15、ドッジボール
勝負の日の夜明けである。
未明から山に立ちこめていた霧の名残が、東の山を越えてきた六月の朝日にじんわりと溶かされて白く輝いていくのを、小学生モードの月乃はいつもよりキリッとした目で見つめていた。
「月乃ちゃーん、先生眠いよぉ」
まだ入り口に鍵が掛かっている図書館の前のベンチで、爽やかな朝日を浴びながら二人は朝食のサンドイッチを食べている。
「先生、今日は重要な一日になるんですのよ。もっと気合いを入れて下さい」
「気合いは入ってるんだけどねぇ、先生は朝が弱のだ」
保科先生は普段白衣を着ているから辛うじて先生と呼ばれるだけの品位を出しているが、今朝はちょっとタイトなブーツカットジーンズにアイラブ太平洋と描かれた謎のTシャツという非常に素敵な格好で出歩いているため、保科先生と月乃の二人を端から見ると、ちょっと近所のスーパーに出かけた田舎のおねえちゃんとその妹みたいに見えるに違いない。開店直後にお一人様1点限りの商品を姉妹で協力して2個手に入れようとしている感じである。
「あと5分くらいで図書委員さんが来ると思いますわ」
「お、もうそんな時間なんだ」
「はい。先んじて人を制すのは快感ですわ」
昨夜の月乃はセーヌハウスではなく保健室に泊まった。本当は日奈様にセーヌハウスでもう一泊するよう誘われていたのだが、再びあの寝不足の夜を過ごすことになると月乃が本当に体調を崩して熱を出してしまいそうだったので、「検査があるから」と先生が適当なことを言って電話でお断りしてくれたのである。小学生の小桃ちゃんが自分に恋をしているなどとは微塵も思っていない無邪気な日奈は容赦なく月乃を底なしのラブの世界にいざなってくるので、月乃は自分の身をきちんと守っていかないと心身がどうにかなっちゃうのである。
「あ、いらっしゃいましたわ」
図書委員の委員長と思われる3年生が眠い目をこすってやってきた。彼女は朝一番の学園に田舎の姉妹が紛れ込んでいるのに気がついてビックリしたのか一瞬立ち止まったが、すぐに二人が保健の先生と最近噂の幼い患者さんであると分かってホッとした様子である。
「先生おはようございます」
「おはよう。本借りていい?」
「もちろんです。少々お待ちください」
運動部が朝練習などをしている時間、図書館も朝読書のための開館を行っているのだ。
「どうぞ」
まだ電源の入っていない自動ドアの下方にある鍵を開けてくれた図書委員さんは、手動でドアを開いて二人を招き入れてくれた。まだ薄暗いエントランスの中を月乃はパタパタと駆けて真っ先に書庫に向かった。
ドッジボール大会の当日の朝になってなぜ月乃が改めて図書館を訪れたのか、その理由は昨晩の出来事にある。
21時になろうかという頃、月乃が保健室の白いベッドの上でうつぶせになり、自分がサボってしまっている授業の予習復習をしていると、保健室のドアをノックする生徒が現れたのだ。
「はーい」
先生は月乃に目で合図を送ってからデスクを離れた。高校生モードの月乃を見舞いにくる生徒はそれまでにも度々やって来ていたが、随分と遅い時間だったから二人とも油断していた。
「申し訳ないけど細川月乃ちゃんはもう寝ちゃって・・・」
そう言ってドアを開けた先生は思わず凍り付いてしまった。
「こんばんは。夜分に申し訳ありません」
保科先生の前に立っていたのはマネキンでもなければしゃべる人形でもない、学園で最も尊敬を集めているドールの中のドール、西園寺会長である。
「こ、これはこれは! 西園寺さん!」
先生がわざと大きな声でそう言ってくれたので、ベッドのカーテンの陰でペタンと寝転がって布団のフリをしていた月乃もすぐに事態を察することができた。夕方に行われた選手決定会議の結果を教えにきてくれたのかも知れないが、高校生の月乃ちゃんは現在地球上から一時的に神隠しされちゃってるため顔を見ることも出来ない。
「か、会長さんに来てもらって悪いんだけど、月乃ちゃんはもう眠っちゃってね」
先生はなぜかほっぺを少し赤くしながら頑張ってごまかしてくれた。
「そうですか」
