69、カチューシャ
窓際の東郷会長は、一人でブラックコーヒーを飲んでいた。
「あ、あの・・・東郷様!」
「ん?」
三番街の僻地にある湖上のレストランにあまり見かけない顔の生徒がやって来たなと思っていたら、どうやら自分に会いに来た子らしいので会長は微笑ましく思った。
「なにかな」
「こ、ここにサインを! 頂きたく存じます!」
「うん。いいよ」
会長は少女のカバンにサインしてあげた。紛失したとき東郷会長のもとに届けられそうである。
セーヌ会は戒律をないがしろにする悪の生徒会であり、方々で嫌われているのだが、近頃は状況が変わってきており、このようにこっそりとサインを貰いに来たり、ラブレターを渡しに来たりする子が増えている。
「あ、ありがとうございます! では、失礼しますっ」
「うん。気をつけてお帰り」
東郷会長が入り浸るこのレストランへはゴンドラに乗らなければ辿り着けないので、帰りは本当に気をつけて欲しいところである。
さて、東郷会長は現在岐路に立たされている。
地道に積み上げてきた布石がまもなく身を結ぼうというのに、必要な駒が充分でなかったのだ。勝機を逃さずこのまま一か八かの勝負に出るか、あくまで慎重に立ち回るべきか、彼女は悩んでいるのだ。
(月乃くんか林檎くんは・・・現れないか・・・)
東郷会長はとある理由で月乃か林檎さんが来るのを待っているが、今のところ音沙汰はない。もし現れたら高い確率でセーヌ会に協力して貰えるという大胆な算段がある彼女にとって、これは外せない人材戦略である。
(日奈くんもまだ・・・セーヌ会を背負っていける状態ではない。ここは待つしかない・・・)
東郷会長は朝露に濡れたの林のごとき静けさで時を待つことにした。実に近寄りがたいオーラである。
その頃、月乃は東郷会長の居場所を探し、小さな体で大聖堂広場を通りかかっていた。
自分が小学生になってしまった遠因を生んだ憎き広場はもう人影まばらであり、生徒たちは皆厳しくなってきた日差しから逃げるため学舎や喫茶店に入ってしまったのだ。日奈様の姿も無かったので小学生モードの月乃はほっとしたようなガッカリしたような気持ちになった。月乃も早くどこかに隠れないとこんがり焼けてしまう。
「あら・・・?」
ひと気のない西大通りの真ん中を、目を輝かせてキョロキョロしながら歩く怪しげな少女がいるではないか。まるで深夜に王宮を抜け出してきたお姫様である。
「桜様。桜様。こんな暑いところで何をしてますの? 暑さでおかしくなっちゃいましたの?」
「あ! 小桃ちゃん。こんにちはぁ!」
桜ちゃんは人懐っこい笑顔で月乃の髪やほっぺをなで回した。暑苦しいおねえさんである。
「今私、お散歩中なのだ」
「そ、そうですのね。じゃあわたくし用事がありますので・・・」
「用事? 私も手伝ってあげるよっ!」
「け、結構ですわ」
桜ちゃんの腕の中から抜け出そうと月乃がもがいていると、第四学舎の窓からさらに面倒な声が聞こえてきた。
「あーら♪ ちょうどいいところに♪」
足首をひねったばかりのリリーさんが保健室の窓から顔を出したのだ。ケガした日くらい大人しくしていて欲しいところである。
「桜ちゃーん、小桃ちゃーん。おいで♪」
美しい金髪が陽の光を浴びてきらきら輝いていた。
「どうしてわたくしがこんな目に遭いますの・・・?」
月乃は自分の頭上に乗ったふわふわの白い耳を激しく恥じていた。このようなふざけたカチューシャを身につけたのは生まれて初めてである。
「あの、桜様・・・わたくし、これ取りますわよ」
