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辺境護民官ハル・アキルシウス(改訂版)  作者: あかつき
第3章 北方辺境動乱
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第14話 落魄のシレンティウム

シレンティウム北の城門


 シレンティウム軍は負けた。

 片眼を失ったアダマンティウスに率いられたボロボロの敗残兵が東城門を通り抜けたのに引き続き、北の城門から辺境護民官自らが率いた軍が敗れて逃げ帰ってきたのである。

 その後方にはフレーディアから落ち延びてきた者達が続いており、文字通りに尾羽打ち枯らした状態をまざまざと表していた。


 おまけにフレーディアで親シレンティウム派のフリード族をとりまとめていた宮宰ベルガンとシレンティウムの都市参事会議員レイシンクが戦死し、フレーディアで都市改良事業を行っていたタルペイウスは技師の欠片が入った袋を持ったまま血塗れで気を失って担架で運ばれている。

 市民はその姿を見て意気消沈した。

 北の英雄王を撃ち破り、ハレミア人の大群を撃破した最強の軍と思っていたものが相次いで敗れ去ってしまったと言う事に衝撃を受け、そして敵が攻め込んでくるかも知れないという恐怖にとらわれたのだ。

間諜が暗躍し、治安も悪くなり始めたシレンティウムから離れる市民が出始め、訪れる商人達の数が減っていた。




 太陽神殿神官室


死んだように眠るエルレイシアの姿を見たハルは顔を凍り付かせる。


「今は術で毒が回らないよう仮死状態にしてあります……おそらくエルレイシアが自分でやった事だと思いますが、補足して私が神官術を重ねておきました」


 エルレイシアの容態について淡々と説明するアルスハレアの声がどこか遠くで聞こえているような気がするが、ハルはそれを聞いている余裕を持たなかった。


「……どうして」

『すまぬ……不覚を取ったのである。我が封じられている際に刺客を送り込まれた。刺客を放ったのはどうやらシルーハらしい』

「悪い……言葉もない、ヘマをやった」


 ハルがぽつりと漏らした言葉にアルトリウスが項垂れ、ルキウスが頭を下げる。

 ぎりっとハルの拳が握りしめられ、その手の平から血が落ちた。

 ぱたっぱたっと言う音と共に小さな赤い染みが床に幾つも出来あがる。

食い縛られた口の端から細く血の筋が流れ、やはり地に落ちるが誰もそれを止める事の出来る者は居なかった。

 ゆっくり寝台に近付いたハルは険しい目付きで昏々と眠るエルレイシアの顔を見る。


 傷ついた掌を開き、血が付かないよう指先だけでエルレイシアの髪を優しく梳いた。

 脂汗のにじんだ頬の汗をぬぐい、苦しげに寄せられた眉根をそっとほぐす。

 そして最後に大きく膨らんだ腹に左手の平をゆっくり乗せ、額に右手の甲を当てるハル。


「エル、もう少し我慢してくれ。何とか……何とか手立てを考えるから……」


ハルは間諜達に短剣を差し込まれた傷跡のある腕や肩に、包帯越しに触れると踵を返す。


『ハルヨシよ……如何致すであるか?』

「……」


 アルトリウスから気遣わしげな声を掛けられ、ハルは一旦立ち止まる。

 自分の愛する妻が生死の境をさまよっている、この事態は一体何なのだ?

 自らの身が傷つくよりも辛く苦しいこの現状は、一体どういうことなのだろうか?