西園寺様はガッカリするでもなく至ってクールにそう答えた。
「ごめんね、わざわざ来てくれたのに」
「いいえ。私のほうこそ突然お邪魔してしまって」
カーテンの陰の月乃は居ても立ってもいられなくなったが、西園寺会長の前に出る勇気もなかなか出なかった。心配を掛けてしまっている会長にお礼やお詫びを言いたいのだが、小学生状態でお会いしても話をしてもらえないかも知れず、今日の放課後の会議で帽子の少女としゃべった時のように「こどもは早く寝なさい」みたいなことを言われてしまったらショックで立ち直れないからだ。
しかし今度の相手は普通の生徒ではなくあの西園寺会長である。まだ二ヶ月ほどしかお付き合いさせて貰ってないが、既に月乃は会長の持つ優れた人格をキュンキュン感じ取っている。彼女ならきっと、小学生だからとバカにせず、対等に近い目線で話を聴いてくれるに違いない・・・月乃はそう信じてベッドからぴょんと飛び下りた。
「あ、あの!」
駆け寄って来た月乃にびっくりしたのはなぜか保科先生のほうであった。
「あ、あぁ、この子はもう噂になってるかもしれないけど、私が以前担当してた子で、全国的に見ても私以外に専門的な知識を持っている内科医がいない、なかなかの難病だから時々ここで預かってるんだ。でもまあ症状も軽いし、元気といえば元気な普通の小学生だよ」
半分くらいは真実である。
「よ、よろしくお願いしますわ!」
月乃は西園寺様を見上げながら力強く挨拶をした。相変わらず黒いリボンが素敵で、空気をきゅっと引き締めるような強い存在感を放っている女性である。
会長は小学生の月乃を見てなぜか半歩後ろに下がったが、別にイヤな顔をしたわけでなかった。そして月乃の真っ直ぐな視線に応えるように綺麗なお目々をパチパチさせた。
「こちらこそ、よろしく。こんな山奥まで来させてしまってごめんなさいね」
月乃は耳がちょっぴり熱くなった。やっぱり西園寺様は資質のみならず気質にも優れた女性だったようである。校則や戒律をなんとも思わないセーヌの東郷会長なんかは小学生が学園に紛れ込んでいても別にオッケーだろうが、厳しいロワールの会長が小学生の月乃の存在を認めてくれたことはとても大きな意味合いを持っている。学問の場であるベルフォールの盆地に無関係な幼子がいることはマイナス要素であると分かっていながらも、挨拶をしてきた病弱な少女に優しく対応をする・・・東郷会長の姿勢とは似て非なる深い慈愛の精神の表出であると月乃は感じた。
「あなた、お名前は」
「つ・・・じゃなくて、小桃ですの!」
いつか間違えて自己紹介しちゃいそうである。
「小桃さんね。小桃さんと、それから保科先生にお願いがあります」
「お、おおぉ、なんだい?」
先生は西園寺様の落ち着きを少し見習うべきである。
「月乃さんに伝言をお願いしたいのです。本日の放課後の会議の結果、月乃さんは明日の大会の選手になってしまいました。彼女の出場を望む生徒たちの声が、無視できない程に多かったからです。しかし、無理して出場して欲しくないという意見も聞かれました。私の考えも後者のものと一致しています。ですから、明日の大会までに出会う多くの生徒が、月乃さん今日は頑張って下さいねと言ってきたとしても、どうか無理して体育館に来ないで下さい。そして治療と体力回復に専念して下さい・・・そう伝えて頂けますか」
西園寺会長も、敵のセーヌ会には東郷会長のみならず桁外れの魅力を放つ美少女日奈がいることを理解しており、月乃が参加してくれない限りこの球技大会が単なるセーヌ会の人気を上げる催し物になってしまうことは必定である。しかし西園寺様は明日は必ず出なさいとか、絶対勝ちなさいとか言うどころか、月乃の体を気遣ってくれたのである。月乃は涙が出そうだった。
「か、必ず、必ず伝えますわ!」
月乃は声をひっくり返しながら西園寺様にそう答えた。自分の心の弱さのせいで天罰を受け、ロワール会のピンチに力を貸すこともできない自分の情けなさを噛み締めた月乃は、どんな手を使ってでも明日の大会までに高校生の姿に戻って、ドッジボールで活躍してみせますわと心に誓ったのである。
