63話 皇帝
「天に二つの月昇る時
大地に悲しみが降り積もる」
百年の後、伝えられた詩人の一説。
その日、帝国領各地は平野部でも雪が降り、山間部では積雪もあった。
例年より一月以上速い降雪であり、ここ数十年の記録には無い異常気象に収穫を終えていない葡萄が沢山凍った。
後に貴腐ワインを凌ぐ高値で取引される事となる「アイスワイン」がこうして生まれたが、それは五年の熟成を経てからの話。
異常気象の前触れとして、異常現象があったと言う者がいた。
「二つの月を見た」
「月の一つは東から西に、レフコン海へと飛んでいった」
多数の目撃証言は噂として広がったが、数日の悪天候の後、夜空を見上げた者達を落胆させた。
根地の森から西南西の方角へ約四百八十キロ。
レフコン海と呼ばれる海に浮かぶ島に、地上の月はあった。
早朝、飛来する銀の月に、帝国首都レオンは騒然となった。
巨大なバリスタが引き絞られた時、白旗が確認される。
亜竜によって運ばれた地上の月と数名のニンゲン。その中に特務遊撃隊隊長プトーコスの姿を確認したときの帝国兵の混乱はより一層大きくなった。
それでもプトーコスは事情を説明し、帝城に使いを出し「攻撃すべからず」の言葉を授かり、一切の検閲や審問を介さず帝城五階の空中庭園に空から亜竜を呼び込んだ。
魔獣が帝城に降り立つ。
帝国が勃興してから初となる異例中の異例の出来事だった。
帝国の重鎮達の中には、如何に皇帝陛下の可が有ろうとも、帝城はおろか帝都に魔獣を入れたことに強く憤慨を現す者も多かった。
それほど迄に帝国において魔獣は、忌避され蔑まれ駆逐されるべき対象だったのである。
空中庭園。
帝城五階にある広大な中庭。
外周には季節の木々や草花が植えられ、一年を通して花が咲き、専任の楽師が楽器を奏で、羽を抜かれた孔雀が放し飼いにされ、噴水では水鳥が羽を休める。
城門の外まで敵が迫っても、空中庭園では楽器の演奏を聴きながら紅茶を嗜む姿が見れるだろう、とまで言われる現実と隔離された世界。
その空中庭園に今、二百を超える完全武装の兵が緊張の面持ちで立っている。彼らが三重の包囲で取り囲んでいるのは二人のニンゲンと一匹の魔獣。
西北西の小国の王クアッダと、智将と噂される盗賊頭ラアサ、そして翼と盾剣を持つ亜竜。亜竜の隣には地上の月があった。
孔雀も水鳥も亜竜の飛来に先立って狂ったように逃げ出し、今はニンゲンと亜竜以外の生き物の陰は無い。
兵の垣根が割れて、プトーコスを従えた老人が空中庭園に姿を現した。
銀糸で編まれ軍服にも似た服を来た老人は、真っ白な髪と髭は共に腰まで伸び、顔には深いしわが幾筋も刻まれていたが、背筋は真っ直ぐに伸び、眼光は猛獣の如く鋭かった。
クアッダ王とラアサが、次いで亜竜が膝を折り頭を垂れた。
亜竜は銀の月の側を離れる事無く、常に右手を添えている。
「ほう、獣の分際で礼儀をわきまえるか。いや仕込んだのだな」
攻撃的な声と口調、そして得も知れぬ威圧感。クアッダは細く息を吐いて心を整えた。
「本日は急にも関わらずお目通り頂きまして、誠に有難う御座います」
「貴様がクアッダか、随分辺境では手を煩わせておるらしいな。今日は良い貢物を持って来たらしいが、珍しいペットを飼っとるじゃないか。ソレも儂によこせ」
「出来ませぬ。この者は我が恩人にて友でありますれば」
「はっ獣が恩人とはな。不愉快だ、つまみ出せ」
