第十章 阿修羅の章2 激闘の末
ついに雌雄を決する時来る!
「いよいよだな」
馬上のシッダールタはやや緊張した面持ちで呟いた。その呟きを受けて私はシッダールタに告げる。
「ビンビサーラは何を仕掛けてくるのかわからない。戦闘中であっても常に頭に置いておけ」
私は昨夜見た、あの綺麗すぎる城下町を思い出す。その答えはまだ解けないままだ。シッダールタに話したが、マガダの軍勢から考えたら、不思議ではないと返された。果たしてそうなのだろうか? 象も通れるほどだったが、マガダの象軍は壊滅させたはずだ。
天に空色が鮮やかに蘇る。我らカピラ軍はラ-ジャグリハ城を目指し進軍を開始した。
「敵だ! 行けえ、怯むな、進め!」
先発隊はすでに敵陣と相対した。ナダの地声の数倍はあるかのような怒声が響く。後方の本陣まで彼らの緊張と興奮が届くようだ。
マガダの数万とも取れる軍も同時に攻撃を開始、弓が放たれ雨のように振り注いでくる。ラ-ジャグリハ郊外の草原地帯は一瞬にして両軍相乱れる死闘の場と化した。
「白龍、行くぞ!」
白龍の嘶きが天を突く。私は本陣を離れ、今まさに死闘を繰り広げられている戦場へと駆けてゆく。ああ、この感覚だ! 乾ききっていた大地が、雨を得たように私は生を感じる。
「ビンビサーラの旗を目指せ!」
群がる敵など相手じゃない。私はくるくると剣を回しながら、楽しむように討ち取っていく。目指すは敵の本隊、ビンビサーラ王だ。マガダ軍、二万に対してカピラは一万弱。この分厚い盾を乗り越えていかなければそこには届くまい。だが、もちろんこちらも無策では来ていない。マガダの切り札が不気味だけれど、今はこの盾を切り崩していくしかない。
「私に続け! 前だけを見ろ!」
私は第一団隊の先頭に立ち、マガダの海を分け進んで行く。私の後ろに道ができる。推進力が強ければ、すそ野は広がっていく。この布陣は前に強い布陣だ。出来ればこのまま推し続けて本隊を叩きたい。
だが、わかってはいたが、あいつが私の道を阻みにやってきた。
「阿修羅! 待て!」
黒い鎧を身に纏ったアジャンタだ。仕方ない。この壁も乗り越えなければならない。私はゆっくりとアジャンタの方へ進み出た。
「ビンビサーラ王のところへは行かせない」
「一気にカタをつける。お前と遊んでいる時間はあまりないからな」
お互い自己紹介が済んだら、猛然と馬を走らせる。その勢いのまま剣を振った。二つの刃が力の限りぶつかり合う。澄んだ音が高らかに鳴り響くと、周りにいた兵士はもちろん、遠く本隊にいる王も注目する。目を見張る攻防が繰り広げられるのだから。
恐らく私のはるか後方にいる王子も気が付いただろう。準備はできているのだろうな?
だが実のところ、私は一の太刀を受けた途端、がっかりした。知ってはいたが、やつの左肩は完治から程遠いようだ。4日前に感じた重さが半減していた。加えて馬のさばきもよくない。片手で操作しているからか。白龍の身の軽さ、速さに追いつくわけもない。これはすぐに決着がつくな。
私は前掛かりになってアジャンタを追い詰める。次第にヤツが劣勢になっていくのがあからさまにわかる。額には大粒の汗が滝のように流れている。時々顔をしかめるのは傷が痛むのだろう。
しかし、マガダが何かを仕込んでいるのであれば、ここではないのか? 私はそう思ったからこそ、リュージュの部隊を遊撃にしたのだ。これほど手応えがなければ何もできないぞ。
私を遠巻きにするようにリュージュの遊撃隊が戦っている。彼らは自由に動けるよう、どこにも配備していない。約束事はただ一つ、私がアジャンタとやり合っている時、周りを注視しろということだ。まあいい。もう茶番は終わりだ。この盾を突き破って、本隊を脅かしに行こう。そうすれば、カピラの本隊が作戦を遂行できるだろう。
思い切り剣を振り、わざとヤツの剣にぶつける。今日一番の大きさで不協和音が耳を不快にした。顔を思い切り近づけ、私はアジャンタを挑発した。
「残念だな。おまえとはもう少し遊べるかと思ったが」
「だ、黙れ! おまえを王に近づけるわけにはいかん!」
今までにない力強さで私の剣を押し返してきた。そして渾身の力を込めて、剣を頭上に振りかぶった。うん、いいぞ。私はそのひと振りを待っていたからな。おまえの鎧は固すぎて切れないのだよ。
