第??話 あの頃のお話①
ここで、少し昔話をしよう。
これは私、水瀬彩夏が彼……斎藤大介という男と出会うまでのお話である。
当時は、十年ほど前だっただろうか。
まだ、私が国民的女優として活躍していなかったあの頃。
その時からマネージャーになった片桐さんという女性を……自分はとても信頼していた。
彼女とは五年間の付き合いで、私が十三歳の年になった時からずっと傍でサポートしてくれた人だ。
あの頃の自分は……いわゆる男性恐怖症という病にかかっていたため、あの時の片桐さんには本当に感謝してもしきれないくらいだった。
なぜ、私がその病にかかってしまったのか。
母親が女優をやっているということもあって、小学生の頃から薦められた私は六歳というとてつもない若さでこの業界に入った。
母親が大女優を務め、父親は大企業の社長。
そんな裕福な家庭に生まれた私は、当初から周囲に嫉妬といじめの嵐に包み込まれながら生活してきた。
そんな、周りに嫌われる自分自身が嫌で、親に転校するように何度も泣きながら懇願したことは今となっては苦い思い出だ。
友達との付き合いが上手くいかない。
学校では集団の中に入れてもらえない。
そんなことは私の中では日常茶飯事だった。
むしろ、それが普通の事だと思うまでに時間がかかってしまった。
しかしながら、私が八歳の頃。
この芸能界に入って私が男性のことを嫌うようになった出来事が起こった。
それは、片桐さんの前のマネージャー……坂田哲人という男が原因だった。
彼のことは『てっちゃん』という愛称で呼ばれており、今まで何人もの子役のマネージャーとして務めあげてきたことから、評判が著しく高かった。
私もその時は、母親から告げられて少し緊張感はあったものの、悪い気分はしなかった。
「君が……水瀬彩夏ちゃんだね? 僕の名前は坂田哲人。気軽にてっちゃんって呼んでくれると嬉しいよ!」
「は、はい……。あ、でも最初からそう呼ぶのは抵抗があるので……哲人さんでお願いします」
「はは! 流石、あのお方の子供は一味違うなぁー! うん。良いよ。君だけ特別にそう呼ぶことを許可してあげよう」
「あ、ありがとうございます……」
思えば、最初に出会った時から違和感を感じていた。
もっと早く気づいていれば。
もっと早く周りに助けを呼んでいれば。
今の自分はもっと明るく振舞えていたかもしれないというのに。
そう後悔していた。
そして、数か月後。
いつの間にか、その坂田哲人という男は、私の専属マネージャーになっていた。
「彩夏ちゃん。この後のスケジュールはバラエティの収録があるから、しっかりと顔を整えないとだよ?」
「はい。あ、でも他の女性の方がやってくれるので……哲人さんはここまでで良いですよ」
「いやいや! 何を言っているのさ彩夏ちゃん。君のことをケアするのはぜーんぶこの僕の仕事なんだから。だから、こうして見守る仕事もやらなくちゃいけないんだよ……分かってくれるかな?」
「は、はい……。あ、あの。本当に見てるだけ、なんですよね?」
「はは。当たり前じゃないか。僕がこれまで君を不快にさせたことはあったかな? ん?」
「……ない、です」
それからだろうか。
この会話を皮切りに、彼からのボディタッチが増えるようになったのは。
最初はまだ、からかっているだけだと思っていた。
大人という人は、子供に悪戯することが多いなんて話はよく聞いたことがある。
本でも読んだことがあるぐらいだ。
そして、過去に担当を受けていた子も皆が口をそろえて言ったセリフがある。
あの人はすごく優秀なマネージャーである、と。
そんなこともあったからか、自分は彼の指示に従うことが全て正解なのだと思っていた。
坂田哲人という男に付いていけば、何かしらこの業界で自分の長所をもっと伸ばせられると……そう信じていた。
なのに――。
「あの……これ。どう考えてもおかしくないですか?」
「ん? 何がだい、彩夏ちゃん」
「こんな狭い場所に連れてきて……しかも着替えろって」
「うん。そうだよ。でも、それの何がおかしいんだい?」
「そ、それは――っ」
「僕は君のマネージャーなんだよ? しかも、この評判の高い僕が君だけの、ね。普通なら、こうした密室で二人きりになれるなんて、光栄なことなんだよ?」
「い、意味が分かりません。それに、こういうのは絶対に良くないと思います。こ、ここまで二年間、哲人さんと関わってきましたけど、こんな変なことは一度も――ッ!?」
一瞬、何が起こったのか理解が出来なかった。
状況を判断するまでに時間がかかってしまった。