「皇帝陛下、クアッダが持参したオリハルコンは非常に純度が高いそうです。あれだけの量があればアジスタンの国を尽く陛下に跪かせ、遠く東の果てまでも征服する事が叶いましょう」
立ち去ろうとする皇帝をプトーコスが引き止める。
「だがあの中には幼竜が入っているのだろう?実際にはどの程度なのだ」
「直径三メートルの真球であったそうです」
皇帝はさして興味も無さそうにオリハルコンの真球を見、残忍な笑いを口元に浮かべた。
「クアッダよ、貴様希望が叶うなら国民以外何でも差し出すとプトーコスに言ったそうだな」
「間違い御座いません」
「なら国と領土、国庫の全てをよこせ」
「はい」
間髪入れぬクアッダ王の返答に、皇帝はあからさまに不機嫌になった。
狼狽し、許しを請う姿が見たかったのだ。
眉間のしわが更に深さと険しさを増す。
「剣をよこせ」
「皇帝陛下!」
従者から長剣を受け取った皇帝は、プトーコスを無視し、鞘を捨てクアッダ王へとずかずかと歩み寄った。
「ならばその亜竜を儂に殺させろ。幼竜とは言え竜は竜、一度この手で竜を殺してみたかったのだ」
「叶いませぬ」
クアッダ王は顔を上げず、頭を垂れたまま短く答えた。
皇帝は老人とは思えない速さで距離を一気に詰め、頭を垂れたままの亜竜の脳天に長剣を振り下ろす。
「潔い獣だな!」
キィィイン!
亜竜の脳天を叩いた長剣は、中程から音高く砕けた。
飛び散った剣の破片の一つが、頭を垂れたままのラアサの頬をかすめ、一筋の血を流す。
皇帝は折れた長剣を捨て、三歩下がると、両手を胸の前にかざし唇を微かに動かす。
両の手の間に記号の様な文字の様な、淡い光りが次々と生まれ皇帝の周囲を回り始める。紡ぎだされた光の文字列は、徐々に速度を上げて光の帯となって皇帝を囲む光の輪と化す。
光の文字列は次々と生み出され、光の輪は数を増し、ジャイロスコープの様に軸を変えながら皇帝の周りを巡る。
「防御せよ!」
号令一声、周囲を包囲してる兵士達が両手を合わせ、何かを唱え始める。
「これが、本物のオノマなのか……」
目の前の幻想的な光景に見入るクアッダ王とラアサは、衝撃と共に帝国兵の列に弾き飛ばされる。
プトーコスに支えられ、立ち上がったクアッダ王は、亜竜が自分達を危険地帯から突き飛ばした事を知る。
「自分は受けるつもりなのか」
クアッダ王とラアサを尾を使って弾き飛ばした亜竜は、膝を付いた姿勢のままで、光の輪を纏う皇帝を真っ直ぐに見ている。
その金の瞳には一切の感情は見えず、全てを受け入れるかの様な「無」があった。
直後、包囲する兵士の前に空気の断層が生まれた。二重、三重と断層は重ねられ、ドーム状に結界が形成される。
皇帝の背後からだけ、風が吹き荒れる音と共に強風が噴き出している。
流れを塞き止める様に光の輪に手を出す皇帝。
一本、また一本と光の輪は皇帝の両手に収まり、大きな光の塊となった。
皇帝が後方に飛び去りながら放った光の塊は、紫色の光を発しながら亜竜を囲む四角錐の頂点へと収まった。
皇帝が下がった直後、扉を閉じるように空気の断層が張られ、亜竜と紫の光球と銀の真球をドーム型の結界に閉じ込めた。
「何て事を……」
プトーコスの傍らでクアッダは喘いだ。
ほんの五メートル先、芝が飛び、暴風が吹き荒れる結界の中が、まるで作り物の様に静かな世界。激しい音も振動も無く、視覚だけが凄惨さを伝えてくる不可思議な感覚。