大通りを歩いているとカフェやレストランからの視線が非常に痛いので、月乃はこっそり「つかれウサギなりきりカチューシャ」を取り外したが、すぐに桜ちゃんがにこにこしながら何も言わずに頭の上に戻してしまった。ちなみにこのウサギの耳の裏にはでかでかと「I am so tired」と記されている。
「ふふっ」
隣りを歩く桜ちゃんはとってもご機嫌で、保健室のリリーさんに貰った大きなぬいぐるみのおでこに自分の顎をうずめて鼻歌をうたっている。どういうわけかリリーさんは桜ちゃんにプレゼントを贈ったのだが、一緒にいた小桃ちゃんにも何かあげないといけないと無用な気遣いをしたらしく、月乃もウサギグッズを手に入れてしまったわけである。こんな姿を日奈様に見られたら月乃は恥ずかしさのあまりその場にうずくまり本物のウサギのフリをしてやり過ごすかも知れない。
「桜様・・・そんなぬいぐるみどうしますの」
桜ちゃんはぬいぐるみの首の辺りをもみもみしてから「もちろん、部屋に飾るんだよ!」と言ってニッコリ笑った。セーヌ会の少女からの贈り物を部屋に飾るのは普通憚られるのだが、良くも悪くも彼女に常識はないからこうして素直に笑えるのである。そんな彼女を月乃はちょっぴりうらやましくも思ってしまった。
「あ! 西園寺会長っ」
「え!」
桜ちゃんの言う通り、西大通りのアーチ橋の袂に、黒い日傘を差した西園寺様が立っているではないか。ちなみにこの学園で売っている日傘のUVカット率は100パーセントである。
「西園寺様っ。こんにちは!」
月乃が自分の頭についたかわゆい耳を外す事を思いつくより先に桜ちゃんが西園寺様に声を掛けていた。
「こんにちは。桜さん。それに、小桃も」
「ど、どうも。ごきげんようですわ・・・」
山から下りてくる風は天然のエアコンであり、ついでに小川を吹き抜ける空気も涼しいので、西園寺様が立っているここは実は隠れた納涼スポットである。
「二人とも、何をしているの。お散歩?」
「はい!」
月乃が何かクールな釈明を考えるより先に桜ちゃんが話を進めてしまう。
「今日は特に暑いわ。一緒にどこか屋内へ行きましょう」
墨を流したように黒く艶やかな西園寺様の髪がふんわり風に揺れたので、月乃は思わずぼうっとなって見とれてしまった。冷たい表情、凛とした瞳、品のある物腰・・・やっぱりこの人は最高にかっこいいお嬢様だなと月乃は思った。小学生になっていると何もかもが大きく鮮やかに見えるから、人の魅力が素直に感じられる。
「イチゴチョコクレープ、二つ下さい!」
「はい」
桜ちゃんはなぜか自分のクレープだけでなく、月乃の分までクレープを注文した。
「ちょ、ちょっと! わたくしは要らないって言いましたわよ」
「いいのいいの♪」
桜ちゃんはウサギのぬいぐるみのお手々を操って小学生の月乃の頭をぽんぽんと撫でた。
「うぅ・・・」
なぜか月乃はこの時、日奈様のことを考えてしまった。同じことを日奈様にされたらきっと頭がどうにかなってしまう。
ちょこっと待って、月乃は大きなクレープを受け取った。
(なな、なんでわたくしがこんなものを・・・!!)
月乃にとって、かわいい包み紙がくるまっているクレープは未知の食べ物である。
三番街にある、クレープが美味しいと評判の喫茶店にやってきた三人は、ボックス席に座ることになったのだが、桜ちゃんの隣りに月乃が腰掛けると、なぜかその隣りに西園寺様もやってきた。この席はどう考えても二人席なので、三人が腰掛けるとちょっと狭い。
(さ、西園寺様!? どうしてこんなに寄ってきますの?)