私は、床に押し倒されていたのだ。
目を開けた瞬間、自分の上に覆いかぶさるように彼が居た。
この時からだろうか。
自分が男性に対して、明確に『怖い』という感情を持つようになってしまったのは。
しかしながら、私は抵抗することが出来なかった。
体が思うように動かない。
思考もいつも以上に鈍っているせいか、何をどうしたら良いか分からない。
「君は他の子たちとはレベルが違う……。演技もそうだし、顔も体も……うん。これからの未来が本当に楽しみなくらいにね」
「あ、あの……哲人、さん? さっきから何を言って……」
「そもそも、君が可愛すぎるのがいけないんだよ彩夏ちゃん。他の子役達よりも君の方が何百倍も可愛い。だから、こうなってしまうのはしょうがないのさ」
「こうなってしまうって……どういうことですか」
「ん? そんなの、君の体の成長を見ることに決まっているじゃないか。マネージャーとして、君の健康状態を見るためにもとても重要なことなんだ。だから、まずは上の服から脱いで――ッ!?」
そうして手を掛けられる前に、私は彼に平手打ちをしていた。
反射的にだろうか。
それとも、思わず手が出てしまったというべきだろうか。
私、水瀬彩夏はこの時……初めて人に暴力をふるってしまった。
母親と唯一、小さい時から約束してたことがある。
それは、誰に対しても優しくすること。
困っている人がいたら見捨てずに助けること。
そして、他人に対して暴力を振るわないこと。
この三つだけは守ってちょうだいと、固く言われたのを思い出す。
だが、私はそのうちの……最後の約束を破ってしまったのだ。
「君……。この僕に逆らったらどうなるか……分かってるんだよね?」
「ご、ごめんなさい……。で、でも。こういうのは絶対に間違ってると思ったから――キャッ!?」
言い終わる前に、強く体を押さえつけられる。
十歳の子供では到底抗うことの出来ない強さ。
女の子なら尚更だ。
だからといって、こんな横暴が許されるとは到底思えない。
この男は……確実に狂っている。
そう、確信した。
しかしながら、この後。
幸運なことに、警察の人達がこの場所に駆けつけてくれた。
なんと、この部屋には隠し防犯カメラが作動していたのだ。
ちょうど、事務の人から通報を受けたのだろう。
坂田哲人はその場で現行犯逮捕された。
なんでも、後から調べた情報によると、余罪がいくつも見つかっているらしい。
私以外にも、被害が出ている人が何人もいるらしいのだ。
あんな気持ち悪い人が私のマネージャーだったのだと思うと、吐き気がする。
そのぐらいに……私の心は傷ついてしまったのだ。
当時のことはあまり思い出したくない。
しかし、後で楽屋に戻されて、母親に強く抱きしめられたことだけは今でも鮮明に覚えていた。
「ごめんね……彩夏。わ、私が、ちゃんとあの時気づいていれば――ッ!」
「んーん。お母さんは何も悪くないよ。それに私は無事だったんだから、そんなに泣かないでよ……」
母親はそんな私を見て号泣してしまった。
子供である私が、親の涙を見るのは初めてだった。
その時の感情は、貫かれたように胸が痛く、心が突き抜かれたような感じだった。
今まで、あれほど痛い思いをした日は人生の中であまり無いだろう。
しかし、自分は強い女性になるのだと決心した。
両親にも迷惑をかけないように、これからは自分自身が強くならなければならないと。
そうしないと、この芸能という厳しい世界では上にあがっていけないのだと確信をしていた。
だが――。
「え……男性、恐怖症ですか?」
「ええ……見た所によると、あまり良くない傾向にあるみたいです。おそらく、先月にあった事件が原因でしょう」
「そ、そんな――っ!」
医者にそう言われた時は、愕然とした。
ある違和感があったことをきっかけに、私と母親は都内の精神病院に訪れていたのだ。
そうなった経緯については、話すとかなり長くなるのでここでは省略するが……結論から言うと、男性の人と話すことが出来なくなってしまったことが一つの要因だ。
主に、この病気は思春期以降から結婚するまでの若い女性に、比較的多く見られると言われているらしい。
「せ、先生……彩夏は、いつになったらこの病を治すことが出来るんでしょうか」
「とりあえず、今できることは限られています。週三で良いので、この病院で担当の人からカウンセリングを受けること。そして、今日から抗不安薬などの治療薬も渡しますから、それで一度様子を見てみましょう」
「は、はい。分かりました……先生。お忙しい中、本当にありがとうございます」