紫の光球は眩い光を放つと共に放電を始め、四角錐の空間の内側を、のたうつ光の触手で撫で回した。
光の触手は中心の亜竜に吸い寄せられる様に集まり、角や鱗の表面を紫色の雷が走る。
それでも亜竜は動かない、雷が光った瞬間に銀の真球から手を離し自らの膝を固く握り、全身の痙攣に耐えていた。
足元の芝は燃え上がり、大理石の敷石はひび割れ、亜竜のたてがみは逆立つ。遂に亜竜は左の盾剣を地に付き、突っ伏して苦しげに口を開く。開かれた口から雷がほとばしり、白い煙が吐出される。
「ア、ア……」
声を漏らすクアッダ王の耳にラアサが小声で囁く。
「陛下、気丈に振る舞って下さい。弱みと見られては皇帝の残虐性を刺激し、より凄惨な事態を招くやも知れませぬ。気を確かに」
ラアサの言葉に口を閉じ、目玉だけを動かして皇帝をみやるクアッダ王。
髪を掻き揚げ、目を見開き、歯茎をむき出しにして、歓喜の表情を浮かべる皇帝。亜竜がもがき苦しみながら息絶える様を期待する狂人の目。
ラアサは、雷撃に耐える亜竜を見ていなかった。
忙しく視線を動かし、帝国兵の数、装備、動き、部隊編成など、目の前の情報全てを手にしようとしていた。
プトーコスが固く拳を握りしめ、見かねて顔を逸らしたその時。
紫の雷撃は一際激しく光り、ドーム状の結界は白く霞んだ。
結界が破れなかった事への安堵だろうか、帝国兵からため息が漏れる。
「見せろ」
皇帝の命令で、結界が解除される。
二つ目の結界が解除された時、白い煙が渦巻き、鼻を刺す強烈な臭がした。
「さすが皇帝陛下、聖なる断絶の一層目が完全に破壊されておりますぞ」
「ふん、本気で放ったら帝都が無くなっておるわ」
一陣の風が吹き、白い靄が吹き払われた。
そこには……。
たてがみが燃え落ちた亜竜が、片膝を付いた姿勢で鎮座していた。
「い……生きてるだと!?」
「バカな……紫電牢だぞ……」
狼狽の声を漏らす帝国兵達。
ガックリと首が落ち、弱々しく肩で息をしているが、確かに生きている。
一斉に剣を抜き、警戒する帝国兵。
「ほう、生きておるか。面白い、面白いぞ!ならば次は……」
「皇帝陛下、一つ余興に興じてみては如何でしょうか」
残忍な笑いを亜竜に向ける皇帝に、兵士の間で跪く男から声が掛けられた。
「貴様は誰だ」
「ラアサと申します」
皇帝の顔から、すうっと狂気が引き、冷厳な統治者の顔に戻る。
「共和領きっての食わせ者か、貴様が儂に仕えるなら、願いを叶えてやっても良いぞ。中の幼竜も開放しよう」
「それでは、皇帝陛下は私を殺す事になります」
ラアサはようやく顔を上げて、皇帝の顔を見据える。
「それは儂に、主君としての器が足らんと言っておるのか」
「いえ、私はクアッダ王に三年間の忠誠を誓いました。ひとたび誓いを破り主を変えた男を、皇帝陛下は心から信じられますまい。機密から遠ざければ飼い殺す事となり、反意を疑えばやはり私を殺すしかない」
皇帝は面白くなさそうな顔で「確かにな」と短く呟いた。
ラアサは続ける。
「そこの亜竜は、オリハルコンに囚われし幼竜を救い出してくれるなら、如何なる攻撃をも受けるつもりの様子。現に皇帝陛下の攻撃を避けもせず耐えて見せました」
皇帝は片膝を付いたままの亜竜を見る。
視線を感じたかの様に、顔を上げる亜竜。
