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6 宿願は果たせない



 ミストは時計台へつづく階段を上っていた。

 あのままパーティ会場にいることはできなかった。アオギリとネルフィが親しげに戻ってきたら──そう考えるだけで胸が引き裂かれそうだったから。


 時計の針は前にしか進まない。あのときと同じだ。


 ミストがこの先で殺されて。アオギリが命を引きとった、あのときと。


 階段の途中で立ちどまり、黒いレースの手袋をはめた自分の手をミストは見下ろす。

 どうしてこんな力があるのだろうとずっと考えてきた。できることなら捨ててしまいたかった。でも、初めて役に立って……自分の力は彼を生かすためにあるのだと思った。それなのに。


「こんなことなら……」


【強奪】の異能なんていらなかった。いや、そんなことを思ってはいけない。

 たとえアオギリの未来に自分がいなくとも。彼が生きている、それだけで充分なのだから。


 もうアオギリはミストのことを忘れてしまったけれど。

 命をかけて守ってもらえた、その記憶だけで──


 これからも私は生きていける。そう思っているのに視界が滲んだ。

 透きとおった雫が次から次へとあふれて頬を伝っていく。


 ……会いたい。


 浮かんではならない想いが胸に浮かぶ。

 泡沫のように。水中で咲く花が呼吸をするように。


 彼に会って、もう一度名前を呼んでほしい。


 赦されない想いだとわかっていた。この未来は、ミストが【強奪】の異能を使って得た未来だ。

 彼の異能を断りなく奪った。裁く法がなくともこれは罪だ。


 罪を犯した女が──なにかを願うなんてあってはならない。


 それでも彼に会いたかった。あの黒い瞳でミストを見て、あの生真面目そうな声でミストに話しかけてほしかった。それだけでいい。それだけでいいから。


 どうか、もう一度だけ。


「アオギリさま……」

「呼んだかい? ミストさま」

「……っ!」


 下から返事をされてミストははっと振りかえった。

 アオギリとは似ても似つかない薄っぺらい笑みを浮かべ、左頬にほくろのある男が階段を大仰な動きで登ってくる。


 ──ボリス。ネルフィに執心している彼はミストのそばまでくると、「パーティの主役がひとりでどうしたんですか?」と聞いてきた。


 彼も貴族のはしくれだがとてもそうは見えない。茶色い髪はぼさぼさでネクタイは曲がっている。本人はそれを『色気がある』と解釈してわざとやっているらしいが、ミストの目にはだらしないだけにしか見えなかった。


「……なんでもいいでしょう。あなたこそはやくネルフィにつきまとったらどう?」

「つれないなぁ。おねえさまにサプライズプレゼントを用意してあるのに」

「なに? 渡すならはやくして」


 ボリスはにたにたと笑う。「当ててみてくださいよ」と言われ、「興味ないわ」とミストは切りすてた。


「そんなこと言わずに、おねえさま」

「…………」


「へへ、仕方ねえな。なんと俺は──」ボリスは両手を広げる。「爆弾を用意してきたんだ。ああ、この城には仕掛けてないですよ。道の途中にね」


「は……?」


 ──あの爆弾騒ぎはボリスがやったものだったのか? なぜ? なんのために?


「驚いた驚いた! まさか信じてもらえるなんて思いませんでしたよ」

「……どうしてそんなことを」

「だからサプライズですよ。俺ね、あんたが一度あわてふためく姿を見たかったんだ。いつも俺のことをバカにしてるあんたが泡食って逃げまどうところをさ、猟銃で狐を追うみたいにさ、追いかけて──」


 ボリスの様子がおかしい。そう思ったときにはもうミストは彼に腕をつかまれていた。


「離して!」

「く、食ってやろうって。ずっと思ってたんだよ」

「この……っ」


 異常な力でボリスの指が食いこんでくる。痛みを覚えたが、それ以上に目の前にいる男への恐怖があった。

 目がおかしい。ここではないどこかを見ている。まるで──いつかのスティーヴのような──


「悪女のあんたを殺したら俺は英雄だ!」

「あ──」


 ボリスは両手でミストの首を絞めにかかってくる。どうにかして逃げようともがいたがボリスの手はびくともしなかった。

 苦しい。頸動脈が圧迫され、どくんどくんと血液が送られる音が耳の内側でうるさいくらいに鳴りはじめる。


 ──死ぬ?


 ふっと指先が冷たくなった。心なしか痺れている感覚がある。


 ──殺される覚悟はできていた、けど

 ──こんな男に首を絞められて死ぬなんて


 アオギリが無事なら【死に戻り】は発動しない。そのことを思ったとき、アオギリのことが心から離れなくなった。


「たす……」


 ……たすけて。アオギリさま。


 その声が届いたかのように。

 急に首を絞めつけていた手が外れて、激しくむせこんだミストがなんとか顔をあげると──壁に体を預けて倒れこんでいくボリスの向こうに彼の姿があった。


「アオギリ、さま……」

「俺は間に合いましたか?」

「────」


 彼は手に短剣を持っていた。鞘は外れていないから、それでボリスの頭を思いっきり殴りつけたのだろう。

 ミストがうなずくとアオギリは「よかった」と噛みしめるようにつぶやく。


「アオギリさま、なぜここに……」

「話はあとです。とにかく、ここを離れましょう」


 ミストはためらいながらうなずく。

 アオギリはミストの横に立って彼女に自分の腕をつかませると、時計台に向けて歩きはじめた。

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