なにかを叫んで、アジャンタが私の首を無きものにしようと剣を振った。私は白龍を足で強く挟み、体を地面と水平に倒す。空を斬るアジャンタの剣。すばやく詰め寄り懐に潜り込むと、奴の右腕を下から斬り上げた。あいつの絶叫と共に右腕と剣が宙を舞う。
そして間髪入れず、奴の首に剣の刃をあて薙ぎ払った。鎧の上をなぞるように、きれいに。声は聞こえなかったな、一瞬だったから。腕を斬られた悲鳴から息を吸った時に首を失ったのだろう。
味方の歓声と敵の落胆の声が同時に、この草原を駆け巡った。それは伝播するように、中心から奥の方へと駆け抜けていく。それを耳にしたときだった。私の目が何か光るものを捉えた。
「なんだ!」
轟音がとどろくと同時にまだ馬上に残っていたアジャンタの体が揺れ、私の目の前に迫って来た。
「なに! 矢か?!」
槍のような太さの矢が奴の体を貫いていた。あの刃を受け付けないほどの固い鎧を突き破り、背中から胸を貫通している。それがもう一つ飛んできた。私は咄嗟にアジャンタの体を盾にする。大きな体で助かった。
「阿修羅! 大丈夫か?!」
リュージュの声がする。あいつは私の安否を気にしている場合じゃないというのがわかっているのか?! 次がいつ飛んでくるかわからない。猛烈な破壊力だ。ただマガダはその二射を味方の体に突き刺したけれど。
「こいつが飛んできた場所を特定しろ! 急げ!」
そうか、これは――。
私は自分の記憶のなかを探った。これは天の山の向こうにある大国で使われていた武器だ。私も絵でしか知らないが。商人の荷の中に最新の武器として目録があった。つまり、それをマガダが買ったか、参考にして造ったということか?! 都で目にしたあの広い通路は、こいつを運ぶためか!
「リュージュ! これは土台に弓を置いて太い矢を放つ大弓だ! どこかにあるはずだ。すぐに破壊しないと厄介なことになるぞ!」
言っている間に、次が飛んできた。避けた先のカピラ兵士がやられてしまった。見たこともない武器に皆が浮足立っている。これはすぐに何とかしないと戦況に大きく影響する!
リュージュは自身の遊撃隊を率いて矢が飛んできた方へ馬を走らせている。西に向かった。西の丘なのか? 私は後ろを振り返る。本隊も何事が起ったのかわからず狼狽えている。
だが、そこにはすでにシッダールタの姿はなかった。作戦は遂行されている。私はリュージュを追うように西の丘に向かった。なぜならそこに、シッダールタが向かっていたからだ。
戦場はマガダの首都、ラージャグリハの北に広がる草原だ。東西に盆地を囲むなだらかな丘があった。ビンビサーラのいる本陣は城壁の前に陣取っている。戦況が危うくなれば城に逃げ込むだろうが、そうなると面倒だ。まずは中央を切り刻んで本陣の前を守る主力隊をじりじりと攻めていく。右翼と左翼も同様に動かす。
そしてもう一つ、東側の丘に第五団隊の半分を向かわせている。彼らには私達正面、右、左の隊が押し込んだころ、直接本隊を狙う勢いで丘から降りてきてもらう。ここで挟撃ができるはずだ。
熱が下がってからの三日間、私は遅れを取り戻すように地図に向かって策を練った。シッダールタやナダ、他の上級幹部の意見も聞きながら、まあ、シッダールタ以外はほとんど役に立たなかったが。
第五団隊に、私はもう一つの仕掛けをしていた。そこにシッダールタを配置したのだ。敵も防御だけに徹しているわけではない。隙あらば最後尾に控える敵将、シッダールタの首が欲しいはずだ。それをさせないよう、前へ進むのは厳しい。私は後ろに憂いがないようにした。そうすることにより、前への推進力は増す。
だが、悠長なことは言っていられなくなった。ヤツが向かうところに恐らく敵の一個団隊が潜んでいる。しかも破壊力凄まじい武器とともに。
第五団隊が入った西の丘陵地帯に入ると、既にそこは激しい戦いが繰り広げられていた。
「おい! 王子は無事か?」
敵兵を斬り倒していたカピラ兵を捉まえ問いただす。
「阿修羅殿!? 王子は前方で奮戦中です! お急ぎください!」
冗談じゃない! ここであいつがやられたらおしまいだ。
おしまい? あいつが殺される?! 私は急に恐ろしくなった。白龍に檄を飛ばしながらひたすらに前を行く。敵が迫ってきてもこの速度を落としたくない。私は白龍を止めることなく突っ走った。
どうしよう。あいつがいなくなったら、どうしたらいいのだ。やめてくれ、私からあいつを取り上げるな。私から奪わないでくれ! 私が、私が守らなければ。シッダールタ!
