360食目 運が無い
壁に手を尽きながら暗闇の中を進む全裸の女。
異常なほどに足取りが重いのは消耗しきっているからだろうか。
「こ、こんな時にっ、なんでっ、身体がっ」
重い、重過ぎる。これは異常だ。
淫鬼は言葉を言い切る前に、それを中断せざるを得なかった。
闇の向こう側からコツコツと何者かの靴音。
果たして見回りの兵士であろうか。
それにしては明かりの一つも照らしていない。
壁に肩を押し付け倒れないようにしつつ息を殺す。
運が良ければ気付かずに通り過ぎるであろう。
もし、弱そうならエネルギー補給に喰らってもいいかもしれない。
そのような事を考えながら様子を窺っていた鬼の女は、その顔を青褪めさせて行く。
「はぁい♡ 遅いから、こっちから来ちゃった」
「い、茨木童子っ!」
闇の中から姿を現したのはユウユウだ。
これもプリエナによる指示。
「うふふ、憎怨の右腕さん、同じ右腕同士、仲良くしましょうかぁ」
「ひぃっ!」
冗談ではない、今の自分で勝てるはずもない。
絶望感からか、淫鬼は腰が抜けた。
その恐怖で無様にも失禁。
だが、淫鬼はそれどころではなく、自分の助かる術を考えに考える。
「クスクス……いいわよぉ、その表情。ゾクゾクしちゃう」
「た、たたたた、たすっ……助けてっ!」
考えた結果が、これ。
まさか、自分がそのような言葉を口にするとは。
かつてないほどの屈辱感。
失禁と共に抜け出てゆくプライドは淫鬼に土下座を選択させる。
「み、見逃してくださいっ! なんでもしますからっ!」
完全に詰んでいる。
ある程度、茨木童子の情報は頭に叩き込んでいたが故の絶望。
今の自分では逆立ちしても勝てない。
であれば無様でもいいから逃げる隙を作り出すしかない。
「あらぁ? なんでもするの? そうねぇ」
ニヤニヤとしながら淫鬼を見下す茨木童子は、やがて淫鬼にこう告げた。
「じゃあ、三回周ってわん、って言ってちょうだいな。」
「な……!?」
まさかの指示に淫鬼は仰天する。
そんなことをしている場合ではない、というのに。
「やだぁ、なんでもしてくれるんじゃなかったの? じゃあ、消滅させちゃおうかな」
「ま、待って! します! しますからっ!」
半べそになりながら、屈辱的な行動を行う。
それを見た茨木童子はクスクスと嘲り笑った。
だが、これは当然ながらユウユウの時間稼ぎ。
「うっ、うっ、ぐずっ……」
あまりの情けなさに泣きじゃくる淫鬼であったが、これも因果応報。
彼女は彼女が手を掛けた犠牲者は、これよりももっと悲惨な目に遭っているのだ。
茨木童子はそれを知っているからこそ、淫鬼にこの条件を突きつけた。
だが、茨木童子は淫鬼とは違い、早々に飽き始めていた。
彼女は血肉沸き上がる闘争が何よりの娯楽、そして快感であって、他者が喘ぎ苦しむのを見るのは趣味ではない。
喘ぎ鳴く姿を見るのは好きなもようだが。
「わんっ! うう……これで、いいでずがぁっ!」
「あら、見てなかったわ。もう一回ね」
にっこりと微笑む茨木童子は真の鬼であろう。
これに、淫鬼は真っ赤になっていた顔を再び蒼白へと戻してしまった。
「や、約束がっ!」
「誰も一回だけなんて言ってないわよぉ? さぁ、頑張れ、頑張れっ」
もう淫鬼に、そのような気力は無い。
そして、後方から何者かの靴音。
一人、二人、可能性としては幸運の女神、そして桃使いの小僧か、と淫鬼は推測。
それは正しく、敗走した鬼に止めを刺しに来たのだ。
「あらあら、どうしたの? 早くしないと鳴く前に逝っちゃうわよぉ?」
「お、おまえっ! こうなることを知っていて!」
怒りに任せ立ち上がろうとする淫鬼は、しかし、下半身が無いような感覚に囚われて前のめりに転倒。
生まれたての小鹿のように尻だけを突きあげた姿勢になった。
「あなた、本当に運が無いわねぇ」
