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天然の仮面を被った令嬢は、すべてを賭けて傭兵領主に嫁ぐ──愛と復讐を誓う、たったひとりのあなたへ  作者: 葵 すみれ


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36.謀の果て、舞台は整う

 馬車が止まったとき、レオは無意識に拳を握っていた。

 王都の一角。表通りから少し離れた静かな住宅街に、その館は佇んでいた。

 控えめな外観。けれど、門や庭に漂う手入れの行き届いた空気が、長く続く家系の誇りを物語っている。


(……変わっていないな)


 かつて父に連れられて訪れたこの家を、記憶はまだ忘れていなかった。

 けれど、今の自分が“レオポルド”として再びこの扉をくぐるとは──あの日には、想像すらしなかった。


 扉が開き、白髪の老婦人が現れる。

 父の姉。かつて自分を「可愛らしい坊や」と呼んでいた伯母。

 その瞳が、自分を見て確かに揺れたのを、レオは逃さなかった。


「……まあ」


 声が震えていた。

 戸惑い。驚き。けれど、その奥に確かな光が宿っていた。


 レオは一歩前に進み、頭を下げる。


「ご無沙汰しています。……レオポルド・アシュフォードです」


 その名を告げるのに、もう躊躇いはなかった。


 老婦人の口元が小さく開き、そして手が伸びかけて止まった。


「……本当に……あなたなのね」


 視線が髪を、体格を、ひとつひとつ確かめるように動いた。


「小柄で、茶色い髪の子だったのに……こんなに……」


「髪は、家を出たころから濃くなっていきました。身体も、鍛えられました。でも……」


 レオはゆっくりと視線を合わせる。


「目だけは、変わっていないはずです」


 老婦人の瞳が潤んだ。


「ええ……その目は、あの方にそっくりですわ」


 そこへ、館の奥から数名の親族たちが顔を出す。

 従兄、従甥に従姪──見覚えのある顔も、記憶の中では幼すぎて今の姿と結びつかない者もいる。


「レオ……ポルド……?」


「でも、髪が……黒い……」


「瞳は……間違いない……!」


 静かなざわめきが広がっていく。


「……今日は、確かめに来ました」


 レオは静かに口を開いた。


「俺が、まだ“レオポルド”であると信じてくれる人が、ここにいるのかどうか」


 伯母が一歩近づき、そっと彼の手を取る。


「あなたが立っているだけで、もう十分です。……あの名は、生きていた」


 それは、失われた家名に灯る、確かな証。


「そして、もうひとつ──」


 レオはパメラの方へと視線を向けた。

 彼女は黙って寄り添い、少しも退こうとはしなかった。


「……彼女は、俺の妻です。共に歩むと決めた相手です」


 パメラが軽く一礼する。静かだが、揺るぎのない仕草だった。


「わたくしも、彼と共にこの道を歩む覚悟をしております」


 その言葉に、伯母の目が優しく細められた。


「……まあ。あなたの隣に、そんな方がいらっしゃるのね」


 レオの胸の奥に、わずかな安堵が灯る。

 この紹介を受け入れてもらえたことが、想像以上に大きな意味を持っていた。


「……でも」


 レオは少し声を低くした。


「今ここで、俺の名を公にしてはならない。……お願いがあります」


 自分の言葉が静寂に沈んでいく。喉の奥が張りつき、唇の内側がわずかに痛む。

 信じてもらえた。だからこそ、ここで間違えてはならない。すべてを壊さないために、慎重にならなくては。


 伯母がわずかに眉を上げる。


「どういうことかしら……?」


「まだ、場が整っていない。俺が“レオポルド”であると知られるには、証と覚悟、そして場が必要です。揃わぬうちは、口にしないでいただきたい」


 パメラが横に立ち、静かに補足する。


「今これが広まれば、敵に警戒され、動かれる可能性があります」


 しばし沈黙が続く。

 やがて伯母は、深く息を吐いた。


「……ええ。分かりました。口外はいたしません」


 そして、彼をまっすぐに見つめる。


「あなたは──アシュフォード侯爵家の名を、背負おうとしているのね」


 レオは頷く。

 その言葉に、心の奥で熱いものがじんと広がっていく。

 あの名が、ようやく自分の中に帰ってきた気がした。


