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天然の仮面を被った令嬢は、すべてを賭けて傭兵領主に嫁ぐ──愛と復讐を誓う、たったひとりのあなたへ  作者: 葵 すみれ


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35.信じる者の名のもとに

 馬車の中は静かだった。

 車輪の揺れに身を任せながら、パメラは窓の外に流れる景色を見つめていた。


 この道を通るのは、二度目。

 けれど、一度目の記憶が、胸の奥に影を落としていた。


 ──刺客に襲われたあの日。

 ミランダを保護し、肩を負傷し、レオに救われた記憶。

 命の重さを骨の芯で知った日だった。


 本来ならば、最初から彼と共に向かうはずだったのだ。

 それが、ようやく今日、果たされようとしている。


 隣に座るレオは、目を閉じて何も語らない。

 だが、その存在だけで、こんなにも心が静かに満たされている。

 不安も、恐れも、今はもうない。


(……あなたがいてくださるだけで、こんなにも心強いなんて)


 その想いを、声に出すことはできなかった。

 けれど胸の奥では、確かに、小さな火が温かく灯っている。


 赤紫色の瞳の奥に宿るもの──それを知っているのは、きっとこの世で自分だけだ。

 それが誇らしく、少しだけくすぐったかった。


(……二度目の訪問。今度こそ、前へ進むために)


 馬車が停まり、御者の声が響く。


「奥さま、旦那さま。マルトン夫人のお屋敷に到着いたしました」


 パメラはスカートの裾を整え、レオと共に馬車を降りる。

 目の前に広がるのは、歴史ある旧貴族の屋敷。

 装飾は控えめながら品があり、長く守られてきた空気が、石壁や扉の木目からも伝わってくる。


 応接間に通されると、すでにマルトン夫人が待っていた。


 整えられた髪、磨き抜かれた装飾品、そして一分の隙もない背筋。

 その佇まいは、前回と変わらず誇りある貴族そのものだった。


「まあ……ようこそ。わたくしの屋敷に成り上がりの男爵殿とそのご夫人が揃って現れる日が来るとは、思いませんでしたわ」


 それは歓迎の言葉ではなかったが、追い返す意図も感じられなかった。

 パメラは微笑んで一礼する。


「先日はご足労いただき、ありがとうございました。その節は、大変助けられましたわ」


「ふふ……あれはただの昔話をしただけ。あなた方が何かを見つけたのだとすれば、それは自分たちの力でしょう?」


 紅茶のカップに指を添えながら、夫人はわずかに笑う。

 その所作に、皮肉と好意が絶妙な比率で交ざっていた。


 レオは壁際から歩み出ると、低く呟いた。


「……あんたのことは、いけすかねえババァだと思ってる」


 その第一声に、パメラは軽く目を見開く。

 だが、レオの声は不器用な誠実さを滲ませていた。


「けどな。貴族としての誇りと矜持は、かけらも疑っちゃいねえ。筋が通ってることくらい、俺にも分かる」


 マルトン夫人はカップを持ち上げ、くすりと喉を鳴らした。


「まあ……野良犬だったあなたにしては、なかなか聞ける言葉ですこと。ようやく語るということを覚えられたのね」


「不器用なのはもとからですの。……ただ、礼を尽くすべき方には、それなりの姿勢でお応えする主義ですわ」


 パメラの言葉に、夫人の視線が少し和らぐ。


「今日は、お願いがあって参りましたの」


「お願い、ですって?」


 パメラは真っ直ぐに一歩を踏み出す。


「王家との橋を、お借りできませんか」


 一瞬の静寂。

 マルトン夫人はカップをソーサーに戻し、立ち上がった。


「……あなたたちが、どこへ向かおうとしているのか。興味がないとは申しません」


 窓辺に歩み寄り、レース越しの光を受けながら、低く呟く。


「けれど、それだけの覚悟があるのかしら? 橋を繋げば、わたくしにも責任が生まれますのよ」


 その声音は、穏やかなようでいて確かな重みを帯びていた。

 それは老いた貴族の余生の問いではなく、誇りある者としての最後の確認だった。


 しばしの沈黙。

 やがてレオが、わずかに視線を落とし、静かに言葉を落とした。


「“栄誉は声にせず、行いに宿る”」


 その一言が落ちた瞬間、マルトン夫人の指が止まった。

 紅茶の香りが薄れていく中、彼女のまなざしがゆっくりと揺れる。


「……その言葉を、どこで?」


「母からだ。俺が家を出る前夜に教えられた」


 レオは少し間を置いて、静かに続ける。


「これは、旧貴族派の中で信頼に値する者にだけ伝えられてきた合言葉。困ったとき、この言葉を使えば、知る者は手を差し伸べてくれる──そう言ってた」


 マルトン夫人はしばし沈黙し、レース越しに差し込む春の光からそっと目を逸らした。

 瞳の奥が、ほんの少しだけ遠くを見ていた。


「……あなたはいったい……」


 声には、警戒ではなく、胸をかき乱すような懐かしさが滲んでいた。

 レオはまっすぐその視線を受け止めながら、一歩、言葉を踏み出す。


「アシュフォード侯爵家の次男──レオポルド・アシュフォードだ」


 室内が静まり返る。


 マルトン夫人の表情に驚きはなかった。

 それはまるで、記憶の底にあった答えが、ようやく目の前に現れたような静かな確信だった。


「……なるほど」


 マルトン夫人は目を細める。


「父君にはあまり似ていらっしゃらないけれど……あの方に、よく似ている。特に、黙って何かを耐えるときの表情が」


 パメラは、そっとレオの隣に立つ。


「彼は、これまでこの名を口にすることを避けてきました。でも今は──この場でだけは、信じていただきたいのです」


 マルトン夫人はふたりをじっと見つめたのち、ゆるやかに腰を下ろし、カップには手を伸ばさなかった。


「……そう。あの方が、あなたに“あの言葉”を託したのなら──」


 そこで言葉を切り、小さく笑みを浮かべる。


「よろしいわ。王家への橋。……わたくしが繋ぎましょう」


 レース越しに差し込む春の光が、白銀の髪にそっと触れていた。


 パメラは、胸の奥でそっと息を吐く。

 その小さな一歩が、確かに、未来へと繋がっていくのを感じていた。

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