そうして、私は母親と医師が会話をしているのを聞きながら、茫然としていた。
まさか、自分がこんなことになるなんて思ってもいなかったからだ。
それに、あの時。
泣いている母親の姿を見て、自分は強くなると誓ったではないか。
それなのに、肝心な自分の心が限界を迎えていただなんて――そんなの。
「ね、ねえお母さん。わ、私……これからどうすれば良いの?」
「彩夏……。貴方はしばらくこの病院に通うことになるわ。少し辛いかもしれないけれど……我慢できる?」
「で、でも――っ! そうすると自分の仕事が――」
「ダメよ。そんな状態のままでやったら、ますます悪化するわ。だから、これからしばらくは学業と治療に専念すること。いいわね?」
「……うん。分かった」
それから、私は三年ほど仕事を休み、病院での治療は中学一年生の夏まで続いた。
この空白の三年間は、私立の中高一貫に受験するため、必死に勉強していた記憶がある。
自分は地頭が良い方ではないので、他の人と比べて学習能力は高くなかったのだが、日々の努力の成果もあってか、無事に目的だった女子校に入ることが出来た。
しかしながら、肝心な病の方に関しては……完治することはできなかった。
男の人と話せる所までは回復したが、どうも視線を合わせることや接触することは未だに出来ないらしい。
そのぐらいに、あの男……坂田哲人という人から受けた傷は凄まじく、深かった。
だが、そんな暗くてどうしようもない私を、こんな自分の居場所を作ってくれた人達がいた。
「ねね。彩ちゃん。この後、一緒に食堂行かない? もちろん、この子を置いてくのは確定だけど」
「あー! ずるいよ瑠衣っち! 彩ちは私のものなんだから、そーゆうのは禁止っ! ってことで彩ち、私と二人きりでベランダにいこっ?」
「もうあなたたち……。三人で食べるという発想は無いのかしら」
日比山瑠衣と中山陽菜。
この女子校に入ってから、新しく出来た友達だ。
二人とは、同じクラスメイトであり、入学して早々に仲良くなった。
私から話しかけたというわけじゃないけれど……向こうからの友達猛攻撃にやられてしまったという形だ。
それ以外にも、中にはたくさん私に話しかけてくれる人が一杯いた。
そこで、私は一つだけ違和感を感じた。
それは、小学生の頃と違って、妬みや憎しみに溢れたあの時とは断然違うこの光景である。
家庭のことや、容姿のこと。
それに、私が芸能の世界で子役として活躍していたことなど……。
様々な理由でいじめられるのかと覚悟していたのだが、そんなことは一度も起こらなかった。
そういう事実に、違和感を感じずにはいられなかった。
だから、自分は二人に聞いてみたのだ。
どうして私なんかに優しく接してくれるの、ということを。
「え……? ちょ、急にどうしたん彩ちっ!? そんなに私達から頭グリグリされたかったのっ!?」
「もうっ! 違うでしょ陽菜。きっと彩ちゃんはお昼ご飯食べて眠たくなってきたから、膝枕してほしかったんだよ。ということで彩ちゃん、陽菜の膝の上においで?」
「ちょちょちょーいっ!? なんだその難解なパズル読み解きは!? あ、でも確かに膝枕って罰ゲームとしてはアリか……!?」
「……二人とも、さっきから全然言っていることが理解できないのだけれど」
困惑した私をよそにして、二人で勝手にギャーギャーと騒いでいる。
かなり真面目な質問をしたつもりが、どうしてこうなってしまうのだろうか。
だが、その謎の言い争いが終わった後に、二人は私に対して真剣に答えてくれた。
「さっきの質問の返答だけどさ……。そんなの、彩ちのことが好きだからに決まってんじゃん。それ以上の理由は無いよ」
「うんうん。というか、むしろ可愛すぎてイジメたくなっちゃう的なことは私達、結構やってるけどね。でも、私も彩ちゃんのことが好きだからっていうのが理由かなー。普段から一生懸命頑張っている所、私いつも見てるし」
その二人の言葉を聞いた瞬間、私の目から溢れてはいけないものが出てきた。
どうして、私は泣いているのだろう。
そう思った時には、次から次へと頬へ伝う涙は止まらなかった。
止めることが、出来なかった。
「え、ええええええ!? ま、待って彩ち!? どうしたのさ急に泣いて!? わ、私何か酷いこと言っちゃった!?」
「あ、彩ちゃん……。もしかして、私の愛が足りなかった……? う、うう……膝枕以上に愛情を捧げる行為って何だろ……」
「ちょちょちょちょ!? る、瑠衣っちも気を取り直して!? って、ああなんかもう壊れてるし!?」