「幼竜を救い出すまでの時間で亜竜を殺せれば、皇帝陛下は【オリハルコン】と【竜殺し】の名を手に入れます。仮に万が一亜竜が耐え切れば、【オリハルコン】と【竜を相手に余興すら楽しめる豪胆な王】の名を手に入れます」
皇帝の顔に残忍な笑いが浮かぶ。
「そんな事などせずとも儂は全てを手に入れられる。貴様らの命すらな」
ラアサは怯まない。
「そして皇帝陛下は、正式に謁見した者すら虐殺すると言う不名誉を、共に手に入れる事となります」
「ベラベラと良く回る舌だ」
「お褒め頂き恐縮です」
そこでプトーコスが助け舟を出した。
「皇帝陛下、私からもお願い致します。この亜竜には我が帝国兵五千が命を救われております。どうぞ提案にお乗りになって、亜竜に機会を与えて下さいませんでしょうか」
皇帝は眉間のしわを深くし、目を細めた。
「帝国兵が救われた?何の話だ」
プトーコスは失念していた。エラポス国境の戦の報告が未だ届いて居ない事を。
根地の森から空を飛び、真っ直ぐに帝都レオンまで来たプトーコス等は、報告を携えた伝令を、追い越してしまっていたのだ。
急ぎ戦の報告がなされた。
布陣、停戦、成竜の乱入、魔獣による救命、そして成竜を退けた根地の森の魔獣を束ねる魔王。
皇帝は成竜の乱入と、帝国兵の損害に眉を吊り上げたが、最後まで報告を聞いた。
「クアッダ、非戦連合とは舐めた真似を。……にしても亜竜とは言え幼竜でありながら魔王とはな」
プトーコスは皇帝の心を逆撫でしない様に、声色に注意しながら続けた。
「客人との余興であれば、戦での恩もまた別の話、皇帝陛下の御威光が陰る事も御座いませぬ」
プトーコスは暗にこう告げたのだ。
余興に依らず全てを奪えば、多くの帝国兵を救った功労者をぞんざいに扱った事になる……と。
皇帝はギロリとプトーコスを睨んだ。
思考を誘導するつもりか、と。
「亜竜を殺す案を出せ!良い案には褒美をやるぞ」
「こ、皇帝陛下!」
慌てるプトーコスと、密かに指でサインを交換するクアッダ王とラアサ。
「オリハルコンの精製は、慎重にやっても三日程だろう。明日の日の出から三日の内に儂は竜殺しの名を手に入れてやる」
プトーコスは安堵と共に、もう一歩だけ踏み込んだ。
「余興と言うからには、褒美が必要かと……。万が一にも亜竜が生き残った場合は、命と自由を与えては如何かと……」
目を細めてプトーコスを睨む皇帝。
「プトーコス、貴様……何があった」
「いえ、一時の事で良いのです。褒美として与えた命を戦場にて堂々と奪う、皇帝陛下の御名もいやがおうにも高まりましょう」
皇帝とプトーコスは、暫く無言で見合っていた。
その様子を祈る気持ちで見つめるクアッダ王とラアサ。
プトーコスの頬を冷たい汗が伝い、顎から落ちる。
失敗か……そう思った矢先。
「ふん、希望があれば亜竜のもがきも一層楽しめるか」
皇帝は踵を返して、城内に姿を消した。
亜竜を殺す案を呼びかけながら。
皇帝の姿が視界から消えた直後、プトーコスは細かい指示を飛ばす。
亜竜を地下の施設に連れて行くこと。
クアッダ王とラアサを客人としてもてなすこと。
今すぐオリハルコンの精製に掛かり、中の幼竜を保護する事。
「精製作業は慎重かつ迅速に行え、帝国の名誉に掛けて遅延は許さんぞ!」
戸惑いながらも、帝国兵は命令を実行する為に動きだした。
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