今朝の月乃は、自分の体が元の姿に戻る可能性があるあらゆる方法を、科学的な根拠などひとまず置いといて全て試すべく、図書館の知恵を借りに来たのだった。これまでも月乃は色んな方法を試してきたつもりだったのだが、オカルトやファンタジーなものはさすがに全く手を出して来なかったのである。藁にもすがる思いの月乃は照れもなく古今東西のおまじないや魔法の本を集めていったのだった。これは月乃が恥ずかしさに支配された自分の殻をひとつ破った瞬間である。
しかし、殻をひとつ破ったくらいで物事が上手くいき始めるのはヒヨコちゃんくらいである。
「ほら、まだ二分も経ってないよ」
「うぅ・・・」
竜に変えられてしまった町娘が滝壺で逆立ちして一刻程瞑想したら元に戻れたという古典を参考にして月乃は保健室のベッドの上で先生に支えられながら逆立ちをしたのだが、細い腕でも案外逆立ちできますわねと思えたのは最初の十秒だけで、すぐに月乃は布団の上にぽふんとひっくり返った。
「ううぅ・・・」
「まあ、元気出しなって」
午前中に試した非科学的挑戦がことごとく失敗しているのは別に月乃の頑張りが不足しているからではないので、月乃は何も落ち込む必要はない。
土曜日の午後は授業がないため、この後すぐにドッジボールの大会が始まってしまう。月乃の気持ちなど知らない時間の流れは残酷なので、ホームルーム終了のチャイムが鳴ったかと思うと、すぐに体育館への招集の連絡が放送された。
『生徒のみなさぁん! 本日は球技大会でぇす!』
今日のラジオ担当はいつもの人である。
『呑気にお昼ごはんなんか食べに行かないですぐに体育館へ集合しましょう!』
「どうする?」
「行きますわ・・・」
月乃は何冊か本を抱えて立ち上がった。
「わたくし、最後まで諦めませんの」
意外と義理堅い月乃は、西園寺様のために最後の一秒まで、高校生に戻る希望を捨てていない。
ベルフォール女学院の体育館は上空から見ると非常に巨大だが半分は屋内プールやバレエの練習場なので、体育館ホール自体は普通の学校よりちょっと大きい程度の広さである。
学舎の購買や手近なお店でランチになりそうなものを買った生徒たちは、皆小走りで体育館に向かった。西園寺会長と東郷会長が公の場で顔を合わせるイベントは滅多にないから、少女たちのこの大会への注目度はとっても高い。
「つき・・・小桃ちゃんはこの試合、どっちのチームが勝つと思う?」
大聖堂広場の雑踏を横切りながら保科先生が尋ねた。
「・・・西園寺様の黒チームに決まってますわ」
月乃はそう願っているが、高校生モードの自分が参加しない限り勝利は難しいだろうなというのが本音である。月乃はある意味かなりの自信家だ。
体育館に入るとそこは既に大勢の制服たちでごった返しており、セーヌ会の東郷会長が生徒たちをテキパキと観客席へ移動させていた。そんな東郷会長の姿を見て月乃は思わず保科先生の白衣をぎゅっと掴んでしまった。
「東郷会長・・・! 体操着ですわ!」
どうやら白チームは生徒会長自ら選手として参加するらしい。黒チームの西園寺会長は出場しないが、これは戒律の第4条「傷を負ってはならない」というのを守るためにはやむを得ない、そして当然の決定である。月乃や日奈と違って東郷会長はトップの人間なのだからもっと自覚を持って欲しいですわねと月乃は思った。
「先生、黒チームの応援はあっちの席みたいですわ。行きましょう」
「あ、うん」
月乃は東郷会長に指示される前に自分から応援席へ向かった。この体育館にはバレーボールの国際試合の中継で見かけるような階段状の応援席が両側にずらりと並んでいるのだが、その片側が全て黒チームの場所らしい。かなり後方の席しか空いていなかったので二人は階段を上ろうとしたが、自主性に富みすぎている学園生徒たちの催しにわざわざ顔を出して下さった保健の先生への敬意を表した生徒が最前列の座席を特別に譲ってくれた。月乃の席もちゃんとある。
「あ、ありがとうございますわ」
