第37話 蜜柑の失態
「はぁ……。もう最悪」
第一幕が終わり、二十分の休憩時間が設けられていたその時。
私、影山蜜柑はそう呟きながら、個人の休憩室で座り込んでいた。
主役の人は、特別待遇として一人部屋が用意されている。
唯一安心できる場所。
唯一冷静になれる場所。
この蜜柑がそんな風に思う瞬間が来るだなんて、今まで想像すらしていなかったというのに。
どうしてこんなにも疲労が溜まっているのだろうか。
その原因は、もう既にはっきりしている。
蜜柑は、あの男の恐ろしさを全く知らなかった。
まさか、劇中にああいうことをされるだなんて思ってもいなかったからだ。
丁度、お互いの出番が無い時。
舞台裏で待機していたその瞬間を狙って――。
「あ……うっ」
危険信号が脳に走る。
体の中から、また何かが逆流してくるような感覚を覚える。
咄嗟の判断で、急いで別の袋を用意し、胃の中の物を全部吐き出せたことは御の字と言った所か。
何回嘔吐したか分からないが、もう胃液しか出てこない。
身体が、心が疲弊している。壊れかかっている。
「どうして自分が、こんな目に……」
一応、警戒だけはしていたつもりだった。
秀太先輩は、仕事以外は悪い噂しか聞かない人だったけれど……。
こういう時だけは、ちゃんとこなすイメージのある人だと思っていた。
だから、劇中に蜜柑が油断していたことが失態だった。
どさくさに紛れて視界が悪いことを利用し、胸や下半身ばかり触ってきて――。
絶対に声を出せない状況。
そして、蜜柑が抵抗しても問題ないように作られた環境の中で。
何度も、何度も。
こねくり回すようなその手つきで。
「――ッ!?」
思い出しただけで、背筋がぞわっとする。
今でも、あの人の手の感触が体の中に残っている。
ほんとに、噂通りのただのスケベ野郎だった。
あのクズ……じゃなかった。
秀太先輩は、行為中に意味不明なことばかり呟いていたし。
「ふざけないでよ……」
もう何を考えているのかはさっぱり分からないけど……これが終わったら絶対に警察通して事務所の方に訴えてやるんだから。
もう蜜柑、許さないもん。
あんなにいやらしい手つきでこの大事な体を弄んでくれた罰……。
『ダイヤモンド・プレッツェル』の権力がいかに大きいかなんて、そんなの関係ないし。
もう、絶対の絶対に天罰を下さなくちゃ、私の腹の虫が治まらない。
こうなったら、もういっそマネージャーにも連絡して状況を説明――。
って、え?
ちょっと待って。
蜜柑のスマホ……ここに置いてたはず。
なのに、どうして無いの。
もしかして、どこか落としちゃったとか?
