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2.3 落とされた赤@白の世界

「私は……ユウではありません」


 そこで一度言葉を区切り、結城さんは下げていた視線を上げた。そして僕を真正面からきちんと見つめ、言った。


「あのユーザーネームは私のものです。苗字のとおり。ですが青池さんとメッセージ交換をしていたのは私ではありません」


 ぎゅっと、マグカップを握る両手に力がこもった。

 指先にかける力を意識して抜くのは至難だった。


「それは……どういうことでしょうか」

「はじめから。はじめから説明させてください」

「どうぞ」


 結城さんがまたうつむいた。まつげがかすかに揺れている様は次に発する言葉を選んでいるようだった。彼の脇にはスタイリッシュなシルバーのノートパソコンが置いてある。そのすぐそばには英文の雑誌が二冊ある。こなれたファッションとクールな雰囲気。彼を取り囲むすべての物は彼の自信の源になるはずなのに、今、彼ほど惑いの中にいる人間はこのカフェにはいないと思えた。そう思えた。


 ようやく結城さんが口をひらいた。


「私には……姉がおりました」

「おりました?」


 語尾に素早く反応してしまったのは職業病かもしれない。

 それに結城さんが眉をひそめた。苦しそうに。


「ええ。私には姉がおりました。アオさんとメッセージを交わしていたのはその姉なのです」


 このわずかな会話だけで、僕にはもうこの話の結末が読めてしまった。


「つまり僕は生前のお姉様とメッセージを交わしていたんですね」


 とはいえこの問いを投げかけるには勇気がいった。「ぶしつけですが」と前置きをする。


「お姉様は事故か何かで急に、その、お亡くなりになったんでしょうか」


 うつむき机を見つめる結城さんの目が、まるで睨むように鋭くなった。だがしばらくすると、結城さんは肩の力をそっと落とした。


「姉は病気で亡くなりました。少しずつ筋肉が衰えていく病にかかっていたのです」

「そう……ですか」


 今度は僕の方が返答するまでに時間を要した。動揺は恐ろしいほどに僕の内面を乱した。落ち着こうと震える指が無意識にマグカップに触れていた。こういう時に何かに触れたくなるのはもはや習慣だったから。だが口に含んだコーヒーからは香りも味も何も感じられなかった。ただ、熱いと、それだけを舌が感じた。


「ではお姉様は闘病中に僕と……?」


 何を根掘り葉掘り聞こうとしているのだろうか。自分の浅はかな態度に自分自身で嫌悪感を抱いた。重い病にかかっていた女性、そんな姉を亡くした男性に向かって何を。だけど僕の口は勝手に動いていた。


「それとも病名に気づいたショックで、それで急にあのサイトを退会されたんでしょうか」

「……いえ」

「では。どうして」


 結城さんを責めてもどうしようもないことは分かっていた。だけど言わずにはいられなかった。


「……僕は本当に彼女のことが好きだったんです」


 またマグカップを握る両手に力が入り出していたが、指先が白くなろうとも、熱くても、かまうことなどできなかった。ずっと抑えていた感情、抑え込んでいた心の壁が壊れていく。そう、僕は――。


「好きだったんです、彼女のことを。身を焦がすほどの恋を……していたんです。彼女がどういう人でもいいと、本気でそう思っていたんです。彼女が退会し……僕はとてもショックを受けたんです。ずっとずっと彼女のことを忘れることができなくて、苦しんで苦しんで……」


 長い沈黙の後、ようやく言えた。


「……僕には知る権利があるはずだ。なぜ彼女が僕から逃げたのか、その理由を」

「逃げてません!」


 突如僕の言葉にかぶせてきた結城さんは、驚くほど大きな声を出し顔を上げた。


「姉はあなたから逃げていません!」

「ではどうしてっ……!」

「逃げたのは姉ではありません。逃げたのは私です」

「……は?」

「逃げたのは……私です」


 繰り返す結城さんは泣く寸前のような表情になっていた。


「私が怖くなって逃げだしたんです。『まるで人間のように』振舞いだした姉に怖くなって……それで」

「どういう意味ですかそれは」


 すかさず追及すると、結城さんが一瞬ひるんだ。

 だがややあって答えた。


「ノベルズヘブンのユウのメッセージ、あれは姉の思考を組み込んだAIが自動で作っていたものなんです」

「…………AI?」

「姉自身は青池さんとメッセージを交わすようになる三年前に亡くなっています」


 また音がやんだ。


 店内が沈黙に包まれる。

 自分の呼吸する音すら聴こえないほどに。

 だけど雪の降る音だけは聴こえた。


 なぜか雪の降る音だけが聴こえた。


 はらはらと舞う雪。ひらひらと舞う雪。しんしんと積もっていく雪。ふわりふわりと積もっていく雪。様々な雪の音が聴こえる。


 だけど静かだった。音がするのに静かだった。


 そこに結城さんのか細い声だけが響いた。


「……姉は長い闘病生活を家や病院で過ごしてきました。だけど姉は辛そうなそぶりもみせなかった。私にいつも優しかった。私はそんな姉のことが好きでした。愛していました」


 愛していました。


 その言葉が真っ白な雪の中にことんと落とされた。


 どこまでも真っ白な世界に赤いリンゴを一つ落としたかのように。


 その赤は白の中に落とされたがゆえにひどく鮮烈な存在感を放った。


「病が進行するたびに姉のできることは少しずつ失われていきました。歩けなくなり、食べ物が喉をとおらなくなり、指先すら動かなくなり。最後には視線だけで家族と会話をしていました。知っていますか? そういう人のための意志伝達用の装置があることを」


 それに僕は返事もできず、うなずくこともできず。ただ青白い顔を彼に向け続けることしかできなかった。白の世界は結城さんのこぼす赤に少しずつ浸食されていくようだった。


「私は姉のことならなんでも知っています。姉と一番一緒に過ごしたのは私でしたから。だから姉がどういう時にどういうことを考えるか、なんて言うか、何が好きで何が嫌いなのか、分かるんです。そして」


 そこで言葉を区切ると、結城さんが深いため息をついた。


「そして姉が亡くなって……決意したんです。姉をAIとしてよみがえらせよう、と」

「よみがえらせる?」


 どうしようもなく乾いた喉が鳴った。

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