第20話 エレール流域制圧
数週間後、エレール川河口
見渡す限りの水平線が広がるエレール川河口。
遥か西方にはうっすらと島影が見えているが、おそらくあれが島のオラン人達の根拠地である所のアルビオニウス島であろう。
寄せては返す波、潮の匂いが混じった海風。
北方軍団兵の内でも内陸部で育った者達はただ呆然とその光景を眺めていた。
エレール川河口域は治水の行われていない大河らしく三角州と浅瀬、干潟や支流が複雑に入り組む湿地帯であるが、河岸の西側については比較的硬い土壌が存在している。
ハル率いるシレンティウム軍は湿地を避け、海岸付近へと進出したのであった。
「これがオラニア海……」
「私も始めて見ました」
「私もです」
ハルのつぶやきに応じるルーダとカンディ。
2人とも内陸部に拠点を持つ部族のアルマール族とソカニア族の出身である事もあって、海は見た事がなかったのである。
「ううむ、今日は波が荒そうですな」
一方のアダマンティウスは、遠望出来るアルビオニウス島の西方帝国属州出身であることから、オラニア海を見た事は当然ある。
「さて、ではこの場所で良いですかね?」
「そうですな、土壌も硬く河口からもそう離れていない。近くに集落もある……残念ながら村人は逃げ散ってしまったようですが……」
ハルの言葉にアダマンティウスが苦笑しつつ応じる。
この辺りを支配しているオラン人のケール族はシレンティウム同盟に参加を表明した部族ではあるが、海岸地域に住まうのはハレミア人の系譜を引く者達が多い。
実際、ここから見えるいくつかの集落は北の地から家族単位で移住し、ケール族に従っているハレミア人が多くいるのだ。
ハルはケール族と協議の上、この河口の西岸にエレール川の河川航路と、オラニア海の海航路を接続する都市を築く計画を立てていた。
尤も、この地に都市を建造するのは基礎から全て行わなければならない為、相当の費用と時間が必要であろう。
費用については西方諸都市国家群が賄ってくれる事になれば、言うことなしの大成功であるが未だ返事は来ていなかった。
ハルはシッティウスやカウデクスと相談の上、当面の間は軍団の野営地を築いて取り敢えずの都市となし、港湾設備の設置をすることにしている。
今日はその基礎を築くべく、エレール川河口付近の土壌や地盤形態、ハレミア人の居住状況の調査にやって来たのだ。
「集落は精々20人から30人程度の親戚で形成しているようです。取り込む……にも当人達が居ませんね」
シレンティウム中央広場
帝都に倣って最近シレンティウムでも公示が行われるようになっていた。
ただその方法は広報担当者が公示を読み上げる帝都のものとは異なり、大型の掲示板に行政府の広報内容を記した紙を貼り付けるというものである。
大きな文字で記された広報文はそれでも見辛い為、希望者には手紙サイズのものが配られている。
最近紙の生産がシレンティウムで始まり、入手が容易になった事と加えて識字率の急速な向上があった。
その広報紙を手に入れた市民達が口々に言う。
「ほう、頑迷なパレーイ族と島オランの海賊連合軍を撃ち破りなされたか!」
「すげえなあ、一時はどうなるかと思ったけど、やっぱりシレンティウムは強いな」
「うん?辺境護民官様はエレール川を下ってオラニア海にまで達したとあるぞ!」
「……う~ん壮大すぎて実感が涌かない」
「河口付近に住んでいたハレミア人は、シレンティウム軍の威に恐れをなして戦わずに降伏したらしい」
「まあ、1回こてんぱんにやっつけてるからな」
たちまち噂や広報誌が街中に広まり、シレンティウムは勝利の喜びにわき返るのだった。
コロニア・フェッルム製鉄工房
シレンティウム西南の北辺山脈の麓に広がる町、コロニア・フェッルム。