これには西園寺様の事情がある。
あまり知られていないのだが、西園寺様は子供が大の苦手である。
本人は母性に溢れており、小桃ちゃんや桜ちゃんを見ていると胸がくすぐったいような心持ちになるのだが、とにかく彼女らとの接し方が分からないのだ。お嬢様教育を受けてきた少女がみんなこうなるわけではないのだが、西園寺様の場合はベルフォール女学院を意識した無表情教育だったから、愛情表現が極端に下手なのだ。
ボックス席に座る時、西園寺様は考えた。
(先輩が後輩の面倒を見るのよね・・・)
そのためには向かい側の席ではなく、隣りに座る必要があるのだ。西園寺様はこの喫茶店に来たのは初めてだし、そもそもボックス席に腰掛ける機会すら少ないので、ちょっと距離感を誤ってしまったのだ。
(あら・・・少し窮屈かしら・・・)
小桃ちゃんの隣りに座ってから西園寺様はそう気づいたのだが、今から席を替えていては自分が無駄な動きをしたということになり、お嬢様道に反する。もう動くことは出来ないのだ。
月乃はクレープの食べ方を知らない。
別に食べ方もなにも、ただ上の部分からぱくぱく食べればいいのだが、先程ガラス越しに見たクレープ生地の美しい焼き方とその手際を見る限り、知る人ぞ知る何か特別な作法があっても不思議ではない。今は小学生モードなので旅の恥はかき捨てみたいな感じだから、失敗しても気にしなくてもいいのに、月乃のプライドは年中無休で高いからしょうがないのだ。
西園寺様が小学生の小桃ちゃんを伴って喫茶店に来たという噂はあっという間に広まり、周辺の寮から見物人が集まってきたから、いま月乃は大勢の視線の的になっている。
(こ、こうですの・・・?)
上品に食べるためのスプーンが添えられていたのに気づかないほどアガっていた月乃は、そのままクレープにかぶりついた。
「ん・・・」
ケーキの一番美味しいところだけを集めて可愛い服を着させたような食べ物だった。
(な、なんて・・・恐ろしい美味しさですの!?)
小さなお口いっぱいに広がった甘い時間に月乃はぴったり動きが止まってしまった。自分の表情が変わってしまいそうなトラブルに見舞われた時、月乃は大抵石のように固まるのだ。小学生にならなければこんな物を食べる機会などなかっただろう。
西園寺様はアイスコーヒーのグラスの反射を利用して小桃の様子を見ていた。お嬢様は可能な限り首や目を動かさずに状況を把握する能力に長けている者が多い。
(小桃・・・口の周りにクリームがついているわ)
西園寺様は発見してしまったのだ。クレープの衝撃的美味しさに思考が停止している月乃は、自分の口の周りにまで注意が及ばなかったのだ。
(拭いてあげたほうが・・・いいのかしら・・・)
西園寺様は一切表情を変えないまま、内心慌てていた。妹がいるわけじゃない西園寺様は、このような小さい子と一緒に暮らしたことがないので上手くお世話する自信がないのである。
(片手で拭いて・・・もう片方の手はどうすべきなのかしら・・・。拭くのはハンカチ? それともテーブルナフキン? 小桃に嫌がられたらどうしたらいいの・・・難しいわ・・・)
色々考えた挙げ句、西園寺様は勇気を出してテーブルの紙ナフキンに手を伸ばした。
「あれ? 小桃ちゃん、お口の周りクリームついてるよっ」
西園寺様は手を止めた。世話好きな飼育員少女桜ちゃんが小桃の様子に気づいてさっさと口の周りを拭いてくれたのだ。
(遅かったわ・・・)
西園寺様は手に行く先を流れるように変更し、アイスコーヒーのグラスを手にして口元へゆっくり運ぶと、涼しい顔でストローをちうっと吸った。このように西園寺様は人知れず色々なことを考え、心を揺らしているのだ。人形の学園の女王として生きることは一般生徒が考えている以上に難しい。
「それじゃあ小桃、気をつけてね」
「は、はい」
逆さまの夕焼けが揺れる水面にボートは浮かんでいた。
桜ちゃんが「そういえば小桃ちゃん、何か用事があったんじゃないの?」という比較的ありがたい事を言ってくれたので、小桃は東郷会長を探している旨を切り出すことができた。なんで東郷会長に会いたいかは秘密なのだが、西園寺様はその点には触れず、「そう。それなら、近くまで案内するわ」と言ってくれた。なぜ東郷会長の居場所を知っているのか不明だが、とにかく月乃と桜ちゃんと西園寺様は三番街の湖畔にやってきたのだ。