私の姿を見てか、二人ともあたふたとしてどうすれば良いか分からない状態だ。
陽菜の方はああ見えて冷静な子で、すかさず私の方にティッシュを何枚か渡してくる。
言動と行動がもう少し一致すれば、話しやすくなるのだけれど……。
それでも、きっとこの二人は誰に対しても優しい性格をしているのだと思った。
こんな私が、他の人に好きになってもらえる。
その本音が。その感情がとても嬉しくて。
二人が、この私をもう一度立ち直らせてくれる。
そんなきっかけになった。
そうして、時間はあっという間に過ぎていき――。
「ねえ、お母さん。私、もう一度お仕事、頑張りたい」
「駄目よ。少し回復したからって、また悪化する可能性が高いんだから。それに、先生にも完治するまでは復帰しない方が良いって言われたでしょ?」
母親からの返事は即答だった。
だけど、私は諦めなかった。
いや、ここでは諦めたくなかったというべきなのかもしれない。
だからこそ、ここで簡単に退くわけにはいかないと思った。
「うん。でも、もう覚悟は決めてるから。この病気なんて関係なしに、私の味方はたくさんいるんだってことが分かったから」
「――っ! そう……彩夏。あなた、変わったのね」
それから、あの時の母親はダメという主張を最後まで曲げなかった。
しかしながら、時が経つにつれて段々と否定的な言葉が無くなっていき、終いには父親が助け船を出してくれたおかげで、私はもう一度、芸能という世界に戻ることが出来た。
その代わり、条件付きでということにも併せて同意した。
主に、母親が提示したことは三つだった。
まずは、今通っている学校を辞めずに高校卒業するまで勉学に励むこと。
次に、人間関係や仕事関係で不安や恐怖等の感情を抱いた時は必ず助けを呼ぶこと。
そして、母親が指定したマネージャーに必ず従い、何かあったらその人に相談すること。
特に最後の条件に関しては、少し怖い部分もあったが……どうやら今回は女性の人だそうだ。
母親が言うに、百パーセント信頼できる人であるらしいので、彼女がそう判断するのであればほぼ間違いないだろうと思った。
そして場面は――事務所の面談室に移りかわる。
「初めまして。今回、水瀬彩夏様のマネージャーを担当することになった片桐と申します。自分、護身術の心構えがあるゆえ、空手と合気道をそれぞれ有段持っております。ですので、お嬢様には危険を及ぶことは一切ありませんのでご安心を。それから――」
「ちょ、ちょっと待ってくれるかしら。話がぶっ飛びすぎててよく分からないのだけど。え、えっと……護身術のことは一先ず後回しにして。まずあなたは母親とどういう関係なの?」
「はっ。申し訳ございません。ついお嬢様に会える喜びに先走ってしまいました。芹香お母様とのご関係は、昔彼女のマネージャ―業務を任せられた時期が一定期間ありまして。自分は当時SPだったのですが、とあるご縁から抜擢された所存でございます」
「そ、そう……。なんだか最初見た瞬間から強者だなと思ってはいたけど、そういう経緯だったのね」
一時間ほど談話をしている内に、お互いにすぐ打ち解けた関係となった。
彼女の人となりは、少し変わっているが……私からしてみればとても優しい人なのだという印象が強かった。
また、この人が自分の傍についてくれるなら、どんな困難な状況になったとしても救ってくれる……そんな気がした。
そして、ここからまた大きく時間が経過して、三年ほど経ち――。
私は、着々と芸能界の中で実力を身に付けていた。
もちろん、学校の方も中高付属のため、そのまま高校にストレート進学。
ここは大学受験に力を入れているため、高校から入る人もそれなりにレベルが高い。
学業と仕事の両立をすること。
母親との条件にもあったように、この二つを同時に頑張ることが必須である。
しかしながら、言葉で言うのは簡単で、実際にやってみると恐ろしいほどに体力的に辛いものがあった。
睡眠時間はなるべく削らないように。
そして、隙間時間に出来るだけ学校の授業の復習や宿題をやり、終わったら台本や今後のスケジュールをチェック。
特に休み時間は友達と遊ぶ時間もなく、一人で黙々と勉強をしていた。
そんな忙しくなった私は、中学時代から仲の良い彼女らに愛想を尽かされるのではないかと思っていたのだが――
「彩夏ちゃーん! 私も一緒に勉強して良いかな? あ、陽菜の奴は……今日居ないみたいだから二人きりだねっ!」
「ちょちょっ!? 勝手に私の存在消すなしっ!? 昨日は瑠衣ちだったから、今日はうちが彩ちの隣に席取るからねっ!!」