西方帝国式の大理石で造られた建造物が居並ぶ町を歩いているのは、西方諸国出身の採鉱師や鉱夫達。
またその採鉱師や鉱夫達に食べ物や日用品を売りに来ているクリフォナムやオランの民もちらほら見かけられた。
普段から人の出入りの多い賑やかな町であるが、今日は一段とその賑やかさに磨きがかかっている。
それと言うのもとうとう鉄と銅の精錬が本格に始まったからである。
北辺山脈から流れ出る豊富な水を利用した大小幾つもの水車が建造され、がらがらと豪快な音を立てている。
製鉄所に設置された高炉からは盛んに煙が立ち上り、水車からその高炉へと送られる風がくぐもった音を響かせていた。
製鉄所の中では、別の高炉の底に設けられた栓を切り、溢れ出した銑鉄を耐火煉瓦で覆われた溝を使って取り出している。
その様子を眺めていたペトラは満足そうな笑みを浮かべて傍らで同じように作業を監督していた製鉄工頭のかたをどやしつけた。
「やったじゃあないか、これで私もハル君に顔向け出来るってものだよ」
「ありがとうございます。ですが団長とスフェラの力がなければここまで早く製鉄所を立ち上げる事は出来なかったでしょう」
「謙遜と受け取っておくよ」
製鉄工頭の言葉に笑顔でそう応じ、ペトラは背後に佇む相棒精霊のスフェラを振り返った。
『ふふっようやく軌道に乗ったわね?』
スフェラも嬉しそうにペトラの視線に応じる。
「ああ、やっとだよ。フレーディアが占拠されて石炭の調達先がなくなった時はどうしようかと思ったがね」
「確かに、商業長官様々ですね」
ペトラが応じ、製鉄工頭が頷きながら言う。
石炭の問題はオラン人から買い付けることで解決したのだ。
オランでも石炭は特に使い道の無いものであったが、商業長官のオルキウスが奔走し、石炭の産出場所を見つけ出してきたのである。
「全く、人材てのは揃う所には揃うもんだね」
『でも、それがシレンティウムの勢いってものじゃあ無いのかしら?』
「燃えさかる火と同じ、この勢いを殺さないようにしなければ」
ペトラの言葉にスフェラと製鉄工頭が応じる。
「うん、その為にもこれが必要だろう?」
ペトラが銑鉄を示してそう言葉を継いだ。
銑鉄はこの後精錬作業を経て、鋼や鉄製品として使用に耐えるものへと変わって行くのだ。
「あれだけ状態の良い鉱山を与えられているんだ。早々に結果は出さなくちゃと思っていたんだが……やれやれ、これで肩の荷が一つ下りたよ」
「精銅の方もうまく言っているらしいですね?」
製鉄工頭が笑顔でため息をつくペトラに面白がるような表情で言うと、ペトラは片眉を上げる。
「おや?耳が早いねえ……そうさ、あっちも上手くいったらしい」
コロニア・フェッルムの産業は製鉄と精銅が2本柱である。
それは目標であり、またハルとの果たさなければならない約束でもあったのだ。
しばらく流れ出る熔解した鉄を見ていたペトラは、にっと口角を上げて製鉄工頭に言う。
「取り敢えず製品造りは後にして、出来上がった鉄を鋳塊にして積み上げておいてくれ」
「……辺境護民官殿にお披露目ですか?」
「ああ、北の戦いから帰ってからになるだろうがね。やっぱり折角の成果はきっちり評価して貰わなくちゃ、頼んだよ」
「承知しました」
「勝ち戦から帰ったハル君の度肝を抜いてやろうじゃあないか!」
ペトラは茶目っ気たっぷりの笑顔で再度製鉄工頭の肩をどやしつけてから踵を返した。
ペトラは製鉄所を後にし、スフェラと共に自分が市長を務めるコロニア・フェッルムの街中を歩く。
常に流浪の生活を強いられていた頃からは考えられない、落ち着いた毎日に少し戸惑いを感じた時もあったが、今やこの平穏はなくてはならないものになった。
ペトラは西方諸国や西方帝国各地を同じように流離っていた伝手のある採鉱師や製鉄師を呼び集め、鉱夫を募集しこの町を作ってきたのである。