「しかるべきときが来たら、その場で証言していただきたい。俺がレオポルドであることを、あなたの口から明かしてほしい」


 その願いは、これまで胸の奥で押し殺してきたものだった。

 今、ようやく言葉にできた。


 伯母は一瞬だけ目を閉じ、そして小さく微笑んだ。


「ええ。私の名にかけて、約束いたします。……その時が来たら、私は胸を張って、あなたが“戻ってきた”と証言しますわ」


「ありがとうございます」


 レオは、深く頭を下げた。

 それは、血を継ぐ者としての決意であり、再びこの家に帰ってきたという静かな証でもあった。

 この一歩が、過去と未来を繋ぐための確かな礎となるのだと、彼は強く胸に刻んでいた。




 夕刻の陽が、窓辺に差し込んでいた。 灰色の石壁が、わずかに赤く染まる。まるで、遠くで燃えはじめた火が空を照らしているかのようだった。


 書斎の机には、ヴェステリア公爵から届いた文書が広げられている。


「……決まったか」


 レオは静かに紙片を手に取り、内容に目を走らせる。


『ラングリー伯爵家の継承に関する調整と、その経緯説明の場を設ける』


 表向きは、あくまで継承に関する確認と弁明の場。だが、その形式の裏には、もっと深い意図が潜んでいた。


 この場を整えたのは、ヴェステリア公爵だった。

 夜会でパメラに刺客を放った一件に対する詫び──そして、レオが持ちかけた取引の結果でもある。


 あえて下劣な文面を認め、自分たちの野心を露骨に綴った手紙。

 それは、自分たちが使える駒であると、公爵に示すための芝居だった。


(釣れたか、あの男が)


 レオは目を伏せる。

 誇りも、真実も、しばし胸にしまい込み、あえて愚かな男を演じた。すべては、名誉を取り戻すため。


 そして、その場に王家が立ち合うことを実現させたのは、マルトン夫人だ。

 彼女の働きかけにより、旧貴族派とゆかりのある王族の一派が関心を持ち始めている。


 ヴェステリア公爵が舞台を整え、そしてマルトン夫人が王家を動かしたことで、事態はただの継承争いを超え──王権すら揺るがす政争へと形を変えようとしていた。


(いよいよ……舞台は整った)


 レオは机に置かれた鍵束を手に取り、ゆっくりと扉の奥へ向かった。

 書斎の隣にある、小さな物置部屋。ほとんど誰も近づかないその場所に、彼はひとつの袋を保管していた。


 それは、かつて家を出たときに唯一持ち出したもの。

 まだ少年だった彼が、屋敷を離れる朝に、父から託された短剣と共に、自室でそっとまとめた袋だった。


 布地は古く、擦り切れている。

 それでも、彼の手は丁寧に紐を解いた。


 中には、二つのものが収められていた。


 ひとつは、アシュフォード家の紋章が刻まれた短剣。

 柄の金属は経年で少しくすんでいたが、刃はなお光を帯びていた。


 そして、もうひとつ。


「……石、か?」


 掌に収まるほどの平たい石。 何かが彫られている。よく見れば、それは、獣のような、翼のような──子どもの手で彫られた稚拙な線だった。


 それが何であるか、すぐには思い出せなかった。

 けれど、なぜか手が止まった。

 胸の奥で、何かがわずかに疼く。


(……どこかで──)


 記憶の底に沈んでいた何かが、かすかに揺れる。


 だがそのとき、書斎の扉がノックされた。


「レオさま、入っても?」


 パメラの声が響く。


 レオはわずかに肩をすくめ、石と短剣をそっと袋に戻す。

 紐を結び直し、棚の奥に袋を戻したころ、扉が開いた。

 パメラが足音を立てずに入ってきて、レオの姿を見つけて微笑む。


「お邪魔でしたか?」


「いや、ちょうどいいところだ」


 わずかに呼吸を整えてから、レオは振り返り、落ち着いた声で言った。


「舞台は整った。あとは、俺たちがそこに立つだけだ」


 彼女は静かに微笑み、うなずいた。


「ええ。……このときを待っていましたわ」


 その言葉に、レオの胸がわずかに熱を帯びる。


(俺ひとりでは、ここまでは来られなかった)


 過去と向き合い、血を認め、声を上げるためには、彼女の存在が必要だった。

 その手を取ったことを、今は誇りに思える。


 明かりが少しずつ陰りはじめる。

 夜が近づく。

 だが、その先に訪れるのは、ただの夜ではない。


 ──決戦の、幕開けだ。

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