第十三章 シッダールタの章5 凱旋
カピラの民、全てが集まったのかと思うくらいの大歓迎を受け、私たちはカピラヴァストゥに帰って来た。予想以上に民は戦の勝利を喜んでいるようだ。それにしても阿修羅の人気は凄まじかった。私が予想していた以上に人は彼女の周りに集まり、注目し、そして魅了されていった。
私は素通りされてしまったが、一向に構わない。阿修羅が注目されるのは当然のことだったし、嬉しくてたまらなかった。私は何度も振り返ってあいつの顔を見た。お世辞にも笑顔を振りまくとは言えないが、綺麗な顔で手を振る姿は堂に入っていた。
だが、城に入って私は驚愕した。義母のマーハラとともに出迎えてくれた父、スッドーダナ王が、あまりにもおやつれになっていたからだ。ルンピニーでお会いした時から半年も経っていないのに、まるで別人のようだった。
カピラ国は今まさに北インドの覇者。これから栄華を極めるというのに、一体どうしたことか。マーハラ妃に聞くと、食事も進まず、夜もあまり寝ておられないとのこと。有名な医師に見せてもどこが悪いかはっきりしない。当の王は、大丈夫だと繰り返すばかりだと言った。
「王子、差し出がましいことを申しますが、戦はもう終わったのでしょう? 王を安心させるためにもお妃さまをお迎えください」
マーハラ妃にまでそう言われてしまい、私は二の句が継げなかった。あいまいに笑ってその場を辞した。
カピラ国、マガダ国、コーサラ国で執り行われる調印式を前に、昼夜を通しての宴が催された。みんな朝から酔っ払いだ。私はその中心にあって、兵たちの労をねぎらい、様々な身分のものからお祝いの言葉を受け、なかなかに忙しかった。
私の苦手なダイバダとも話をした。あの男は相変わらず慇懃無礼な言動で私を不快にさせた。特に阿修羅のことを『彼女』と呼んだ。何という失礼な奴なのだ。仮にも副将軍だ。そこらの女官みたいに呼ぶとは!
宴も三日目になると私もいい加減うんざりだ。ほとんど顔を見せない阿修羅の部屋に私は足を運んだ。まだ陽が沈むには間がある、黄昏時が近づくころだった。
「ああ、もう酒も飲み飽きた!」
私は半分酔っ払いながら阿修羅の部屋へ入った。あいつは私の顔をあからさまに嫌そうに見る。ちょっと傷ついた。
「先に言っておくが、私は宴には行かんぞ!」
ご機嫌はあまりよろしくないようだ。なにやら机に向かって書物を読んでいる。城にあった珍しい読み物を部屋まで持ってきたらしい。植物の葉に書かれたもののようで、いい匂いがする。
「わかってるさ」
「大体まだ調印式も終わっていないというのに、どういうことだ、この馬鹿騒ぎは!」
「まあ、そう言うな。兵達もようやく長い戦いから解放されたんだ。馬鹿騒ぎも勝利者の特権だ。大めに見てやれ」
一応私は兵たちの肩を持つ。彼らはおまえと違って戦があれば何もいらないってわけじゃない。ストイックすぎるおまえの論理でやらせると、世界征服と言っても誰もついてこない。
「ふん、リュージュまであの浮かれよう。見ていられん」
阿修羅は席を立つと、窓の方へ足を向けた。そして夕日に赤く染まる天の山々を見上げる。
「さあ、お前はさっさと広間へ行け。皆が待っていよう」
「そのことなんだが……」
「どうした?」
私は気になっていることを阿修羅に話した。彼女にこの話をしたところで、どうなることでもなかったのだが、私は彼女の気持ちを確かめたかった。
「父王のやつれ方には本当に驚いてしまった。義母の話だとここのところ食事も殆ど取られないと。いったいどうしたというのだろう。我が軍は勝利し、ついに印度国を手に入れたというのに」
阿修羅は私の方を見ることなく、何か考えをめぐらせるような仕草をした。そして、
「じゃあ、さっさと妃でも娶って王を安心させてやるんだな」
半ば冗談とも取れないような口調でそう言うと、部屋付きのバルコニーへと出ていった。木を組んで作られたそこには小さな椅子が置かれ、緑豊かな庭を臨んでいた。
「簡単に言うな。私の気持ちを知っていて意地の悪い奴だ。この宴が終われば父王も、その話をしてくるだろう。約束だったからな。この戦が終われば、妃を娶ると」
「そうか」
阿修羅は私に背を向けたまま、気のなさそうに言う。私はもう限界だった。胸が張り裂けそうだ。
「阿修羅」
私は彼女を追ってバルコニーにでた。そして手を伸ばせばすぐそこにいる阿修羅の肩に触れた。あいつが拒否しないのを確かめて、背後から優しく、包み込むように抱きしめる。
阿修羅の束ねられた後ろ髪が風に揺れ、私の頬をくすぐる。
「私の妃になってはくれないか」
酔った勢いだったとも言える。いや、酔っていたからこそ本音が言えた。私はずっとこの言葉が言いたかったのだ。拒絶されると知りながら。
阿修羅の肩がぴくりと動いた。彼女が言葉を口にするまで、私は凍り付いたように動けなかった。それは一瞬のようで永遠のようだった。
「愚かなことを……」
やがて呟くようにそう言うと、私の腕をふりほどいた。
「そんなこと、出来るはずもない。誰も許しはしない。いや、それよりも。私は妃になどならん。言ったはずだ」
手すりに体を預け、阿修羅は続ける。こうなることはわかっていたが、やはり苦しかった。
「どこの誰でもいい。さっさと別の女と婚姻しろ。私は今のままで充分だ」