ペトラの元には腕の良い技術者達が集まり、今やコロニア・フェッルムは金属精錬都市として発展し始めていた。
コロニア・フェッルムには市長であるペトラを頂点として庶務を預かる出納長、鉱石の採掘や鉱山管理を行う採鉱師長、製鉄や鉄製品の製造を行う製鉄工頭、青銅や銅の精錬と製品製造を行う精銅工頭がそれぞれ任命されており、街を治めている。
それぞれがその担当する工程の最高責任者であると同時に、自分達の元で働く鉱夫や工夫の元締として行政権を預かっているのだ。
他の都市や集落とかなり異なる技術者や工芸人の街、コロニア・フェッルム。
今やその技術力と活況は頂点を迎えようとしていた。
シレンティウム北城門
夏も終わり、秋の気配が濃く感じられるようになったシレンティウム北城門。
目を凝らして見つめるシレンティウム市民の視線の先には、北の街道がある。
シレンティウムからは丁度北側に位置する台地は、街道を遮るように位置している為、遠くまでは見通せないのだ。
それ故に北からの接近者をいち早く発見する為、台地の縁に狼煙台を併設した見張り台が置かれているのだが、市民達の視線はその見張り台に注がれていた。
しばらくして、狼煙台から白色の煙がすっと上がり始める。
「来たああっ!辺境護民官様のお帰りだあ!」
飽きもせずじっと眺めていた市民の1人が叫ぶと、周囲がどよめいた。
そして一斉に北の方角を見ると、シレンティウムの青と緑の軍旗や青銅製の軍章を先頭にして、シレンティウム軍が威風堂々と行進してくるのが視界に入る。
それは半年程前の敗戦時に生じた鬱屈し、重く沈んだ雰囲気を霧散させ、市民達に活力を、官吏や兵士達に自信を取り戻させる。
北城門の警備隊長は笑顔を浮かべた後、直ちに行政庁舎に向けて伝令を走らせ、城門付近に集結した市民達の整理に当たるのだった。
北の城門で上がった辺境護民官軍帰還の一報は滞りなく行政庁舎や市内に届けられる。
既に到着予定日は知らされていたシレンティウムの行政府であったが、それでも人の配置や出迎えの準備が慌ただしく進められていた。
「無事帰って来られましたね」
「うむ、いかにも」
「はい、勝ちましたから!」
ハルのつぶやきにアダマンティウスとルーダが応じ、カンディが黙ったまま頷く。
軍はシレンティウムの白い北城門をくぐり抜けて市内の街路を行進しているが、両脇に鈴生りのシレンティウム市民達が大歓声を浴びせていた。
市民は先頃の敗戦を吹き飛ばす大勝利と、部分的にではあるもののオラニア海にまで到達したシレンティウムの勢力伸長に喜びを爆発させたのである。
ハルが少し手を上げて歓声に応えると、それまでも大きかった歓声が爆発したかのような凄まじい者へと変わる。
「……スゴイですね」
ルーダが驚きの声を上げ、カンディは目を丸くし、アダマンティウスは大笑した。
「わははは、これぞ勝利の醍醐味でしょう!」
「違いありませんね!」
怒鳴る程の声量を出さなければ会話すらままならないその歓声の中、ハルの率いる一行は整然と、そして堂々と進むのだった。
シレンティウム行政庁舎、ハルの執務室
面倒な式典を終えて軍を一旦解散させたハルは、シッティウスから報告を受ける。
「西方諸都市国家のエリアス通商会議から返答が来ました」
「……反応はどうですか?良い返答ですか?」
ハルの反応にシッティウスは何時ものように分厚い資料から5枚の手紙を取り出してハルへと差し出した。
そしてハルがそれを受け取って一読するのを待ってから口を開く。
「ご覧の通りですな。西方諸国はエリアス通商会議を頭に、カルヴノ同盟、エクヴォリス連合、スティノス協定、ユナイオン共和国が我がシレンティウムとの貿易協定に同意しました。都市造営に関する投資も承知したとのことですな」
「予想外の反応の良さですね……」