「運が……はっ!?」
まさか、という閃き。
幾らなんでも、ここまで不運というのはおかしい。
であれば、あの狸の女が何かしたのでは、という結論にようやく至った。
「やっと気づいたんですかぁ? 鈍感ですねぇ」
「鬼めっ! 追い詰めた……ひえっ」
遂に淫鬼に追いついたプリエナとレギガンダー少年。
しかし、レギガンダーは敵とはいえ、女の丸出しの下半身を見てパニックになる。
「あらあら、うぶな坊やね」
「ちょっと、足止めだけでいいのに、何をさせていたのぉ?」
「わんこの真似をさせていたわ」
「えっ? わんこ?」
「そう、わんこ」
ちょっぴりの沈黙と、レギガンダー少年の「大人の女の人って、こうなんだ」という呟きはあまりにシュールであった。
この隙を逃しては進退窮まる、と淫鬼は残った力を振り縛り、蛆虫のように這いながら逃走を試みる。
「どこへ行こうというのかしら?」
「ぐえっ!?」
が駄目。圧倒的に遅すぎる。
ユウユウに思いっきり腰を踏まれた淫鬼は、下半身から体液を吹き出した。
異様な臭いが地下通路を満たす。
「じゃ、そろそろ止めを刺しましょうか」
「や、やめてっ……言われた通りにしたじゃないっ!」
「うん? そうだったっけ? あぁ、そうだったわね。それじゃあ今度は……」
ぱくぱく、と口を開閉させる淫鬼。
茨木童子は約束を護る気など毛頭無い、とようやく理解したのだ。
「やだっ、た、たすけっ……」
涙声で懇願する鬼の女にプリエナは冷徹に告げた。
「その懇願を、あなたは幾つ踏み躙りましたか? この子はしっかりと見届けているんですよ?」
プリエナの頭の上から見下している狸のぬいぐるみは、淫鬼の残虐な行為の全てを見届けている。
今、茨木童子がおこなった虐めなど生易しいと思える非道を楽しんで行っていたのだ。
「あ、ああぁ……! い、いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
それでも生に執着する淫鬼はジタバタと藻掻いた。
しかし、腰は完全に砕けており立って逃げることも叶わない。
完全に彼女は詰んでいる状態なのだ。
「レギガンダー君は桃戦技を使えるのかな?」
「桃光剛破斬を一回だけ」
「じゃ、鬼退治、やってみようか」
「はいっ、プリエナさん」
目標は真面に動けない弱り切った鬼。
幾ら見習いであっても仕損じるということは無い。
「やだっ、やだっ、やだっ、やだっ、やだっ! 滅びたくないっ! 助けてっ! 誰か、だずげでぇ……!」
「おまえが奪った命に詫びろっ! 桃戦技! 桃光剛破斬っ!」
レギガンダーが小太刀に桃力の輝きを纏わせ、上段から振り下ろす。
それは金属がぶつかり合う音がして決着となった。
「なっ……?」
「すまなんだな、少年」
ふっ飛ばされるレギガンダー。
それを受け止めるユウユウは、にやり、と口角を上げる。
「随分としょぼい餌で大物が釣れたわね」
「買い被り過ぎだな」
レギガンダーの桃光剛破斬を受け止めた者とは、三つの顔と六つの腕を持つ益荒男であった。
その名は阿修羅鬼。
餓鬼と一つ目小僧を召喚していたのも彼だ。
阿修羅鬼は淫鬼を抱き上げ、彼女の涙を指で拭って窘めた。
「調子に乗り過ぎたな」
「えぐっ、えぐっ、あじゅらぎぃ」
「今回は我々の敗北だ。素直に受け入れよう」
「あら? 逃がすと思って?」
ユウユウの挑発に、阿修羅鬼はしかし、首を横に振る。
「この場での決着は、いささか無粋ではないか?」
「もっと相応しい場があると?」
「然り」
背を向け闇に向かう阿修羅鬼。
しかし、誰も仕掛けることができない。
彼女らは知っている、飛び掛かれば一刀に切り伏せられると。
「少年、もっと強くなることだ」
その言葉を言い残し、強大な鬼は姿を消した。
今、この場で阿修羅鬼が戦いを望まなかったことは、圧倒的な幸運と言えよう。
