の間に持たれた会話は『歓談』ではなかったことだけは理解できた。
「変だな……」
私に会釈をして足早に去っていく老体を、怪訝な顔をして見つめるリュージュが呟いた
「なんだ? 何かあったのか?」
「あ、いや、俺はもう行く。今日は稽古つけてくれてありがとう」
「ああ、こちらこそ、お陰で気分が良くなった」
別れの言葉もそこそこに、リュージュは駆けだした。どうやらディーパを追いかけるようだ。一体なにがどうしたというのか……。私は試技用の剣をくるくると回すと、自室へと戻っていった。
イラストは青羽様から頂きました! ありがとうございます!