『うむ、親西方帝国派の同盟や協定は兎も角、中立派や反西方帝国派の者が含まれているのが面白い。まあ大方奴らの思惑は予想が付くのであるが……』
ハルの言葉にいつの間にか表われたアルトリウスが腕を組んだまま答える。
「先任、留守番お疲れ様でした」
『何の、雑作も無いことである』
式典に当然ながら出席していないアルトリウスと帰還後初めて顔を合わせたハルが挨拶すると、アルトリウスは機嫌良く応じながら笑みを浮かべて言葉を継ぐ。
『ようやく先任者に対する敬意の表し方というものを覚えたようであるな?』
「その先任の教育のたまものですよ」
『わははは、言うようになったである!それもまた成長の証であるなっ』
ハルの回答に満足そうな笑みを浮かべて言うアルトリウス。
その遣り取りを興味深そうに見守っていたシッティウスが、言葉途切れたのを見計らって声を掛けた。
「続きを宜しいですかな?」
「あ、はい、お願いします」
慌てて応じるハルに、シッティウスは言葉を継ぐ。
「正式な調印式にはエリアス通商会議の会頭であるティモレオニス氏が直に出向くそうです」
「ええっ、本当ですか?」
驚くハルに頷き、シッティウスは淡々と言葉を続ける。
「調印場所は新都市造営場所であるエレール河口西岸とのことですな」
「はあ、まあ良い場所ではありますね」
シッティウスから伝えられた内容に手紙を読みながら応じるハル。
『会頭であるか?また大物が出張ってくるものであるな……』
「それだけ本気と言うことでしょう。西方諸国も過去の統一戦争で疲弊しながら統一は成らず同盟や連合が10もの数になりました。その後も小競り合いで疲弊しましたが、既に開発可能な土地は開発され尽くしておりますので、伸び代が無いのですな」
アルトリウスの言葉に解説を加えて返答するシッティウス。
確かに西方文明発祥の地である西方諸都市は、古代以降文明の担い手によって今に到るまで農業、鉱工業、漁業、林業など、ありとあらゆる分野で開発されてきたため、既に伸び代は尽きいる。
交易を増やし、植民都市を造って凌いできたが、それも西方帝国という巨大帝国の出現で最近は頭打ちなのだ。
新しい道が開きそうなのであれば飛びつく他無い。
『まあ、概ねこちらの望んだ通りに進んでいるのであるな』
アルトリウスがにやりとしながら言うと、シッティウスが言葉を継ぐ。
「はい、ただこちらの思惑通りではありますが、エリアス通商会議の会頭程の大物がやって来るとは想定の範囲外でしたな。調印式にはアキルシウス殿にお願い致しますが、商業長官のオルキウスを補佐に付けましょう」
「分かりました。しかしここまでは……エレール川まではどうやって来るんでしょうか?」
『艦隊でも率いて来るのではないか?』
ハルの疑問にアルトリウスが揶揄する様に答える。
「まあ、途中の西方帝国の港湾には寄港依頼を出すとしても……ここまでは結構な距離ですから、本当に艦隊を率いて来るかも知れませんね」
「そうであれば、帰りの食糧や水を用意しなければなりませんな……河川航路の整備が間に合えば良いのですが」
ハルの言にシッティウスは寄港依頼とオランの各部族への協力通達を考え、その素案について書き付けをしながら答えた。
シレンティウム行政庁舎、ハルの私室
「ただいま~」
「あ、ハル!お帰りなさいっ」
ハルが軍装を解きながら戻ると、奥の部屋からすっかり体調の戻ったエルレイシアが急いで出てきた。
奥の部屋には子供用の寝台が置かれており、おそらくそこで子供の世話をしていたのだろう。
ハルが鎧の留め金や帯を外していると、エルレイシアが後ろから手を差し出し、外した部品や装具を受け取ろうとしたので、ハルが振り返って言った。
「大丈夫だよ、自分で出来るから」
「いいえ、これも妻の勤めの1つです」