ちょこんと席に座った月乃の背後には彼女に好奇の眼差しを向ける生徒たちが5、6人集まってきた。硬派な少女が多いこの学園にも、幼い子を見るとすぐときめいてしまう母性本能溢れる者は一定数おり、彼女たちは大抵頬を染めながら遠巻きに月乃をじろじろ見つめるのである。その視線を背中にビリビリ感じる月乃はオカルトチックな伝承の本を開きにくかったが、後ろから覗き見られないくらいの半開きで研究を再開することにした。もう大会が始まってしまうが、試合が終わるまで月乃は諦めないのである。
月乃の予想通り、姉小路日奈様は白チームの選手になっていた。
体操着姿の彼女が更衣室のある廊下から顔を出した時、ほんの少しではあるが黒チームの客席からも溜め息まじりの歓声が上がった。誰もがセーヌ会の日奈様に魅力を感じているが、それを公に口には出さないでいるのだ。月乃は息をするのも忘れて目映い日奈様の体操服姿を見つめた。体のどこか深いところがきゅんっと締め付けられるような心持ちであった。
「見て、西園寺様がいらっしゃったわ」
誰かの声に観客席の生徒たちが一斉に立ち上がった。それは敵である白チームの生徒たちも同様で、全員が西園寺会長に向かって軽く頭を下げ、手を合わせて指を組むお祈りのポーズをとったのだ。これは入学式の時も見かけたロワール会への敬礼であり、学校のイベントでは毎回行われるらしく、1年生たちは上級生の見よう見まねでこの敬礼を覚えていくのである。今日はロワール会の敵方として戦う白チームのメンバーは別に敬礼する必要はないのだが、なんとセーヌ会の二人を除く全員が西園寺様に敬礼をした。やっぱり生徒たちの心はロワール会と共にあるようなので、今日の試合でセーヌ会に勝利すればもう憂いは無いですわねと月乃は思った。
そして、いよいよ試合が始まった。
絶対に負けてたまるかという気概に満ちているのはロワール会の黒チームなのだが、白チームは簡単に打ち破れる相手ではなかった。見た目通りの運動センスを見せつける東郷会長と、神懸かった強運を持つ日奈のせいである。
日奈は正直このようなスポーツの祭典に参加したくなかったのだが、頼まれたら断れない性格のため内野でボールをひょいひょいかわしている。会場の雰囲気からして自分たちが負けた方がいいのかなと日奈は思っているのだが、わざとボールに当たろうとしても手が滑ってキャッチしてしまうし、うまく腰の辺りにボールが当たったかと思ったら東郷会長がノーバウンドでキャッチし直してくれてセーフになっちゃったりするため、なかなか外野に出ることは出来なかった。
相手の内野に日奈が残っていることで、黒チームのメンバーは大きな苦戦を強いられていた。常識はずれの美しさを持つ日奈と目が合った生徒は足がすくんだり、意識がポーンとすっ飛んだりするため、手加減をして投げた日奈のボールにあっさり当たってアウトになっていったのだ。
「あの人と目を合わせてはいけません! ボールを見て下さい!」
結構可愛い声でそう叫んだのは、黒チームの内野で粘っている少女である。彼女は昨日黒い帽子を被っていた少女で、今日は運動用のキャップを目深に被っている。ドッジボールをしている相手メンバーの顔を見るなというアドバイスは、帽子を深く被っている人間だからこそ思い浮かぶものであるが、帽子を深く被っている人間しか実践出来ないものでもあるので、黒チームの生徒たちはその後も続々と倒れていってしまった。
さて、その頃月乃は何をやっていたかというと、観客席でこっそり鳥の真似をしていた。
試合終了までは諦めないと誓って静かなる戦いを続けている月乃は、体を手のひらサイズに小さくされてしまったアステカ文明の女性が鳥の真似をして三日三晩踊り続けたら元の姿に戻れたという伝説を参考にして、手のひらを翼に見立ててパタパタ動かし、唇をぴよぴよさせているのだ。正直非常に恥ずかしいのだが、周囲にいる生徒たちのほとんどは観戦に集中しているからきっと見られていないと信じて月乃は鳥になり続けている。
「ああっ!」
「やったわ!」