いや、違う。そんははずはない。
だって、この蜜柑がそんな失態を犯すはずが無いもん。
お芝居が開始する前は、ちゃんとこの場所に管理していたし。
部屋を出る時も……鍵がかかっていたはず。
だから、誰かが盗んだなんてことはあり得ない。
それに、今も部屋入った時は誰かが居た気配すら感じなかったし。
「ほんと、何なの一体……」
はあ……もう面倒臭い。
後で探さないといけないとか……。
本当はマネージャーにこういうのは頼むところなんだけど。
関係者も控室で見守るのが通常。
だけど、今回はなぜか外で待機する手筈になっているし。
「バカみたい。蜜柑がこんなに頑張ってるのに……」
そうこう考えている内に、時間は徐々に過ぎていく。
この後、衣装を変える予定は入っていないため、時間ギリギリまで休憩は取ることが出来る。
それまでに、この酷い顔だけはしっかりと治さなければならない。
ただ、頭が回らないせいか正常な思考判断が出来ない。
この数分間で回復する保障はどこにも無いのだ。
でも、第二幕の後半戦は、後たったの四十分間のお芝居。
その間だけ、蜜柑は我慢すれば良いだけのこと。
そして、終わったら即通報するだけだ。
あのクズとはもう二度と関わることも無いし、話すことも無いだろう。
蜜柑の事務所もそこそこ大きいから、世間に知れ渡るのも時間の問題だ。
だからこそ、私自らがアイツに今までセクハラされてきたことを訴えてやればいい。
蜜柑以外にも、被害者はたくさんいるし。
その人たちのためにも、一肌脱いであげないと。
「はぁ。ダメダメ蜜柑。ここはちゃんと切り替えないとっ」
両手で頬を叩きながら、無理やりそう言った。
今となっては空元気にしか聞こえないかもしれないけど……。
とにかく。
ラストスパートに向けて、蜜柑は『マリナ』役として完璧に演じきる。
この瞬間だけは頑張る以外に他は無し。
どれだけ嫌がらせされようとも、一時間後にはもうハッピーだ。
うん。流石は私。
ちゃんと自己分析も出来てるし、精神状況も落ち着いてきている。
このまま後数分間、体を休めれば。
いつも通りの影山蜜柑になって――。
「……?」
そう思っていた時。
何かがおかしいと感じた。
今まで、人の気配が無かったはずなのに、急に後ろから誰かの吐息が聞こえる。
この待機室では、鍵をかけているから誰も入っては来れないはず。
なのに……なぜだろう。
この瞬間、先ほどの劇中と同じかそれ以上に。
恐怖染みた存在を、気を感じるようになったのは。
否。そんなことはあり得るはずが無い。
だって、だって。
この部屋には、蜜柑一人だけしか居ないはずなのだから。
だから、自分の他に誰かが身を潜んでいただなんて、頭の片隅にも無くて――。
そうだ。きっとこれは耳鳴りか幻覚の類なる物に違いない。
そうでなければいけない。
こんなこと、許される訳がない。
だけど、蜜柑はこの時。
声を出す勇気が無かった。
今まで取り戻しつつあった心が、再び闇に飲み込まれていく。
違う。違う。違う。
そっちに行っちゃ駄目だ。
足元を掴まれては絶対にダメ。
ここで行動を起こさないで、いつ起こすと言うのだ。
そうして、何とか意識を保ちながら後ろを振り返って見ると――。
「な、なんで。どうして……?」
突如の動揺。
そして、一瞬の隙と迷い。
それが、影山蜜柑が押し倒されるには、充分すぎる時間だった。
どうして、私は今。
この男に押し倒されているのだろう。
え、なに。
いつからこの部屋に居たの。
もしかして、最初から……?
いや、そんな馬鹿な話は無い。
だって、今まで何の物音もしなかったはずなのに。
行く前だって、鍵かけてたし。
え、ちょっと待ってよ。
蜜柑、そんなの聞いてない。
っていうか。
な、何そんなに興奮しちゃってんの。
本当にバカじゃないの。
もう、やめてよ……。
い、嫌……っ。ヤダ……。
だ、誰か。誰でも良いから助けてよ。
こんなの、絶対に駄目に決まってる。
何でこんな変態と私が密着なんかして……。
う、嘘でしょ。
蜜柑の初めてがこんな奴なんかに……?
無理やり押さえられているせいで、力が全く出てこない。
抵抗しようにも、声を必死に上げようにも掠れ声しか発せない。
ただ、ひたすら拒絶の意を示すだけの行為。
何も意味の為さない行動。
誰も助けに来てくれないこの状況。
防犯カメラも無い。
部屋の明かりも付けていない。
薄暗くて、だけど輪郭だけははっきりしている。
こんな馬鹿みたいなことに付き合ってる暇は無いって言うのに。
嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だよ――。
何でも言うこと聞くから……。
もう生意気なことは一切言わないって約束するから……。
だから。今は。
今だけは見逃して――。