 狂おしいまでの怒りと後悔、そして自責の念がハルを苛んだ。

 精一杯この都市の、この地のために尽くしていた自分達がこの様なつらい目に遭う謂われは無いはずだ。

 全てを投げ出し、忘れ、そして逃げ出す事が一瞬頭をよぎる。


 そんなハルの背中にアルトリウスが声を掛けた。


『この様な事態に陥ってから我が言うのも卑怯であるかもしれんが……ハルヨシよ、我の話を聞くか?』

「……」


 ハルの強い、険のある視線をしっかりと受け止めつつアルトリウスは語る。


『ふむ……では話すであるぞ。我がこの地に来た時、我は得意の絶頂であった。精霊の助力を得て都市を興し、民を集めて導き、太陽神官を招いたのである。しかしその一方でそんな我らを異物と断ずるアルフォードを代表とした者達がおり、結局は戦いの末に我は敗れて全てを失った。我はそれこそ何も悪い事はしておらぬが、滅ぼされた』


 言葉を一旦切り、ハルの様子を覗うアルトリウス。

 しかしハルに拒絶の態度が無い事を確認すると、徐に言葉を継ぐ。


『しかしそれでも人の数だけ考え方はあるが相容れぬ事は無い。結局は民を安らかに導く事こそが最終の目的である我らの間に本来であればそう相違は無いのだ。しかし手段方法思考文化、あらゆる違いがあった。違いは軋轢と摩擦を生む、その摩擦は様々な形で現れるのだ』

「……今回はそれがエルの暗殺だったと言う事ですか?」

『そうである、これも1つの現れである』

「納得できるはずが無いだろう!!」


 怒号が飛ぶ。

 裂帛の気合いが籠もったハルの怒声は、アルトリウスの姿を揺らめかせ、周囲にいた者達の肝を冷やす。

 冷たい怒気を身体から放つハル、しかしアルトリウスはごく冷静に自分の存在を揺るがした後任者に怯む事無く言葉を更に継いだ。


『怒れ、憤れ、苦しめ、悩め、そして悲しめハルヨシよ。そして最後に思い出せ……自らがこの地で何を成し、何を為そうとしているのかをな……お主の妻が何を望み、どんな思いで、何をお主に托したかを考えるがよい』


 アルトリウスが透けた指で示すのはエルレイシアの大きな腹部。


『お主の妻が健気にも守ろうとした未来をお主は守らねばならぬ。それは何もお主らの子供だけの事を示すのでは無い。お主の妻が守ろうとしたものは、子供に象徴されるこの都市とこの地域の未来である』


 アルトリウスの指先にあるものを凝視するハル。

 今は見るのも辛い、奪われ掛けている未来。

 エルレイシアが苦しげに大きく息をつくのを見たハルの拳がまた固められる。

 静かに手を下ろすアルトリウスが、そんなハルを見つつ顔を僅かに歪めて言う。


『頼むハルヨシよ、我には得られなかった、手に入らなかったものを手に入れてくれ』

「先任……」


 アルトリウスの言葉に視線を上げるハル。

 そこには夢の実現を今一歩の所で果たせず、破れ、そして後継者に全てを托そうとする信頼と期待に満ちた滅びた英雄のほろ苦さを感じさせる笑顔があった。

 ぐっと天を仰ぎ、両手拳を再々度握りしめ、ハルはうなる。

 世の理不尽に、妻を、子を奪われる怒りに身と心を焦がす。

 かつて戦場で目にした顔を、あの悲惨な顔を自分もしているのだろうか。

 傷つくことに疲れ果て、故郷を捨てるように出て来たのは2度とその様な目に遭いたくない、そんな他人の顔を見たくないと思ったからであったのに、今自分がその憂き目にある。