黒チームの生徒たちが歓声を上げた。白チームの日奈様がこちらが投げたボールに当たってアウトになったのである。日奈は残念そうな顔をして外野に歩いていったが、ようやく目立たない場所に移動できたため実はほっとしている。日奈様が自分の席に近いところへやってきたので驚いた月乃は一瞬鳥ごっこをやめてしまったが、日奈様が美しいポニーテールを見せて背中を向けたので月乃は再び手のひらを小さく羽ばたかせた。
エースを一人失ったことで白チームは一気に崩れ始めたが、自分たちのすぐ隣りに日奈が立っていることによる緊張で黒チームもどんどんアウトになっていったため、ついに内野に残っている生徒は両チーム一人ずつとなってしまった。白チームは東郷会長、黒チームは帽子のパワーによって日奈の魔力をギリギリ防いで戦っている例の帽子の少女である。なお、このドッジボールは試合が永遠に終わらない可能性を考慮して攻撃に成功した外野の選手が内野に戻れるというルールを無くしている。
(あの人・・・頑張ってますわね)
月乃は昨日の一件であの帽子の少女がキライなのだが、息を切らせながら東郷会長と懸命に戦う姿は胸にグッとくるものがある。月乃は手首から先を少し速めに動かして羽ばたきながら、少女を応援した。
しかし帽子の少女の健闘にも限界が訪れようとしていた。白チームの外野をポンポンとパスで回されたボールが、内野の東郷会長の手に渡った時、少女は東郷会長から数メートルの場所におり、おまけに体勢を崩してしまっていた。
「あっ・・・!」
生徒たちが息を飲んだ、まさにその時のことである。体育館の上部の小窓から、白いハトが一羽飛び込んで来たのである。
「なに!?」
「ハトだわ!」
かなり目立つカラーだったので生徒たちはすぐにその存在に気づいて声を上げたから、ちょうどボールを投げようとしていた東郷会長の手元が狂い、狙っていた帽子の少女から大きく逸れてしまった。白チームが白いハトに邪魔されるとは皮肉なものである。
「一時休止! あのハトをなんとかしよう」
東郷会長の声に帽子の少女はほっと胸をなで下ろしたが、一番ほっとしたのはロワールの西園寺会長かもしれない。
「飼育委員、飼育委員さんはいるかな。できればあのハトを外に出してあげて欲しいんだが」
土曜日の飼育委員にはアヒルたちのお散歩という絶対に外せない用事があったためこの会場には来ていないはずなのだが、新人だから今日のところは球技大会の応援に行っていいよと言われた生徒が一人だけ白チームの応援席に座っていたのだ。
「わ、私です!」
彼女は月乃のクラスメイトで、添加物不使用で育ったようなピュアな面構えが月乃から好評の若山桜ちゃんである。桜ちゃんは本当は月乃や西園寺会長がいる黒チームを応援したかったのだが、住んでいる寮が南のマドレーヌハウスなので白チームに分類されてしまったのだ。
「す、すぐになんとかします!」
周囲の生徒も手伝ってくれるようだが、これは再開まで少し時間が掛かりそうである。
自分の鳥の真似が上手過ぎてハトが誘われてきた可能性を感じないでもない月乃は、このまま鳥真似作戦を続ければ光明が見える気がしてきた。試合が一時中断している今なら自由に席を立って歩けるので、この隙にエントランスの方に出て思いっきり鳥を演じてみることにした。
「先生、わたくし行ってきますわ」
「お、何? 私も一緒に行こうか」
「お気持ちだけで結構ですの。一人のほうが集中できますのよ」
月乃は先生に本を預けて小走りで応援席を飛び出した。
試合が再開してしまわないか注意をしつつ、そして人に見られないか気をつけながら、月乃はエントランスの柱の陰で祈るような気持ちで手をパタパタさせていた。この幼子の正体が学年順位2位の秀才であるというから驚きだが、もう他に方法が無いのだからしょうがない。月乃はもう半年分くらいの恥ずかしさを今日一日で味わっている感じである。
中断している隙に昼食になるものを買いに行こうとする生徒がエントランス付近を往来しているのだが、月乃はやがてその中に意外な少女の姿を目にすることになる。
「あら・・・?」
月乃はピヨピヨしていた口を思わず止めてしまった。