エルレイシアはハルの剣を受け取って壁に掛けると、装具を手にとって並べる。
「あっ?」
幾つか鉄製の留め金や装具を手に取った所で、エルレイシアが小さく悲鳴を上げた。
「大丈夫?」
「……痛いです」
ハルが慌てて向き直ると、白く細いエルレイシアの人差し指に小さな切り傷が出来ていた。
ぷっと丸く膨らむようにしてにじみ出る赤い血液。
ハルが鎧を外し終え、床へ置いてから軍用雑嚢から消毒用の酒精を取り出した。
しかしエルレイシアはその小さな陶器の壺を見てぷっと頬を膨らませる。
「嫌です」
「ダメだよ。鎧はそんなにきれいじゃ無いから、消毒をしておこう」
「……それでは嫌ですっ」
「え?」
予想外の拒絶。
小壺のコルク製の栓を抜いた格好で驚いて固まるハルに、エルレイシアは、んっと言いながら自分の傷付いた指をその口元に差し出した。
「……ええ~っ?」
エルレイシアの言わんとする所を察したハルは、思わず声を上げたが、エルレイシアは顔を赤くしつつももう一度ついっと人差し指をハルに近づける。
「ん!」
「し、仕方ないなあ……」
「あ……んっ」
ハルが渋々差し出された指に口を付けると、エルレイシアが眉根を寄せて悩ましげな声を上げる。
軽く血を吸い上げてから口を離すと、ハルは恍惚とした表情で身体を震わせながらへたり込んだエルレイシアの指を取って、素早く酒精をかけた。
「痛いです……」
「そりゃ染みるからね」
手布へエルレイシアから吸い取った血を吐き出し、酒精をかけて傷口を消毒すると苦笑しつつ応じるハル。
そして手布を小さく裂いてその指へと巻き付けた。
「あ……」
「はい終わったよ。でももう大丈夫だから、座ってて」
そう言い置いて手早く鎧を片付け、雑嚢から工具や装備品を取り出して棚へと並べるハルを、エルレイシアが熱っぽい目で追う。
しばらく忙しそうに右往左往していたハルだったが、とうとう耐えきれずに背後の妻へと声を掛けた。
「あの、子供達は?」
「……今はすやすや眠っていますよ」
「と言いつつ何故にじり寄ってくるのかなっ?」
じりっと下がるハルにじわっと追いすがるエルレイシア。
ハルの額から冷や汗が流れ出す。
「ハル……私、すごく待っていたんです」
「そ、そう?」
「ですから……」
「いや、まだ風呂にも入ってないし」
「分かりました……私、待ってます!」
真っ正面から真剣な目で見つめられ、ハルが戸惑いつつも呆れて言う。
「……それってこういう場面で言う台詞なのかなぁ」
シレンティウム公衆浴場
「いらっしゃいませ……あ、ハルさん」
「お久しぶりですロットさん」
公衆浴場の出入り口を入った所で、プリミアに声を掛けられるハル。
にこやかに挨拶を交わし、料金の銅貨を支払うと、プリミアからおずおずと声を掛けられた。
「あ、あのハルさん、エルレイシアさんのことなんですが」
「え……何かあったかな?」
先程の尋常ではない様子を思い出して顔を引き攣らせ、問うハルへ頭を左右に振りプリミアが答える。
「いえ、そうでは無いのですが、ご不在の間大変寂しがっておいででしたので、大丈夫かなと思いまして」
「そ、そう?」
「はい、もう毎日おみえになって、ぴかぴかに身体を磨き上げてから……」
「……から?」
プリミアの言葉に嫌な予感前回でゴクリと唾を飲み込むハルへ、プリミアは困ったような顔で言葉を継ぐ。
「帰って来たら絶対離さないと仰っていました」
「そ、そうですかっ」
余りにも予想通りの内容に、冷や汗を流して固まる他無いハルだった。
それでもエルレイシアの気持ちを考えれば、帰らないとか、どこかで時間を潰すという方法はとても採れないハル。
ため息をつきつつも脱衣場で服を脱ぎ、風呂支度を調えて浴場に続く入り口をくぐるとその目の前には都市の守護聖人が引き締まったお尻丸出しで腕を組み、浴場に向って仁王立ちしていた。