 周囲を見回せば、共にこの地の発展に尽くしてくれる仲間が居る。

 そして愛する妻を得、子供が出来た。

 ハルが拳を握りしめたまま絞り出すように言う。


「守るものが……出来たと思ったのに……」

『ハルヨシよ、守るものを持つ者は脆い、しかし同時に強靱でもある……妻を見よ。守るもののために毒に侵されながらも死ぬ事を拒絶し、自分に術を掛けた』

「エル……」


 彼女の笑顔が脳裏に甦るが、もう2度とその笑顔を見る事は適わないかも知れない。

 しかし、約束をした。

 決心を……した。

 覚悟を決めた。

 それを全て捨てて逃げるる事は出来ないし、ましてやハルの大切なものは今この場所からあらゆる意味で動かせないのだ。


「これから打開策を練ります……官吏と軍人、街の有力者を集めて下さい」





 シレンティウム行政庁舎



「アダマンティウスさんの容態はどうですか?」

「今は小康状態を保っておりまする」

「タルペイウスさんは?」

「同じでございますが、こちらはまだ状態は良いようでございます」


 鈴春茗がハルの質問に生真面目に答えた。


「アダマンティウス将軍の目は眼球が抉り取られて御座います。残念ながら術の施しようが御座いません。医術、治癒術、薬事術いずれも万策を尽くしておりますが……」

「まあ、ダメだな。無いものは元に戻せん。これは按察長官のオヤジも一緒だ」


 鈴春茗に続いてアエノバルブスが難しそうに言った。

 続いて鈴春茗はハルの方をちらちらと見ながら言い難そうに言葉を継ぐ。


「奥方様は……毒の種類は魔獣由来の物と判明致しておりまするが……」

「解毒方法は分からん!何の毒か分からんのでな。解毒薬には劇薬もあるし、その毒が体内にない場合は解毒薬が毒薬になってしまう場合もあるので片っ端から試すという訳にはいかんのだなあ、これが……」


これもやはりアエノバルブスは難しそうな顔で鈴春茗の説明を補足する。

 流石の名医でもエルレイシアの容態については全く手を付けかねていた。

 自らの神官術で仮死状態になっているエルレイシアには治療も治癒術も施せず、また効果的な治療方法は今の所ない。

 ハルは一瞬ぎゅっと目を瞑るが、努めて冷静に口を開いた。


「それは……し、仕方ありません。出来うる限りの手を打って下さったのです……有り難う御座います」


 言葉の出出しで上擦った声を出してしまったハル。

 周囲に居た者達が居たたまれずに目をそらす。


「この様な時に申し訳ありませんが……現況を報告させて頂いて宜しいですかな?」

「お願いします……」


 珍しく沈痛な表情も露わにシッティウスが徐に言い、ハルが唇を噛み締めたまま応じるとシッティウスは一つ頷き、ゆっくりと話し始める。


「……今回の戦で被った痛手は、兵士の死傷が併せて4000余り、大敗です。これに加えてハレミア人との戦いでの損耗を加算致しますと、1個軍団以上の損害が生じております」


 シッティウスに続いてカウデクスが財政的、物資的な損害を報告する。


「資金と備蓄食糧も失いましたわ。敗戦で戦場に持ち込んだ資金と食糧が全て失われておりますの」

「……市民の流出が始まっておる。シレンティウムを脱出しようとする者が増えてきておるようじゃ」

「投資を続けていたフレーディアも無くなっちまった」


 戸籍長官のドレシネス老が沈痛そのものの表情で言葉を発し、ハルに続いてフレーディアから放逐されたタルペイウスが疲れた様子で言った。


「タルペイウスさん!?」

「……こんな状態で寝ていられるかよ」


 青白い顔で突然現れたタルペイウスに驚くハル。

 しかし無理に作った笑顔で応じたタルペイウスは、周囲を見回していった。


「会議には参加させて貰うぜ。一刻も早く技師達を解放してやりたいんでな」


 タルペイウスと技師達の受けた過酷な試練は既に聞き及んでいる。

 現状打つ手はないが何としても一緒に働いた技師達を助け出したいという思いがタルペイウスを突き動かしていた。


「……あんまり無茶をするものではございません」

「へっ、薬師の姉ちゃん、悪いがこれだけは譲れねえんだ」


 鈴春茗の忠告を断わり、アエノバルブスは端から説得を諦めて天を仰いでいる。

 その場の全員が頷き、タルペイウスの参加を認めると、徐にオルキウスが発言した。


「商業も芳しくありませんですなあ……行商もさることながら青空市場も人気が減り続けてます。まあ西方帝国から来た商人は軒並み引き上げ準備を始めておりますぞ」

「……職人達も不安がっている」


 工芸長官のスイリウスが次いで発言し、場は一気に暗くなる。

 そしてシッティウスの言葉がその雰囲気に止めを刺した。


「加えてフリード族シレンティウム派の旗頭であった宮宰ベルガン殿、都市参事会議員であったレイシンク殿が戦死しました……それにアダマンティウス将軍は負傷療養中、大神官エルレイシア殿は暗殺未遂で昏睡状態、これは今後の都市運営で大きな痛手です」