「は、はあ? ちょっと待ちなさいよ陽菜っ! そういう抜け駆けは禁止って毎回言ってるでしょっ!」
「あなたたち……この三年間で一切成長が見られないように感じるのだけれど、気のせいかしら」
そんな私の言葉を他所に、またしても毎日のようにギャーギャーと騒ぐ二人。
中学の時からずっと同じクラスできたため、この二人とは離れずに学校生活を送っている。
一度出来た友達というものは、こうも長く続くものなのだろうか。
「あーあ。私らももう高校生になっちゃったかー。大学のことなんて今から考えられないや」
「もう陽菜ったら。そんなことばっかり言ってたら、あっという間に成績落ちていくわよ?」
「ふふ、そうね。今の内から勉強しておけば、三年になった時に苦労せずに済むしね」
「ちょっ!? 二人ともなんか未来像高すぎない!? 私だけ置いてかないでよー!!」
そんなこんなで私達は高校に入っても、こうしていつも通りの学校生活を送っていた。
仕事で私が二人と話す時間が減ったとしても、その友情は中学の時から変わらなかった。
私はきっと、今この瞬間。
良い時間を過ごせているのだろう。
高校を卒業してしまったら、お互いそれぞれの異なる道に進むため、こうして会うことも話すことも難しくなってくる。
そうなる未来が待っていたとしても、今友達と過ごすこの時間は大切なのだと、身に染みて感じるようになった。
そして、また数週間が経ち。
この私の芸能活動に――一つの転機が訪れた。
「私が……あのダイヤモンド・プレッツェルの事務所に、ですか?」
「ああ、そうだ。お前はもう立派な女優だからな。日々の著しい活躍を見て、向こうからアクションを起こしてきた。しかし、うちの事務所としてはお前にはここに残ってほしいと思っている」
「す、すみません。突然のことすぎて少し混乱が。今ここで決めなくちゃダメなんですか?」
「いや、すぐに決断はしなくて良い。この事は私も先日知らされたばかりだったからな。最大で一週間の猶予がある。来週までに答えを聞かせてくれるとありがたい」
「は、はい……。了解しました」
桂社長の言葉を聞いて、私は驚愕した。
まさか、自分があの有名な大手事務所。
『ダイヤモンド・プレッツェル』からお誘いを受けるとは思わなかったからだ。
私は今、人生の岐路に立たされている。
芸能人として、さらなる高みを目指して前に進むか。
それとも、この事務所でそれなりに貢献して、現状維持を望むか。
この二択を迫られることになったのだ。
だけど、私の中では既に答えは決まっていた。
「ねえ、お母さん。私、事務所移籍しても良い?」
「彩夏。あなた、今よりもさらに忙しくなるわよ。それを覚悟して言っているんでしょうね?」
「うん……。お母さんが乗り気じゃないことは分かってる。今所属している事務所にはここまで育ててくれた恩があるし。だけど、私はもっと上を目指したいから」
「そう。でも、今通っている高校はどうするの? あの事務所に移籍してしまったら、学校に行く暇なんて無くなるわよ」
「もちろん学校も行く。お母さんとの約束通り、学業も精一杯頑張るから。だから――」
「無理よ。この話はもうおしまい。今日はもう寝ることね」
「お、お母さん――ッ!!」
バッサリと断られた。
あの時、芸能活動に復帰したいと言った時と似たような光景だった。
だが、それとはまた違う……。
母親からの拒絶するような言葉は……あの日と比べて数段異質なものだった。
それからというもの、私と母親の関係は一気に悪化していった。
毎日の話し合いではほぼ親子喧嘩ばかりしている。
その状況が続くことに耐えられなくて、私は独断であの事務所に移籍することを決意した。
今になって思えば、とても申し訳ない事をしたのだと反省している。
だが、私はあの時誓ったのだ。
自分はもっと強くならなければならない。
自分はもっと上に上がらなければいけない。
そのためには、あの事務所に移籍してもっともっと実力をつける――それが正解なのだと思っていた。
しかし――
「え……お母さんが、倒れた?」
「はい。先ほど、知り合いからの情報のよると、CM撮影の途中で倒れたようです。既に病院に到着して治療を受けていますが、おそらく疲労ではないかと――」
「片桐さんっ。今すぐにその場所まで、私を送ってくれる?」
「はっ。かしこまりました」
そうして、私は居ても経ってもいられずに病院に向かうことになった。
この時、私は自身を責めた。
おそらく、自分が我儘ばかり言ったせいだ。