「阿修羅。それがお前の本心か。私はお前を私の妃とするためなら、父王や王妃、誰の許しもいらん。全てを捨ててもお前を取る!」
「馬鹿な!」
阿修羅はバネが弾けるように振り返ると、呆れたように吐き捨てた。
「忘れたか。私はこんなちっぽけな国などどうとも思っていない。私の望みはこんな物ではない。さらに大国を目指し、お前をこの地上全ての王にする。捨てられてたまるか。これは一つの通過点だ。この国を踏み台にして先へと進む。それが私の望みだ」
阿修羅……。私は阿修羅の右手首を握った。強気の言葉と裏腹に、何故か彼女は頼り無げに見えた。
「私だって、この世の真の王となることをただの夢とは思っていない。二人なら必ず出来ると信じているからな。安心しろ。私はお前の他に妃を取る気など最初からない。お前とこの世の果てまで駆け抜けて行く。命ある限り」
右手を腰に滑らせ、私は阿修羅を抱き締める。薄い桃色の唇が視線を横切り、私を誘う。左手を首筋にあてがい、有無も言わさずに阿修羅に口づけた。彼女も反応するように両腕を肩ごしに絡めてくる。私はより一層強く体を引き寄せた。だが、阿修羅はやがて両手で私の肩をゆっくりと押し、体を引き離した。
「もういい。行け。皆が待っている」
そう言うと背を向けて、いつの間にか灰色に沈む天の山々をまた眺めた。その小さな後ろ姿が、私の心を捉えて止まない。『もう戦はおわったのでしょう』。マーハラ王妃の言葉が甦る。
戦は終わらない。私は行く。阿修羅となら修羅の道すら香しい華の道だ。
三昼夜を徹しての宴も終わり、本格的に印度国統治にむけて、連日会議が繰返されるようになった。ようやく阿修羅も引きこもりから出てきた。
旧マガダ国のラージャグリハには執政官としてカピラの貴族から一人。これは所謂名前だけの傀儡だ。実質の統治は、ナダ第一団隊隊長をマガダ領軍司令として派遣することで一致した。リュージュら第一団隊もそれに従わせる。
栄えある調印式は三日後に迫っていた。
「シッダールタ、父との約束をよもや忘れてはいまいな」
会議の後、久し振りに私は父上と二人で向かい合った。この時を待っていたかのように放たれた言葉は、予想した通り婚姻の催促だった。
「そのことですが……」
私は昨日の阿修羅の小さな後姿を思い出した。あいつを離したくない。意を決して宣言した。
「私は妃を取りません」
「な……この期に及んでまだそんなことを!? どう……」
私は慌てて何かをいおうとした父を制した。もう自分の気持ちを偽ることなどできない。包み隠さず話すのだ。今更だが、阿修羅が女であることは父上にもお伝えしてある。誤解を招くことなく、阿修羅に対する思いを吐露することが出来る。
「阿修羅を妃に据えることが出来ないのは承知しています。彼女自身もそれを望んではいません。だが、私は彼女以外の女を傍におくことなど考えられないのです。私は妃を取りません。永遠に」
父上はただ茫然と私の言葉を聞いていた。だが、俄にわなわなと震えだし、立ち上がった。鬼の形相だ。
「許さん! それだけは、絶対に許さん!」
烈火のような怒りは、いつもの穏やかな父上からは想像もつかないほどだった。激しい怒りに私は思わずたじろいだ。
「シッダールタ! お前はこの印度国の王となるのだ! 妃を迎えなければならんのは当然のことだろう! 跡継ぎをもうけることが、王としてのお前の責務だ!!」
「いいえ! 父王、私はこの国も、また次に得た国も、継ぐのは何も私の子でなくてもいいと思っております。力のある者が私から奪えばよい。そして、その者は必ず現れるはずですから!」
だが、ここで負けてはいられなかった。私はこの意志を貫かなければならない。貫いてみせる。何を失っても阿修羅を失うことは許せない!
「何を言っているんだ! 王たるもの……!」
父上の体が揺れた。私ははっとした。あっと思った時は既に遅く、父上は頭を抱えて倒れてしまった。
「父上!」
私は慌てて駆け寄った。父は震える手を伸ばし、悲しげな目を投げ掛けてくる。
「シッダールタ……、阿修羅は……」
「父上?」
だが、父上がそう言いかけた時、騒ぎを聞きつけた侍女や兵達が部屋に駆け込んできた。私は父上のその後の言葉が気になったが、それどころではない。
「王! 大丈夫ですか?!」
「ああ、お前達、早く王を寝所へ」
父上は寝室へと運ばれていった。すぐにお抱え医師が駆け付け、マーハラ王妃と私は医師の手当てを待つこととなった。
「だいぶおやつれのご様子。この様なことがまたあれば……」
薬を与えられ眠りについた父上の横で、医師はこう言った。言葉を濁したが、私達には理解できた。深く息をつき、父の寝顔を見つめた。
「王子。どうしてこんな事に」
「義母上。悪いのは私です。でも、こればかりはどうする事も出来ない。私はこの思いに忠実でありたいのです。どうしても」
私はマーハラ王妃の前で、何の言い訳もできなかった。だが、解せなかった。なぜ父上はこれほどに阿修羅と私のことを許さないのだろう。身分が違うのは理解できる。阿修羅とでは、後継ぎも望めないかもしれない。だが、ご自分の体をやつしてまで反対なさるのがどうしてもわからなかった。
父上、まさか何かを隠しておられるのではなかろうな?
第十三章 シッダールタの章5 了 次章に続く。