「……くそ」


 小さく漏らすハルの言葉がこの場にいるもの全ての意見を代表していた。


 為す術がない。


 打てる手立ては非常に限られており、しかも早急にしなければならない。


「まずシレンティウムが目指さなければならないのは自力の回復ですな」

「……市民が脱出を図っている今、どうすれば力を回復させられるでしょうか?」


 シッティウスが徐に発した言葉にハルが立ち直れないまま尋ねる。


「まずは東照との交易を増大させ、更に河川航路の開発を前倒しで進めましょう。西方諸都市国家群との交易路を拓き、新たな国力増大のきっかけとします」

「しかし、河川航路には非常に問題が多いのではありませんか?エレ-ル川両岸のクリフォナム、オランいずれの部族も動向が不明確ですわ」

「それに都市を造営するのに最適なイネオン川との合流地点へ行くには、フレーディアが途中に立ち塞がっておる。それを如何にするか……」


 カウデクスが顔を顰めて言い、更にオルキウスが腕を組んで言葉を補足する。


『方法はある』

「先任?」

『ハルヨシよ、悪いが地図を広げてくれんであるか?』


 すいっと場に現れたアルトリウスがそう言いつつ驚くハルに地図を示した。

 ハルが壁に掛かる地図を外し、会議室の机に置くとアルトリウスはシレンティウム周辺の様子を俯瞰してからゆっくりと言葉を発する。


『まずはアルマール村跡、ここをシレンティウムの外港として復興させる』

「……なるほど、ここを拠点に河川航路を使ってイネオン河畔へ向う訳ですな?」


 シッティウスがその意図に気付いて発言すると、アルトリウスは満足そうに頷き言葉を継いだ。


『如何にも。幸い木材は豊富にある場所であるし、元々村があった場所で立地も良いのである。後は東照から技術者が来れば造営は可能であろう。まずはシレンティウムとイネオン川合流地点を河川航路で結ぶのである……ハルヨシよ、鉛筆でそのアルマール村跡地から合流地点まで線を引くである』

「は、はい」


 ハルが大机の上に置かれていた鉛筆を取ってあるトリウスが指で示した川筋に従って鉛筆を入れる。


『ここで大架橋を作る。いずれは石橋に替えるのであるが、差し当たっては木橋で構わんである。西方帝国の建設技術を持ってすれば容易に架けられようが、クリフォナムやオランの民には無理である。故に大いに我らの勢威を高められるであろう』