甘えてばかりで、ただ駄々をこねている子供が、愛する母親に対して傷付けてしまったのだと。
病院に向かっている車の中で、私はそのことばかり考えていた。
そして数十分後。
着いた時には既に何人か集まっており、その中には父親がいた。
詳しい話を聞いたところによると、どうやら片桐さんの言った通り、過労で倒れたらしい。
日頃の仕事の疲れが溜まっていたのか、あまり休みも取っていなかったようだ。
よくよく思えば、つい最近から妙に顔色が悪かったような気がした。
その上、あの時私が移籍するという話で揉めたことから、さらに彼女の心に負担がのしかかったのだろう。
しかしながら、病室に入ると、母親は点滴を受けながらも元気な姿で私を迎えてくれた。
あんな酷いことをした自分に、そんな優しい顔を向けるなんて……どういう神経をしているのだろうか。
こっちは心配で心配で泣きそうになるくらい不安になっていたというのに。
「彩夏……ここ最近、怒ってばかりでごめんね。あなたの気持ちも考えないで、あんな酷いことを言ってしまった私は……母親として失格ね」
「お、お母さん……! ど、どうしてそんなこと言うの? そ、それだったら私の方だって――ッ!?」
言い終わる前に、強く抱きしめられた。
ほんのりとした香りと、全身を包み込むような温かさ。
あの時と同じだ。
私が十歳の頃。あの事件が起きた後に、楽屋で抱きしめられた時と同じ感覚。
そんな昔のことを思い出した私は、思わず号泣してしまった。
ここに自分の大好きな母親がいる。
たまに言い合いになって、大喧嘩することも今までたくさんあったけれど。
それでも、世界で一番大好きな人が目の前にいる。
今は、今だけは。
それだけで、十分だった。
「お母さん……ごめんね。私のせいで、私のせいで!」
「いいのよ彩夏。あなたは、あなたの進みたいように自由な人生を歩んだ方が良いって。それに……さっき、後ろにいるお父さんも同じことを言っていたのよ? ねえ、貴方?」
「んなっ! ちょ、芹香! 彩夏に余計な事を吹き込むんじゃないっ! 俺はただ可愛い娘に元気になってほしくてだな――」
「もう……。お父さんもバカ」
「グハッ!? あ、彩夏……お父さんのこと、これで嫌いになったりしないよな? そ、そうだよな?」
「ふんだ。お父さんなんてもう知らない!」
「グハァッッ!?」
「ふふ……もう彩夏ったら。ここにきてまた反抗期が来たのかしらね」
こんな、温かい会話をすることが嬉しかった。
特にお父さんに対しては結構辛辣な態度を取ってしまっているが、これはいつものことだ。
大体、私の父親は娘愛が強すぎる。
その影響もあってか、小さい頃から私はこのような言動をしてしまうのだ。
だけど、もちろん。
そんなお父さんも……お母さんと同じ。
私にとって、世界で一番大好きな人だ。
「お父さん、お母さん。私――頑張るよ」
そして、私は覚悟を決めた。
あれから――数日が経ち。
私は『ダイヤモンド・プレッツェル』という事務所に移籍した。
入った当初は、仕事の嵐が来るかと思っていたが、その予想は見事に外れた。
なんと、高校を卒業するまではスケジュールを今までと同じように調整してくれるのだそうだ。
いわゆる、融通を効かしてくれたということだろう。
この事務所の社長……井上という男と対面し、マネージャーである片桐さんと交えて契約を交わした。
彼に対しての印象は、とても厳格な人だと感じた。
何事も仕事で成功させることが最優先で、失敗は何一つ許されない。
すべては人の上に立つことが正義なのだと言われた。
それを聞いた私は、この人は少しお堅い人だな、と思った。
しかしながら、この時の私は軽い気持ちで頷き、この業界で上に上がっていくためには彼のような存在が必要なのだと受け止めていた。
横にいた片桐さんは、なぜか険しい表情をしていたが……あれはきっと、この社長と相性が合わないことから来るものだったのだろう。
私も、ああいうタイプの人間はあまり好きじゃなかったが、一度この事務所に入ったからにはその方針に従わざるを得なかった。
そうすることで、女優としての価値が上がるのであれば、それで良いと思っていた。
だが――。
「俺の名前は井上秀太だ! これからは、この同じ事務所に所属している一員として頑張っていこうな、彩夏ちゃん!」
「あ……ええ。こちらこそ、宜しくお願いします。井上君」
「んー? おいおい、固いなあ彩夏ちゃん。これでも一応、俺はあの社長の息子なんだぜ? 最低限、握手ぐらいはしとかないとなぁ?」
「は、はい。えと、その――」