敵と味方が入り乱れる丘を私はただただ駈け抜ける。時折向かってくる敵を私は一瞥もくれずに叩き切った。それなのに、私の脳裏に浮かぶのはあいつとの日々ばかりだ。初めて会ったあの衝撃。ルンピニーでの満足そうな笑顔。私が女だと知ったときの引き攣った顔。
まだ着かないのか。どうしてこんなに遠いのだ。この丘はそれほど深くないはずだったのに。
『おまえ無しでは生きていけない』。おまえは私に言った。私はどうなのだ? シッダールタがいなければ生きていけないのか? わからない。でもおまえを失うのは嫌だ! 二度と離すことはないと言ったではないか?
どうして今、私はおまえの傍にいないのか。どんな時でもあいつの傍を離れてはならなかったのに! シッダールタ、もう一度私に言ってくれ、愛していると。
目の前に、木々が打ち倒されて開けた場所が現れた。その中央に毛艶の良い馬に乗り、長い髪をかき上げる若い将校がいた。片手に持った剣の血を払うように軽く一振りする。私の心臓が跳ねあがる。
「シッダールタ!」
「お、阿修羅! こっちに来て大丈夫か? 中央の推進力が弱まるだろう」
シッダールタの周りには、絶命している敵兵が転がっていた。ヤツは肩で息をしているがまだ余力はありそうだ。
「ああ……。良かった。無事だったか」
私は今の今まで胸の中に去来した色々な思いが、瞬時に霧散するのを感じた。だがおかしなことに、これ以上ないほど昇りつめていた心拍数が、さらに上がっていく。
「ん? なんだ、心配してくれたのか? まあ、そうだな。おまえの策にしてはやられたな」
「あ、ああ。すまない。これは失策だな。おまえを危険に晒すとは」
私は失策を恥じたが、それよりもシッダールタが無事だったことに心底安堵していた。奴は何事があったのかというような不思議そうな顔をしている。私がこれほど心配したというのに、相変わらず呑気な奴だ。
心配……か。自分でも説明できない感情だった。心が不安で揺さぶられた。丘を駈け抜けている間、ずっと動揺していた。
私は曖昧な笑顔をヤツに向ける。丘の上は新緑が美しい。伐採された木々の合間に自生している樹木はどれも立派なものだ。その下に幾つもの躯が横たわり、無粋な兵士がうろうろと歩き回っているのはいかにも似つかわしくなかったが。
既に動いている敵の姿はなかった。どうやらここに配備されていた敵軍を一掃できたようだった。私が失策を気にしていると思ったのか、シッダールタは明るい声で言った。
「そう落ち込むことはない。ここには技術兵が多かったようで大した手練れはいなかった。それに凄いものが手に入った。これで一挙に行けるぞ。今、リュージュ達に準備をさせている」
「あ! 大弓か?」
私は驚いて辺りを見回す。少し下がったところに不自然に木々が伐採されている場所があった。私は先を行くシッダールタを追った。
「よし、これでいい。狙いは定めたか?」
リュージュの声がした。数人の兵士が囲んでいたのは、まさしくいつか絵で見た『大弓』だった。大きな木の台を土台にして、普通の弓の十倍ほどの大きさ、太さの弩が設置されている。そこに槍のような矢を番えていた。弓の弦も太い。矢も弓も決められたところに置かれ、矢を飛ばすための引き金があった。
「凄いな。これは……」
私は思わず感嘆の声を上げる。リュージュが驚いて後ろを振り向いた。
「阿修羅、来たのか。これが何か知ってたのか? 俺は初めて見たよ。いいか、今から奴らを脅かしてやる」
リュージュも初めての玩具を手にした子供の様に目を輝かせている。狙いは敵の主力隊。ビンビサーラ王の所まではさすがに届かない。だが、狙いの主力隊まではまだカピラ兵が辿り着いていないので丁度良い。狙い放題だ。
リュージュの合図で、矢が二台の大弓から放たれた。美しい放物線を描いて飛んでいく。そして微動だにせず王を守っていたマガダの隊をそれは襲った。突然頭上から降って来た凶器に兵士が悲鳴もなく崩れ落ちた。周りの兵たちが悲鳴を上げる。そこは大混乱になっている。誰かがこちらを指さした。
「よし、おまえたち、ありったけ撃ちこんでやれ! 矢がなくなったら石でもいい。シッダールタ、行こう!」
私が抜けた中央の穴をこの大弓が十二分に補うだろう。速くしないと奴らがここにやってくる。その前に本陣を突く!