「私はここまでよ」
西園寺様の含みのある声に月乃は身が引き締まる思いだった。この辺りは本来ロワールの人間が立ち入るべきでない領域なのである。
「んー、それじゃあ、私も帰ろっかな」
「え・・・」
「さようなら、小桃ちゃん! 西園寺様! 今日は楽しかったです!」
桜ちゃんともここでお別れだった。完全に桜ちゃんをボート漕ぎ係にしようとしていたお嬢様月乃には大きな誤算だった。以前ここには林檎さんと一緒に来たがその時も月乃はゴンドラを漕いだのでオールの扱い方はなんとなく分かっているのだが、何だが惜しい気分である。
(いいですわ。桜様がいないほうが、しっかりお話できますもの)
一人になった月乃は両手で頬をぺんぺんと叩いて気合いを入れてからゴンドラに乗った。この辺りは蚊が多いから急がないと美肌を狙われる。
「誰も来ないか・・・」
朝からずうっと同じ席でブラックコーヒーを飲み続けている東郷会長はもうレストランのインテリアの一部みたいになっていた。ヒグラシの声に耳を傾けながら過ごす夏の夕暮れも乙なものだが、できれば何か進展が欲しかったところである。
「今日は帰るか・・・」
長いスカートを翻して席を立った東郷会長は、レストランのカウンターの前に、肩で息をして立つ小さな女の子を見つけた。
「キミは・・・」
東郷会長の声に振り返った小桃は、一瞬怯えたような目を見せたが、すぐに背筋をビッと伸ばして会長の正面に立った。
「こ、こんばんはですわ」
「やあ。こんばんは。保健室にいなくても大丈夫なのかな?」
「はい、あ、その、大丈夫ですの。今日は」
どうやら自分に会いに来た様子なのだが、サイン目当てでなさそうだなと東郷会長は思った。
「ちょ、ちょっとおは、お話がありますの」
蚊帳テラスというのは、虫がブンブン飛んでる季節でもレストランの屋外ゾーンをお嬢様エリアとして死守するための和洋折衷の設備である。
「どうぞ」
「ど、どうもですわ・・・」
なぜか月乃はケチャップライスをご馳走して貰えた。あまり東郷会長に借りを作りたくないのだが、当然のように注文されると断るタイミングがない。
晩ご飯を食べにた生徒たちでレストランは徐々に賑わってきているが、恐れ多くて東郷会長がいるテラスには顔を出さず、窓から二人の様子を楽しげに覗いている。おそらくマドレーヌハウスの生徒たちなのだが、明らかに笑顔が多い。
(どうしてそんなに笑顔を見せますの・・・)
南側の生徒たちの考えることは月乃には分からない。
「それで、私に何か用かな」
この湖のホタルの蘊蓄を長々と語っていた東郷会長が、急に話題を転換したので月乃はスプーンを落としそうになってしまった。ちなみにここのケチャップライスはとっても美味しい。
「いや・・・その、別に・・・」
「え?」
東郷会長は爽やかに笑い出した。自分がおかしなことを言ってしまったのかと月乃は耳を赤くしながら発言を振り返ったが、大したことを言ってないので黙ってケチャップライスを頬張った。
「キミは・・・いつかロワール会に入るといい。きっと素敵な女性になる」
意外なことを言われて月乃は少し恥ずかしかった。
(わたくしはもう素敵な女性ですわよ・・・。今はたまたま小学生なだけですわ)
東郷会長が澄んだ眼差しで小桃を見つめてきた。日奈様とは全然タイプが違うし、月乃は東郷会長なんて大っ嫌いだが、東郷会長が一部の生徒たちから尊敬されている理由はなんとなく分からないでもない。
「西園寺くんや月乃くんも、きっとそう望んでいる」
「あ・・・」
自分の名前が登場して月乃の鼓動は駆け足になった。
小桃とは別で「月乃くん」が登場しているということは、二人が同一人物であると東郷会長が考えていないことの証拠にも思えるのだが、敢えて名を出して試している可能性もあるから安心は出来ない。自然な流れで月乃のことを話題に出来るチャンスが来たので、今こそ確かめるべきである。
「あ、あの・・・」
「なんだい」
「月乃様や林檎様のこと・・・どう思ってますの」
林檎さんの名前など出ていないのに、緊張している月乃はこんな風に訊いてしまった。脈絡に無理のある怪しい質問だが、東郷会長は妙な間を置かずすぐに答えてくれた。