阿修羅鬼の気配が消える、と同時に大量の汗が噴き出る。
プリエナ、レギガンダーはもちろんの事、ユウユウも久しぶりの冷や汗だ。
「うふふ、あんなヤツが生まれていたとはねぇ。ゾクゾクするわ」
「尋常じゃないよぉ。あの鬼」
床に下ろされたレギガンダーは、そのまま尻もちを突く。
阿修羅鬼の圧倒的な闘気に腰が抜けてしまっていたのだ。
「な、なんなんだ、あいつは……」
「あいつがエルドティーネが言っていた阿修羅で間違いなさそうね」
「あれが、本物の鬼っ……」
自分も本物なんだけどな、とユウユウは思ったが口に出すのも無粋かと苦笑する。
そして、彼女は地下に充満していた陰の力が多量に消失してゆくのを感知した。
「どうやら、上手く行ったようね」
「何かやったの? ユウユウちゃん」
「やられたらやり返すことで、成仏する連中もいるのよ」
そう、先ほどの淫鬼に対する非道な行いは、ただの思い付きではない。
この地下には淫鬼によって殺された者たちの負の感情で満ち満ちており、それを糧として淫鬼は活動していた。
したがって、先ほどの行為によって恨みが張れ成仏して行っている者も少なくない。
だが、中には相当に恨みを持ち悪霊化している個体も存在していた。
「あら? 変ね」
ユウユウは面倒臭いが、悪霊を消滅させようと一歩を踏み出したところで異変に気付く。
その悪霊が一斉に移動を開始しているのだ。
向かう先がどこかを大雑把に推測。
方角からして中庭だ。
「悪霊どもが一斉に中庭に向かっている……いや、これは吸い寄せられて?」
ユウユウの推測は正しく。
そこには淫鬼の半身たる戦鬼が隠されていた。
それが起動せんと陰の力を掻き集めているのである。
では誰が、といったところで【現聖王】の姿が見えなかった事にユウユウは気付いた。
「現聖王って見た?」
「いえ……ってまさか?」
「その可能性は否定できないわね」
「ここまで用意周到だったなんて」
恐らくは、エネルギー補給用に貯蔵しておいたのだろう。
プリエナはそう考える。
戦鬼を隠すには中庭が都合が良い事は分かり切っていた。
しかし、その戦機の中に聖王を隠すとは思いつかない。
現聖王は完全に淫鬼の傀儡だ。命じられれば従うだろう。
問題は、いつから入れられているか、だ。
ポンポから渡された情報によれば、一ヶ月もの間、姿を確認できなかったとされている。
それは最大で、一ヶ月はそこに放り込まれている事を意味する。
果たして、そこは生命が維持できる場所なのか。
そう考えた時に、あの女がそこまで気にするとは思えない、という結論に至るのは自然であり。
「悪霊が悪霊を引き寄せる、か」
恐らくは現聖王は生きてはいまい、そこで朽ちて悪霊化した可能性が高い、と狸の彼女は思い至る。
それは正しく。
淫鬼という半身に置いて行かれた戦鬼は、悪霊化した現聖王の管理下に置かれ、今暴走しようとしている。
起動に必要な陰の力を掻き集め、エンジンを温め始めているのだ。
それは、地響きのような現象を引き起こす。
淫鬼は本体が弱い代わりに、超強力な戦鬼を動かすことができた。
単身ではか弱いとまでされる彼女が、鬼の新四天王と同格なのは、これが理由である。
「私たちも地上へっ」
「そうね、崩落に巻き込まれたら面倒だし」
ユウユウはひょいとレギガンダーを持ち上げ足早に出口へと向かった。
「あ、あのっ、自分で走れますっ」
「だぁめ、オムツが取れない坊やは、お姉さんの言う事を聞かなきゃいけないのよ?」
「ふぁぁぁ」
蕩けるような微笑に、幼き少年は骨抜きにされる。
彼の性癖がダメな方へと傾かなければいいな、と思いつつも止めないのは、プリエナもまた良い性格をしているからだ。
いよいよ以って激しくなる地響き。
それは決戦のゴングと同じ意味を持っていたのだった。