第五団隊を引き連れて丘を駆け下りる。スピードを殺さず、活かして攻撃する。下から異変に気付いたマガダの兵が迫っている。今度はシッダールタに指一本触れさせない。私は彼の前を守るように位置を取り、駆け下りる勢いのままに剣を振るった。
マガダ兵は軽い衝撃だけでも斜面を転がり落ちる。下から攻め上がる時点でこいつらは負けている。こういう場所では速度が落ちる一番下で迎え撃つべきだろう。私は勢いを止めずに走り下りるけどな。
戦場の草原に降り立つと、そこは混乱の極み。降ってくる槍のような矢に多くの兵士が負傷し、それに乗じたわが軍が懐深く入り込んでいた。
私たちはその渦に飛び込むと、乱戦を繰り広げた。四方八方の敵を次々と刃に掛ける。私は目の端につねにシッダールタを映し、彼に向かってくる敵は容赦しなかった。
いつしか中央、左右ともにマガダ軍の厚い壁は崩れ落ちていた。マガダの隊列は乱れに乱れ、本陣を守る障壁は薄っぺらい膜くらいになった。作戦通り挟撃は成功し、いよいよ本陣ビンビサーラ王に迫る!
「シッダールタ! ビンビサーラが逃げる!」
本陣ではビンビサーラ王が今まさに退却しようとしていた。親衛隊に囲まれながら、馬に乗ろうとしている。
「待て! ビンビサーラ、おまえの負けだ! 今すぐ降伏しろ!」
私の隣でシッダールタが叫んだ。その声に逃げていたひと塊の集団が一瞬立ち止まった。
「黙れ黙れ! まだ終わってはいない!」
振返ったビンビサーラが悔しさを滲ませながら応じた。もう肉眼で捉えられる距離にいた。気色ばった敵がシッダールタを襲おうと集まってくるが、私が悉く地に叩きつける。その私の後ろに何を思ったのか、シッダールタが飛び乗って来た。
「何をする?!」
「いいから行け! ビンビサーラに迫れ!」
シッダールタは敵兵から奪ったのか槍を手にしている。私はすぐさま手綱で白龍の背を叩いた。疾走する白龍は、見る見るうちにビンビサーラの乗った馬に近づく。敵から最後のあがきのごとく矢が降ってきた。だが問題ない。私が全て払う。
眼前にビンビサーラの派手な鎧が見え隠れする。もうすぐだ。シッダールタが白龍の背に片膝を立てた。私の肩に左手を置く。体重がかかる。私は全身で支える。
「大門が開いた! 急げ!」
大門の中へとビンビサーラが入ろうとしている。背中が消えそうだ!
「うおおおお!」
開き始めた大門の隙間に飛び込むようにシッダールタの投げた槍が吸い込まれていく。
「ああ!」
派手な鎧の背中に槍が突き刺さるのが見えた。続いてビンビサーラの叫び声、どさりと重い荷物が投げ出されるような音。親衛隊の兵士たちがビンビサーラの名を呼ぶ。悲鳴、怒号が飛び交う。
「やった! シッダールタ!」
私の背中でシッダールタが雄たけびを上げた。
「勝ったぞ! ビンビサーラを倒した! 我らの勝利だ!」
その声に周りのカピラ軍兵士が一斉に呼応した。勝利の鬨を上げる。
開けられた門にマガダの兵士たちがなだれ込んでいく。形勢は完全にカピラ軍の優勢。既に本陣から姿を消した自国の王。彼らは敗北を知った。
「どうする!? 今から城を攻め込むか?」
背中で興奮冷めやらぬ様子のシッダールタに声をかける。私自身も震えが止まらない。
「え?」
振り向いた私の顔をグイっと持ち上げるとシッタールダはいきなり唇を押し付けてきた。兵たちが見ている前で何をするのか! 私は狼狽える。周りの兵たちがさらに興奮した声を上げる。下品な口笛まで聞こえてきた。
「な、何をする。馬鹿者!」
私は思い切りヤツの頬を平手打ちした。ここでも歓声があがる。
「おまえのお陰だ! ついにこの地を平らげた!」
しかしシッダールタは全く怯まない。私を抱きしめて、また雄たけびを上げた。もう好きにすればいい! 私も同じように大声で勝利を叫び、拳を天に突きあげた。
ラージャグリハ城を我らは無理して攻めなかった。ビンビサーラ王という支柱を失った彼らが降伏してくるのも時間の問題。ここで攻めて、敵味方の死者をいたずらに増やすこともない。それがシッダールタの考えだった。
いずれ我が物になるこの美しい都を無傷で手に入れることができるなら、それに越したことはない。
駐留する一団隊と交渉人を残し、我らはヴァイシャーリーの城まで後退した。
第十章 阿修羅の章2 了 次章に続く。