「面白くて、そして立派な後輩たちだと思うよ」
面白いというのはちょっと心外だが、当たり障りのない回答だったので月乃の警戒心が解けることはなかった。月乃のことを戒律破りの常習者だと見抜いているのか否か、ハッキリさせたいのである。
「か、戒律については・・・?」
「ん?」
「そのお二人は・・・戒律を守ってますの?」
月乃はお嬢様としてのプライドを守るためにその場で判断して優れたアドリブを生み出す技を持っているはずなのだが、今日は状況が特殊なのでその才能も発揮されず、ただ直球を投げるだけの凡人になっていた。
が、ここからが本当の勝負である。
これほど頭のいい東郷会長がわざわざあのジャムを月乃に贈ってきたのだから、確信は持っていないかも知れないが、多少は月乃のことを戒律破りの常習者だと疑っているはずである。まあ正解なのだが、お嬢様月乃の名誉を守るためにここは戦わなければならない。いかに月乃が真面目で、恋に興味がなく、日奈様のことなんて野の花くらいにしか思っていない氷の女であるかというのを、小学生の目線から力説する必要があるのだ。
東郷会長はまたまた爽やかに笑ってソーダ水をくいっと飲んだ。ちなみにこのソーダ水は糖分が入っていないのであまり美味しくないはずである。
「戒律か・・・。あの二人は・・・本当に良く守っているよ」
「え?」
夏の虫の音に合わせて詩を読むような東郷会長の穏やかな声に月乃は耳を疑ってしまった。
「月乃くんたちは、誰よりもしっかり戒律を尊重してくれている・・・。彼女たちの頑張りを知っている人はきっとほとんどいないんだ」
おかしい。疑わしいからあの香りのジャムをプレゼントしてきたくせに、小学生が質問したら「しっかり守っている」とはどういう了見なのか。
「だから、小桃くんは安心して彼女たちを目指しなさい」
おまけのこの真っ直ぐな眼差しである。
「し、し、失礼しますわっ!!」
「えっ」
月乃はどうしていいか分からず席を飛び下り、レストランの通路を駆け出した。
疑っていることは確かなのに、小学生の夢を壊さないように、あるいは月乃たちの名誉を守るために、その猜疑心のかけらも見せずに優しい言葉を並べてきた東郷会長の姿勢が月乃には大きな衝撃だったのだ。
(セーヌ会の会長のくせにっ・・・! 日奈様を争いに巻き込んでるくせに!! どうしてそんなに優しいんですの!!)
今回は月乃の完敗である。結局東郷会長が考えていることは分からないままだが、気づいてしまった重要な事実を公表して月乃のプライドを傷付け、それをロワール会を打ち倒すための剣にしようとしているわけでないことは、今日でハッキリした。
(今日はとにかく・・・帰りますわ)
東郷会長への対策は急を要しないらしい。今夜は保健室に戻ってゆっくり休むべきである。
「あら?」
桟橋に停まっているたくさんのゴンドラの中に、林檎さんの姿があるではないか。彼女は相変わらず大きな帽子で表情を隠しながら小舟の中央にちょこんと座っている。
「こんなおそい時間に出歩いて。保健室まで送ります」
「え、いいんですの!?」
「全く世話が焼けます」
「ありがとうございますわっ」
小桃が湖のほうへ出かけたという噂を耳にして心配して見に来てくれたらしいのだ。口では冷たいことを言っておきながら、やっぱり素敵なおねえさんである。
「どうしてわたくしが漕ぎますの・・・?」
月乃はゴンドラの操縦がどんどん上手くなってきた。
「小桃、疲れているの?」
「疲れてますわよ・・・」
「頑張りなさい。このまま北上すれば西大通りのアーチ橋へ辿り着きます」
「・・・知ってますわよ」
長い一日だった。両岸にはカフェテラスのランプがたくさん並んでおり、大変ロマンチックであるから、水音を聞きながら通るこの水路の光景はちょっと特別である。結果はどうであれ、一仕事終えた後に見る美しいものはいつも以上に胸にしみるものである。
「小桃」
「はい」
「頭のそれ、そろそろ外しなさい。みっともないですよ」
「・・・あ!!!」
完全に忘れていたのだが、月乃はウサギの耳カチューシャを付けっぱなしだったのだ。どうりでレストランに来ていた生徒たちが笑っているわけである。