紙袋を抱えて上機嫌な様子で体育館にやってきたのは、つい先程まで黒チームの外野として試合に参加していたサラサラ金髪の海外出身のおねえさんである。いくら試合が中断しているとは言えこのタイミングでお買い物をしに行くとは見上げた度胸である。
「あの、あなた選手じゃありませんの?」
思わず月乃は声を掛けてしまった。
「あら、そうですよ。見てくれてたんですか?」
無視はされなかったが、なんだかすごく悠長な物腰なので月乃はちょっとあきれてしまった。
「試合中にお昼を買いに行くなんて・・・すごいですわね」
「いつも混んでて買えないパン屋さんも、今日は空いてますから♪」
確かにほぼ全ての生徒が体育館に集まっている今なら普段は並んで買わなきゃいけない商品もらくらくゲットできるはずである。なかなか抜け目の無い女である。
「それじゃあ私はゲームに戻りますので。ごきげんよう♪」
「は、はい・・・応援してますわ」
その見た目で流暢に日本語をしゃべっている点もなかなかシュールである。月乃は綺麗な金髪が揺れるおねえさんの背中をぼーっとしながら見送った。
すると、金髪のおねえさんの体操着のポケットから銀色に輝く何かが滑り落ちてエントランスに転がった。寮部屋かなにかの鍵らしい。わざと物を落として拾わせて何かさせようと企んでいるようにも思えたが、おねえさんはそのままどんどん体育館ホールに歩いていってしまうので、月乃は慌てて鍵を拾って彼女に声を掛けた。
「あの、これ落としましたのよ」
金髪の彼女は「え?」と言って振り向くと自分のポケットを確認してから月乃に微笑んだ。
「落としてしまったみたいです♪」
「・・・笑顔は禁止ですのよ」
金髪のおねえさんは月乃の小さな手からキーを受け取ると、優しい声でこう囁いたのである。
「ありがとうございます♪」
その瞬間である。
月乃の胸がドキンと音を立てて鼓動したかと思うと、彼女の精神に今までとは桁外れな程のポジティブな予感が嵐のように吹き荒れたのだ。
「あの・・・き、聞こえますか?」
「え? ・・・なにか聞こえます?」
鐘の音だった。
月乃は金髪のおねえさんにブンブン手を振って雑にお別れをすると、大通りに向かって駆け出した。今日に限って言えば体育館付近の路地裏よりも大聖堂広場方面のほうが人が少ないはずである。鐘の音はぐいぐい月乃に近づいて、ついに彼女はその音の中心でぱったりと気を失ったのだった。
窓際にパンのかけらを撒いておびき寄せる桜ちゃんの作戦が功を奏し、白いハトポッポは空へ帰っていった。
クライマックスでの中断だったため試合は再開直後から凄い盛り上がりであった。とは言え黒チーム唯一の生き残りである帽子の少女の体力は限界に近く、彼女は先程から逃げることに手いっぱいで自分に向かってくるボールをキャッチ出来ずにおり、これでは黒チームの敗北は時間の問題である。何か奇跡が起きないだろうか・・・黒チームと、そして白チームのほとんどの生徒たちがそう願っていた。
「うっ!」
落としそうになりながらもなんとか気力でボールを掴み取った帽子の少女は懸命に東郷会長めがけてボールを投げたが、その軌道は大きく逸れて外野もすり抜け、体育館の入り口の方まで転がっていってしまった。黒チーム、絶体絶命である。
その時、彼女に一番最初に気がついたのは日奈だった。
「あっ・・・」
体育館の入り口の遠い外光に浮かぶ制服のシルエット。それを見て日奈はなぜか一瞬でその人が誰なのかを察して胸を熱くした。
やがて日奈以外の生徒もその人物の登場に気がついてざわめき始めた。エントランスの階段を一段一段踏みしめてやってくる彼女の姿は映画のワンシーンのように芸術的で、両生徒会長にも引けを取らない程の貫禄であった。
「細川様だわー!!!」
月乃は帰って来たのだ。
彼女は体育館に入った瞬間に両側の客席から降り注ぐ歓声を全身に浴びながら、長い脚の靴元に転がってきたボールを拾い上げた。
ついに月乃は自分の体を高校生の姿に戻す方法を発見したのだ。誰かの役に立つをことをして、相手に感謝されればいいのである。戒律を破ったらその罰で小学生の姿にされてしまうが、ある程度の道徳的な行いをすればその罪が取りあえず許されるということに違いない。恥ずかしいのを堪えて必死に鳥の真似をしていたさっきまでの月乃がバカみたいである。