「ほう……大架橋を境に河川航路を分断するのですな?」

『その通りである。密輸や海賊、敵軍をシレンティウムの手前で阻害せねばならんであるからな。この橋は要塞を兼ねるのである』


 感心頻りなオルキウスの言葉に、またも得意気に答えるアルトリウスは、次いでエレ-ル川の河口付近を示した。


『……ここに住まうケール族を何らかの形で降すか取込み、その集落の一つを交易拠点都市として造営し直すのである』

「しかし、これ程の大事業は聞いた事がありませんわ。必要とされる費用は一体如何程のものになる事でしょうか……今のシレンティウムの財政では賄いきれませんわ」


 アルトリウスの指示に従い鉛筆を入れるハルを見ながら、カウデクスが怖気を震って計画の壮大さとかかる費用の膨大さを指摘する。


『なあに、心配要らん。河川航路も街道の一種である。同盟部族にある程度の負担を求める事が出来よう』

「しかし都市の造営はどうするので?」


 オルキウスが言うと、シッティウスがゆっくりと言った。


「ひょっとして顧問官殿は、西方諸都市国家からの投資を見込んでいるのですかな?」

『如何にも。交易と言う事に関してはセトリア内海で一番貪欲な彼らである、東照の産品やシルーハの産物、それに北方の資源が入手出来るとあらばこちらにやってこようぞ』

「……確かに、セトリア内海沿岸の都市も、そのほとんどが由来は交易を目的とした西方諸都市の植民都市ですわ」

『それにあやつらは武装商船を多数持っておる。こちらが船を擁せずとも利が有ると分かれば海賊を蹴散らしてでも交易に来るであろう』


 かつて西方帝国が成立する以前の西方世界、セトリア内海沿岸は西方諸都市国家群の商人や軍の独壇場であった。

 彼らは交易拠点を求めて内海や外海をくまなく探検し、捜索して各地に都市や港湾を造り、その地域の文明化を進めた。

 領土支配に全く意義を見出さず、興味も示さなかった西方諸都市国家群の人々は、領域支配を目指す西方帝国の成立と共に勢力圏を母都市のある地域まで後退させたが、商人達は今だ活躍し続けている。


 その彼らを旨味のある交易で引付けようというのだ。


 鉱工業や工芸にも秀でた彼らは未だに交易と言う事に関して言えば貪欲で、強い競争力を持っている。

 かつて属州で西方諸都市国家とも交渉した事のあるシッティウスが言う。


「西方諸都市国家群の産品は東照には未だ到っておりませんな。これを上手く売り込めればシレンティウムは正に世界の中心となる事でしょうな。まあ彼らは油断なりませんから十分気を付ける必要があるでしょうが……」

「利を掻っ攫われないよう気を付ける必要はありますわ」


 カウデクスが言うと、シッティウスとハルが頷いた。


『うむ、さすれば西方都市の商人共もこのシレンティウムへの投資に傾くであろう』


 アルトリウスの言葉にシッティウスが更に言を継ぐ。


「ふうむ、都市造営の投資に見合うだけの利益は直ぐ上げられると判断するだろうという訳ですな。分かりました、早速中立派と親西方帝国派の西方諸都市国家に書状を送りましょう」