新人としてこの事務所に入った私は、周囲から歓迎会でおもてなしを受けていた。
なんでも、高校生で『ダイヤモンド・プレッツェル』に入る人は中々珍しいらしい。
しかし、私はこの井上秀太という男を……どうも好きになれなかった。
相性が悪いといったら簡単かもしれないが、理由はそれだけではないと感じていた。
それに、私にはまだ完全に男性恐怖症という病が完治していないこともある。
その点もあってか、この場では片桐さんが傍に居てくれたため、先ほどの握手の行為は阻止することが出来た。
「おい……てめえ。今何をした?」
「お嬢様は男性恐怖症という病を持たれています。過去に比べて、現在は回復傾向にありますが……今はまだ、そういった接触はなるべくしないように気を付けてください」
「ああ? おいお前……誰に向かって言っているのか分かってんのかこら。今、俺が話してるのは水瀬彩夏だ。お前じゃねえんだよ」
「それ以上お嬢様に近づけば、貴方の右腕を一本折ることになりますが? それでも宜しかったら、どうぞご自由に」
「て、てめえ――っ!?」
一触即発になりそうな所で、周りの人達が彼を抑えてくれた。
どうも、酒が入るとああいう悪い部分が出るらしいのだと、他の俳優さん達から聞いた。
しかし、もしこの時――片桐さんが居なかったら。
そう思うと、体の奥底から震えるような感覚を覚えた。
まだ、私はあの時から変われていないのではないかと――そう思ってしまった。
「お嬢様……。本当に、宜しかったのですか」
「え? 急に、どうしたの片桐さん」
「いえ。お嬢様の心が少々心配でして。先日、あのような事があったばかりでしたから、少し休んだ方が良いのではないかと」
「もうっ。片桐さんったら心配性ね。私は大丈夫よ。ちゃんとこの事務所でやっていく覚悟は出来てるから。それとも、私だとやっぱり不安かしら?」
「――っ! いえ、大変失礼致しました。どうやら、お嬢様には要らない心配だったようですね」
「んーん。そんなことないわよ。貴方がこうして私に、少しの気遣いをしてくれるだけでも肩の重荷がだいぶ取れるわ。ふふっ……相変わらず優しいのね」
たびたび、片桐さんからの心遣いが多くなっていた。
おそらく……私自身の精神的な部分を見て言ったのだろう。
でも、私は強くならなくちゃいけない。
ここで、あの過去のトラウマのことばかりに引きずられてはいけないのだと再認識した。
その意思を汲み取ったのか、片桐さんはそれ以上何も言わないようになった。
だけど、そんなちょっとした不安を和らげてくれる彼女の気持ちが、とても嬉しかった。
今度、彼女に何かプレゼントをあげよう。
そう思うくらいに、私は片桐さんという女性を信頼していた。
そして、また時間は大きく経過し――二年半が過ぎた。
あれから、また自分は更に芸能人としてのスキルを身に付け、来春の朝ドラの主役にまで選ばれるようになった。
有名な監督からの推薦で、いわゆる引き抜かれたと言った方が良いだろうか。
私は、女優として一歩ずつ階段を駆け上がることを実感し、胸を躍らせていた。
それもこれも、全部。
今まで私を支えてくれた人たちのおかげであるということも、もちろん忘れてはいけない。
まず最初に、私が芸能活動に復帰することがきっかけとなった――親友達。
この高校の卒業式という華やかな式典を終えて、私たちは教室で最後の別れに直面していた。
「ううう……彩ち、瑠衣ち。わ、私達……本当にここでお別れしちゃうの? ここで、本当にバイバイしちゃうの?」
「も、もうっ! そんな悲しい事言わないでよ陽菜! 別々の道に行くからって、そんなことで崩れるほどの私達じゃないでしょっ」
「うううううう……だって、だってぇー! でも、そんなこと言ったら彩ちなんて、女優の仕事で忙しくなるに決まってるしぃー……」
「まあ、私は大学には行かずに芸能人として歩むけれど……あなたたちのことは一生忘れないわ。今までありがとね、陽菜、瑠衣」
「え、ちょちょちょっ!? なんか彩ち、最後だけ態度冷たくない!? もっと何か感動的なこと言ってくれても良い気がするんだけど!?」
「ふふ……きっと、彩ちゃんは恥ずかしくて本音が言えなかったんだよ。本当は私達のことが好きで好きでしょうがない……だけど、ここで引き留めたら迷惑かけてしまうから……なーんて」
「……ふぇ?」
「――っ!? ちょ、ちょっと陽菜! あ、貴方、さっきから何を言っているのかしら。私はそんなこと一言も――キャっ!?」
突然、陽菜に抱きしめられた。