「月乃ちゃん!」
身を乗り出して喜ぶ保科先生に目でお礼を言いながら月乃は再び歩きだした。月乃が一歩歩くごとにピチャピチャと水が滴り、小さな水たまりが足跡のように残っている。
「細川様、出場してくださるんですかっ?」
金髪の子が駆け寄ってきた。
「もちろんですわ。あなたはわたくしの代わりに選手になって下さった補欠だと聞いてますけど、合ってますの?」
「は、はい」
「それではここで交代ですわね」
ボールを持った月乃が黒チームの外野に入ることになった。
美しいシニヨンの東郷会長がいつもの余裕のある優しい表情を崩して身構えており、その向こうの陣地では月乃が来るまでずっと頑張ってくれた帽子の少女がふらふら状態で立っている。高校生モードになって初めて気がついたが、帽子の少女は月乃よりもずっと背が低くて小柄な女の子だった。
「よく頑張ってくれましたわ・・・」
月乃はそうつぶやいてボールをぎゅっと抱きしめた。前髪からポタポタと雫が落ちている。
「これがわたくしの、魂を込めた投球・・・」
月乃が勢いを付けてボールを振りかぶるのと、会場の盛り上がりが最高潮に達したのは同時だった。
「名付けて、スプラッシュアタックですわ!」
月乃は全身全霊を込めてボールを投げた。
彼女の手から離れたボールは特に勢いがあるわけではなかったが、その回転に合わせて水がシュパパパパーっと宙に舞ったため、驚いた東郷会長は足がすくんでしまった。ボールは東郷会長がキャッチし易い位置にやってきたものの、動揺していたためか彼女の腕の中から転がり落ちてしまい、ついに白チーム最後の内野選手である東郷会長はアウトになったのだった。直後、体育館は割れんばかりの大歓声に包まれたのである。人前で喜怒哀楽を表現してはならないという戒律は守っていくのが最も難しい条目と言われているが、それにしても皆さん喜びすぎなのであとで厳重な注意が必要ですわねと月乃は思った。
ところで、なんで月乃が全身びしょ濡れだったのか会場の生徒たちは大いに疑問だったが、月乃が小学生になってしまった一昨日の天気を思い出した保科先生だけは納得することが出来た。
「よくやってくれたわ。もう体は大丈夫なの?」
歓声の渦の中にいる月乃の元に、西園寺様がやってきた。
「さ、西園寺様・・・ご心配をお掛けして申し訳ありませんでしたわっ」
月乃はようやく西園寺様にお詫びを言うことが出来た。
「いいのよ」
西園寺様はびしょ濡れの月乃のリボンを白い指先で優しく触れた。
「どうして濡れてるの」
「これはその・・・いろいろありまして」
月乃がなんとかごまかそうとしていると、西園寺様の肩のずっと向こうに立つ日奈様の姿が見えた。彼女は少し照れた様子で月乃に手を振ったあと、微笑みながら潔く去っていく東郷会長の背中を追って体育館から出ていった。恥ずかしいのでどうか人前で私に手を振ったりしないで下さいと月乃は思ったが、とっても幸せな一瞬だったことは事実である。
「私たちも早く帰りましょう。月乃さんはすぐお風呂で温まらないと」
「はい。でもお風呂の準備はわたくしが自分でやりますわ」
「いいえ。もう用意してあるの。夕食の買い物も済ませてあるし、あなたのお部屋の寝具も綺麗に整えておいたわ」
「そ、そうですの?」
「お風呂から出たら一緒に夕食を作りましょう。今夜はごちそうよ」
西園寺様はずっと凍り付いたような無表情でしゃべっているが、もしかしたら月乃が帰ってきたことを物凄く喜んでいるのかもしれない。
かくして月乃はロワール会に訪れた今年度最大のピンチを無事に切り抜け、セーヌ会の人気が上がらないように活躍するという自分に与えられていた重要な役割をまっとうしただけでなく、自分の身に降り掛かっている理解不能な症状の有効な対処法を発見することが出来たのである。
月乃の制服の肩の辺りに付いていた一昨日の紫陽花の花びらが、風に誘われてひらひらと舞いながら遠い六月の空に帰っていった。