 アクエリウス復活とエルレイシアの治療



 シレンティウムのアクエリウス噴水にやって来たアルトリウスは、しばらく噴水の様子を眺めていた。

 最近下水道に流れる水が汚水のままであると、市民から苦情も寄せられており、ルキウスが調査した所アクエリウスがいないと言う事が判明した。

 鈴春茗もこの数ヶ月は薬水を貰えず苦労しているとの事である。


 どこに雲隠れしたのか、ただ給水だけはされているので居なくなってしまったり滅せられた状態ではないとアルトリウスは考え、早速調査にやって来たのだ。

 アルトリウスとしては正直このままであればうるさい事も無いのだが、そうも言っていられない。

 アルトリウスの考えているエルレイシアの治療に、アクエリウスは欠かせないのだ。


「せいれいさんいないんだよ鬼しょうぐん~」

「ずっとまえからいないの~」


 幼い兄弟が噴水を覗き込んでいるアルトリウスに声を掛けてきた。

 水を汲みに来たのだろうか、桶を手にしている。


『おう、そうであるか……全く子供達に心配を掛けてしょうもない精霊であるな』

「しょうもない~」

「しょうもないね!」


 アルトリウスの言葉に何か心に触れる物が有ったのか、その幼い兄弟はしょうもなしょうもないと言いつつ帰っていった。

水を汲みに来たのは良いが、余り水質が自宅と変わらない事に諦めたようだ。


『……うむ、あれであるか?』


 アルトリウスは噴水の池底に沈んでいる黒い硬貨を発見した。

 目を眇めて見れば、シルーハの銅貨と同じ刻印が為されているのが分かる。


『ふん……やはりであるな』


 アルトリウスは池に入るとその硬貨に手を触れる。

 バチバチと凄まじい雷音と共に黒い稲光が周囲に満ちて身体を撃つが、同じ暗黒の属性を持つアルトリウスの幽体はそれを受け付けずに取り込んだ。


『ふん、まあこんなもんであるかな?』

『……ありがとう、だけど子供達にしょうもない精霊なんて言わすのは酷いわっ』


池から上がったアルトリウスの背後に、恨めしそうな様子でアクエリウスが噴水より現れ出た。


『しょうもないからしょうもないのである。まあよい、シルーハの闇神官にやられたのは分かっておるから、直ぐに手伝え。エルレイシアが危機である』

『……ごめんなさい、私が封じられている間に大変だったみたいね?直ぐに行くわ』








 エルレイシアの寝かされている薬事院の病室に、アエノバルブスと鈴春茗、それにアルスハレアが集められている。

 次いでハルが入ってきた。

 そこに現われるアクエリウスとアルトリウス。


『おう、揃っているのであるな?』

「何を始めるつもりですかアルトリウス?」


 アルトリウスの呼びかけにアルスハレアが質問を投げかけた。

 全員突然アルトリウスから、エルレイシアの治療をするからと呼び出されたのである。


『焦るでない、これから説明するのである』


 アルトリウスはそう答えると、いつになく真剣な様子でハルを見据えて口を開く。


『荒療治とも言えぬような危険な方法でこれからエルレイシアの治療を行うのであるが……まずはハルヨシ。失敗すればお主の妻の命はなくなる。構わんか?』

「……他に手立てはありません。お願いします先任」


 ハルの承諾の言葉を聞き、大きく頷くとアルトリウスはアエノバルブスに顔を向けた。


『医師よ、医師は越血術を心得るか?』

「……難しいが手順は知っている。血は旦那の血が使える」


 アエノバルブスがハルを見て答え、ハルも頷いた。

 既にエルレイシアの血とハルの血を混ぜ合わせて、凝固しない事を確認してあるので、後は実際に行うだけである。


『ならば良し、薬師よ、増血剤は持っておるか?』

「はっ、言われましたるとおり、既に煎じてエルレイシア殿に飲ませておりまする。予備もここに……」

『うむ、それはハルヨシにも飲ませてやってくれ……では手順を説明する。まずはエルレイシアに使われた毒は魔獣由来の物で間違いないであるな?』

「ああ、それは間違いないな。以前診たことがある、魔毒蛇の物だ。だがどの種類かは分からん」


 アエノバルブスが即答すると、アルトリウスは重々しく頷いた。


『我が死霊の力を用いてエルレイシアの血管を傷つけずに血ごと毒を滅する。鉱物由来であるとダメであるが、生物由来であれば滅する事が出来るのである。ただ我が毒と血を滅すると砂が出来るのでな、これをアクエリウスがエルレイシアの血を用いて外へ押し流す』

『まあ、出来ない事は無いわ』


 アクエリウスが難しそうに答えるが、水を含む物であれば操作する事が出来るので問題はない。

 アクエリウスの答えに笑みを浮かべ、アルトリウスが言葉を継ぐ。


『その後越血の術と服用させた増血剤の効用で血を補うのであるが……万が一母体を損なえば子供は助からんかもしれん……良いかハルヨシよ?』

「……はい」


 神妙に頷くハルを見つつ、アルトリウスはアルスハレアに顔を向けた。


『アルスハレアは治癒術で万が一に備えよ。子供を守ってやってくれ』

「……分かりました」

『では……やるであるぞ』


 アルトリウスの身体から黒い煙が噴き上がった。







アルトリウスの黒い煙はエルレイシアの傷口から体内へ進入し、毒を混じった血液ごと滅してゆく。

 最終的に毒が到達している地点にまでアルトリウスが血を滅すると、アクエリウスがエルレイシアの身体に手を当てると、その体内の血を使ってアルトリウスの滅した毒のなれの果てである砂粒を血ごと押し流した。