背中に回された腕の強さから、これ以上離れたくないという気持ちが込められている。
泣いているのだろうか。
私の胸にうずくまって、顔を隠しているから見えないものの、小刻みに体が震えているのが分かる。
そしてその後、後ろからも温かい感触を感じた。
瑠衣だ。瑠衣も、自分の後ろから抱きしめてくれていた。
彼女も、陽菜と同じく……瞼を濡らして、頬には涙が流れていた。
「彩ちゃん……陽菜ちゃん……。本当に、私。この三人で学校生活を送れて……本当に良かったよ……!」
「う、ううううううう……! る、瑠衣ち……今この瞬間にその言葉は反則だってえぇーッ!!」
「ちょ、ちょっとあなたたち……そんなに強く抱きしめられると、苦しいのだけれど」
そんなこんなで、またいつものようにギャーギャーと言い合いながら、時間が過ぎていった。
こんな大切な時間を、この最高な仲間達と一緒に過ごせて、私は幸せ者だなと思った。
家族の愛とはまた違う――心の温度からくる親友の愛なのだと感じた。
そうして、友人達と最後の別れをした後。
私は、校舎前に待機している両親の元へ向かった。
私をここまで育ててくれたことの感謝と、芸能人として歩むことを認めてくれたこと。
そして、こんな我儘な私を愛してくれたことに、最大限の愛情で、私なりに言葉を伝えた。
すると、お母さんは顔を真っ赤にしながら泣き、お父さんに関しては上を向きながら「彩夏が……あの可愛い彩夏が大人に……」なんて言うもんだから、少々恥ずかしくなってしまった。
なんてことを自分は言ってしまったのだろうか。
もうあんなセリフは二度と言わないと、そう誓ってしまうほどに私の顔も赤くなっていた。
この後に仕事の用事があるから、と言って逃げてしまったことは今でも記憶に残っているぐらいだ。
「はあ……ダメダメ。まだ今日という日は終わってないんだから。しっかりしなきゃダメよ……水瀬彩夏」
そう、自分に言い聞かせながら。
私は、片桐さんが待っている車へと向かった。
三月の初旬ということで、雪もだいぶ解けてきたが……まだ完全にアスファルトが見えるところまではいっていないようだ。
制服の上に、厚手のコートを身に付けながらしっかりと前を向いて歩みを進めていく。
決して大きくない歩みだが、それでも、自分のこれまでを振り返るには丁度良い歩幅だと思った。
そして、だんだんと片桐さんの車に近づいていき――
「……え? 誰だろ、あの男」
その時、視界に映っていたのは。
車の前で、私のマネージャーである片桐さんと……横で彼女と話をしている男の人だった。
知り合い、なのだろうか。
それとも、片桐さんの友達……?
いや、外見から見ても自分と同じくらいの年齢だから、それは考えられない。
とはいっても、あの優秀なマネージャーである彼女が、あんな至近距離で話すほどの仲だ。
私の知らない……何かしらの関係があるのだろう。
そう思った私は、勢いよく走って、片桐さんの元へ向かう。
彼女は私の存在に気づいたのか、柔らかな笑みを浮かべながらこちらに手を振ってくれていた。
「はあ……はあ……。か、片桐さんっ!」
「卒業おめでとうございますお嬢様。この六年間、苦しい思いをたくさんしてきたと思いますが……よく頑張りましたね」
「うん……ありがとう。って、そ、そんなことよりも。その隣にいる男の人は一体誰なの? なんか、さっきから随分と親しそうに話してたけど」
「ああ。申し訳ございませんお嬢様。ついついこの輩の言動、態度、その他諸々について今から厳しい処分を下す所でしたから。ですので、お嬢様は何も気にしなくて良いのです。ええ、何も心配はいりません」
「え、ちょ、ちょっと待って? それは一体どういう意味で――」
私がそう聞く前に、片桐さんはその男の人の頭をグリグリしていた。
男の人は「いたたたたっ!? ちょちょ幹さんっ!? 俺、まだこんな所で死にたくないんですけどおおぉぉぉ!?」などと本気で叫んでいたが、彼女の方は悪戯めいた顔をしながらやっていたため、満更でもなさそうだった。
あの強い片桐さんからやられるなんて、可哀想な人だなと、私は思っていた。
だけど――この時の私は、何も知らなかった。
片桐さんが、今月一杯でマネージャーを辞めること。
目の前にいるこの男が、これから六年間、私のマネージャーとして務めることになること。
そして、自分にとってこの男が運命の人になるなんてことは……想像すらしていなかった。
これが、彼――斎藤大介と私が出会った、一番最初のお話。
大好きな彼と出会えた……始まりの物語である。