「何やってんですか先任……」
『おう、ハルヨシよ、お主も来たのであるか?』
「はあ、まあ……戦陣帰りですし」
振り向いて言うアルトリウスに、ぼつぼつと答えるハル。
その様子を見てアルトリウスは嬉しそうに口を開く。
『うむ、長き遠征にて溜まった戦塵を風呂で落す。そして浴場に浸かり激しかった戦いの様子や無き戦友を思いながら疲れを癒やす……軍人において正に欠くべからざる時間であるな!』
アルトリウスの言葉の後、水滴の落ちる音と湯の流れる音が絶妙のタイミングで言葉の間合いを取る。
しばし硬直していたハルが、ようやく言葉を発した。
「せ、先任に風呂は必要ないでしょう?」
『何を言う!こう言う所に顔を出し、市民と触れ合い我の意思を表わして治政に貢献しているのであるっ』
こちらに向き直り、色々丸見えのものを隠そうともせずに堂々と立つアルトリウス。
『それに料金もちゃんと支払っているのである!』
「そ、そうですか……それで、本音はどんな感じで?」
『死霊の時はうっかり人にでも触れれば大変なことになるのであるからな、今まで吸精作用が邪魔して風呂にも近寄れんかったのであるが40年我慢したのだ、もう良かろう!』
しかしカッコイイ台詞も何のその、ハルの誘い文句にあっさり本音を白状したアルトリウスは、すたすたと浴場へと歩き、ゆっくりとその中へ身を沈める。
そしてほうっと大きく息をついて絞り出すような声を発した。
『ううむ……昇天しかねん心地良さである~っ!』
「そうでしょうね~」
ハルは手近な風呂椅子を引き寄せて座ると、持参した石鹸を手布でがしがしと泡立てつつ御座なりに応じるのだった。
再びシレンティウム行政庁舎、ハルの私室
「ただいま~あ?……むうっ!」
頭から心地よい湯気を出し、ぽわぽわと空に浮かびそうな心地良さで帰宅したハルを玄関先でエルレイシアがキスで補足した。
「ハルっ、私もう我慢出来ませんっ」
「ちょ、ちょっと待ったっ!」
思い切りハルの口を吸い上げたエルレイシアが熱に浮かされたような声で言うと、ハルがぶちまけた風呂道具を蹴飛ばしながら逃げる。
しかし敢え無く捕まり、後ろから抱きかかえられてしまった。
「ぎゃーっ?止めてここじゃ嫌っ!せめて寝台にっ!」
叫ぶハルに鼻息荒く無言で頷き、そのまま寝室へと引きずり込むエルレイシア。
『何たる光景か。我もここに居るのだが……』
ハルと語らおうと浴場から一緒にやってきたアルトリウスがつぶやく。
あまりの光景を目の当たりにした為にしばらく呆然としていたが、衣擦れの音と悲鳴染みた声が奥の部屋から聞こえ始めると諦めて踵を返した。
『相変わらずの肉食嫁であるな、エルレイシアは……まあ良い、戦語りは何時でも出来ようぞ』
10日後、シレンティウム行政庁舎、ハルの執務室
ハルの執務室に現れたのは、介大成と大柄な長い顎髭を生やした東照人男性。
2人は先に部屋に居たシッティウスとハルに包拳礼を送る。
ハルとシッティウスが西方帝国式の、胸に手を当てる礼を返すと、介大成が口を開いた。
「辺境護民官殿、こちら東照帝国江南府の市舶司副大官だった舩文忠です」
「お初にお目に掛かりまっさ。舩文忠ですわ」
独特のイントネーションと言葉使いは紛れもない東照訛りの西方語である。
かつて会った黎盛行は、その言葉使いに嵌まった性格の持ち主だったが、舩文忠はどうやら真面目な正確らしく、謹厳実直そのものの顔付きと言葉が全く合っていない。
「シレンティウムの辺境護民官、秋留晴義です。宜しくお願いします」
「私は行政長官のシッティウスと申します、これからどうぞよろしく致します」
ハルとシッティウスがそう言葉を返すと、大きく頷いてから舩文忠は切り出した。
「早速取りかかりたいのやが……地図ありますかいな?」