『むう……いかん、一部身体そのものにも毒が入り込んでおる』


 黒い煙を送り込んでいるアルトリウスが呻く。

 エルレイシアは血を失って顔面蒼白となり、どっと脂汗を出して苦しそうに呻いた。

 最初はアクエリウスの力を使って血ごと毒を体外へ排出させようと思ったのだが、それだと越血の術を施した際にハルに残った毒が流れ込む恐れがあり、また大量に血を流すことになるのでエルレイシアが失血死する可能性があった。

 必要最小限の血を滅し、必要最小限の血を使って砂を押し出した方が良いと考え、アルトリウスはこの策を実行したのである。


『やむをえん!』


 アルトリウスはエルレイシアの体内の一部を滅してアクエリウスに指示を出す。

 しばらくじりじりとした時間が過ぎ、エルレイシアの呼吸が浅く、早くなり始めた。


「……アルトリウス、これ以上は無理です!」


 エルレイシアが自らの身に施した仮死の術を維持しながら、その生命力が急速に失われていくのを感じたアルスハレアが悲鳴染みた声を上げる。


「……先生、越血の術を!」

「まだ早い!今やるとお主の身に毒が移ってしまうかも知れん!」

「ですがこのままだと……!」


 ハルが見かねて訴えるが、アエノバルブスは首を左右に振って拒否する。

 しかし両先が鋭い針状になった鉄管を持つ手は、白くなる程握りしめられていた。

 既に煮沸消毒され、アエノバルブスの手も酒精にて消毒済みであることは言うまでも無い。


「アルトリウス殿!脈と呼吸がっ!危のう御座いまする!!」


 鈴春茗が叫ぶと同時にアルトリウスが絶叫した。


『毒は除いたである!』

「おっしゃ!」


 すかさずアエノバルブスがハルの腕に鉄管を差し込み、直ぐにエルレイシアの腕へも反対側を刺す。

 それと同時にアクエリウスが血を傷口から噴出させた。

 鈴春茗が血盆で受ける中、エルレイシアの茶色い砂混じりの血が傷口から溢れる。


『ハルヨシ君、ちょおっと頑張ってね?』

「え?おお?」


 ぎゅっと血が下がるのが伝わり、横になっているにも関わらず立ち眩みを感じるハル。

 自身の身体からエルレイシアの身体へ血が流れ込んでゆく。

 アエノバルブスが絹糸で丁寧にエルレイシアの傷口を縫い合せ、その後酒精を染み込ませた綿で奇麗に拭いた。


『……うん、そろそろいいかしら』


 血色の戻り始めたエルレイシアの顔を見つつアクエリウスが言い、血盆を片付けてから脈拍を採っていた鈴春茗もようやく顔をほころばせる。

 アエノバルブスも、落ち着いた鼓動と呼吸をするエルレイシアを見てため息をついた。


「やれやれ、怖ろしい治療法じゃ。心臓にワルイわい」

『我とてこの様な綱渡りは趣味ではないわ。致し方なくである』

「違いない」


 アルトリウスの答えにそう応じつつ、アエノバルブスはエルレイシアとハルを繋いでいた鉄管をゆっくりと引き抜き、その後をきつく包帯で巻いて処置を施す。


「……う~ん立てない……」

「辺境護民官殿、増血薬で御座いまする」


 ハルがぼやくように言うと、すかさず鈴春茗が薬湯を用意してハルに飲ませた。

 その様子を見ながらアルトリウスがアルスハレアに問う。


『……容態はどうか?』

「落ち着いているわ、術を解くわよ」


 ぱっと小さな光が弾け、仮死術が解かれるが、昏々と眠り続けるエルレイシア。


「エル……」


 青い顔をしながらも妻を心配し、顔を横にしてその様子を見るハル。


「嫁と並んでしばらく寝ておれ、1日2日は両方とも起き上がれんじゃろ……と聞いておるか?」


 アエノバルブスがそう言うと同時にハルは気を失った。


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