「エレール川の流域地図ですな?ではこちらをどうぞ」
すかさずシッティウスが左手に持つ書類の中から折り畳んだ地図を取り出して示す。
到着早々に仕事をしようという舩文忠の態度にいたく感心したらしく、頻りに頷いているシッティウス。
「……シッティウスさん、いつの間に?」
「楓殿からカゲモノ衆を借り受けまして作成を勧めておきました。未だ調査中の場所も御座いますが、流域はもとより支流、小川、淀みや近隣湖沼までを網羅しております」
驚くハルを余所にシッティウスが地図の作成経過について説明していると、舩文忠が徐に口を挟んだ。
「ふうむ、ほんなら後は舟出して実際に水深と流速、河床を調べないかんですな……造船場はどないなっとりますか?」
「現在イネオン川とエレール川の合流地点に都市を造営中でして、そこに造船場を作る予定です。以前はフレーディア経由での街道がありましたが、今はフレーディアが占拠されておりますので使えませんな。行くのであればアルマール河川港からになります」
シッティウスの説明通り、現在陸路では行くことが出来ない都市造営場所へは、アルマール村跡地を利用して建設された河川港から船で行かなくてはならない。
「ほう~ほいならそこへ行きまっか。秋留はん、軍兵は借り受けられるんやろか?」
「はい、手配しますよ。フレーディアにはまだ敵性勢力が居ますからね」
「……大丈夫なんでっか?」
心配そうに尋ねる舩文忠に、ハルは安心させるように笑顔で答えた。
「ええ、河川航路が整備出来ればコロニア・ポンティスで小舟に積み替えてアルマール村の跡地にまで妨害されずに荷を運び込む事が出来ます」
「フレーディアは河川に対する支配権は持っておりません。船がありませんし、船を操れる軍兵もおりません。更にクリフォナム人は河川を利用するという発想がないでしょう」
「それは確かに……」
続いてシッティウスがそう説明し、介大成が賛意を示すと舩文忠は納得する。
「安全なんやったら構いまへん、ほな頼んますわ。なんせ大所帯でっさかいなあ」
「人数はどれくらいですかな?」
「造船職人、桟橋施工人、港湾施工人、船頭、水夫頭だけでも100人ですわ。まだ他に家族やら雑多な職人やらもおりますよって、総勢700人ほどですなあ」
「えっそんなに?」
ハルの質問にごく普通に答える舩文忠。
意外な大人数に、驚くが、舩文忠は両手を低く広げて言葉を継いだ。
「そうは言うても秋留はん、これだけやとちっさい街の船着き場しか動かせまへんで?」
「そうですか……蛇足ですが、そんないっぺんに来てしまって故郷は大丈夫なんですか?」
次いで出たハルからの質問に舩文忠は顔を顰め、右手を自分の顔の前で立てて左右に振りながら言った。
「あ~知っての通り東照本国は内乱と南の南衝王国とかちゅう国の攻勢で、国内も特に南部はもうあきまへんのや。河川航路や運河も各地の勢力の手でずたずたに寸断されとる。連れてきたもんは皆南の出身者や。寒さに弱いっちゅう難点はありますさかいに気い付けやなあかんけど、食いっぱぐれて難儀しとったんばっかりやよって気にする事おまへん。むしろ助かったあ思っとりますわ」
「……そうですか」
ハルが頷くと舩文忠は手を下ろし、首を捻ってしばし考えてからハルに言葉を発する。
「まあそれでも確かに、大河に航路を敷くんには如何にも人数不足ですさかい、労働力は地元の人を雇う形にしますわ。構いませんやろか?」
「それは良い考えですね」
「そうですな……それがよいでしょう。加えて北方軍団兵も使いましょう」
ハルに続いてシッティウスが言うと、舩文忠は大きく頷いた。
「ほう、こちらでは軍兵に土木作業やらしますのか~なるほどなるほど、屯田兵ならず工人兵ですな。ほいならイッチョやりますかあ」




