EL DIABLO・9
その一室を見れば誰もが裕福な暮らしをしている人間のものだというのが分かる。一人用のソファは高価な材質の木材で作られ、座ると体が吸い込まれるような感覚を覚える。一つ一つの棚でさえ光を滲ませる深い色の木材でできた高級仕様だ。転がったピースメーカーのグリップは象牙で作られ、花の彫り込みが施されている。
壁に飾られた賞状の数々。その功績を称える文字の羅列。すべて立派な額縁に収められ座ったソファから見えるように掛けられている。
人々から尊敬され、地位と名誉と金を手に入れた男。誰もが親しみを覚えるはずが彼は半数以上の人間から町の恨みを買っていた。
この部屋の持ち主の名はアーネスト・マックグロウ。グレイフォードで判事を務めていた男だ。
彼は判事でありながらも公平という言葉に目を背け、裁判にかけられる人間が社会的に弱ければ有罪とし、強ければすぐに無罪になった。誰もがそれに首を傾げたが、地位の強い人間に何を言えることも無く、襲撃を企てればすぐに彼の味方でもある高所得者の町民や、彼に金を握らされた用心棒に始末された。
アーネスト・マックグロウ。その男は今、絨毯の上で目を剥きながらうつぶせの状態で倒れている。背中には幾本ものナイフが突き刺さったままだ。彼を護るはずの用心棒は偶然廊下にぶら下がっていたロープで理由もなく自殺を図り、宙に浮いた足をぶらぶらと揺らしている。ホルスターにいつも納められていた銃は銃弾を抜かれて便所の中へと投げ入れられた。
持ち主のいなくなった家で女が二人、正確には男女が二人柔らかなソファの上に座っている。中央のテーブルでは紅茶が湯気を立てていた。
「・・で、こいつは誰よ」
「俺に聞くな。適当にぶっ殺しただけだ。どうせここの判事だ。ロクな人間じゃなかっただろうよ」
「かもねぇ」
グレイフォードにやって来た二人はレイモンドの言う通りに餌を撒くことにした。自分が暗殺者であることがバレているのなら、それなりに地位の高そうな人間を殺すべきだ。それも、プロの手口で。レイモンドはどうだか知らないが、アーニャにとってはいつも通りの事。銃声も何も響かせずに、何事もなかったようにすべての過程を行うだけだ。
アーネストの遺体は翌日、すぐにでも見つかるだろう。これがただの町民ならばいつまで経っても見つからずに終わる。
「これだけで私がやったって分かってくれるかなぁ。ミス・ノーバディ参上!とか書置き残しといた方が良いかしら」
「んなことせんでも奴は分かるだろ。全く予測のつかない殺しが起きたんだ。完璧な手口でな。殺し屋同士は惹かれあうもんだ」
「私は殺し屋じゃないんですけどー。ただ殺すだけですー。一緒にしないでくださいー」
「・・イカれてやがるぜ」
レイモンドは額を抑えながら呆れていた。
「それにしても随分と変な殺し方するのね。今どき投げナイフなんて」
絨毯の上に転がるアーネストに刺さったナイフはレイモンドが投げたものだ。数は全部で八本。手を振ること二回ですべてがアーネストに突き刺さり一瞬で彼の息の根を止めた。
「銃を撃つよか暗殺にはよっぽど捗ると思うけどな。銃弾買うよりも安いうえに再利用ができる。練習だってし放題だ」
「私は練習なんてしたことないもの」
「馬鹿言え」
「ほんとよ?銃の撃ち方もナイフの扱いも、何一つあいつには教わらなかった。全部独学で学んだ事よ。練習は全部実践だったもの」
レイモンドはその冷たい目でアーニャを睨んだ。
「信じられない?でも本当よ。私はね、生きたかったの。それ以上に殺したかったの。あなたが思っているよりもずっと殺意の芽生えは早くて、その成長もずっと早かった」
「そして・・アナスタシアに生まれ変わったわけか」
「決めつけられたくはないけどだいたい合ってるわ」
アーニャはいくつもの角砂糖をカップに入れていく。純白の角砂糖は紅茶の中に入った瞬間に崩れては溶け、スプーンでかき混ぜると完全に融和してしまう。
「紅茶に溶けた角砂糖は自分の事を角砂糖だって認識できるのかしら」
「何を言い出すかと思えば・・くだらん。角砂糖に意思はねぇ」
「例えばの話すらできないの?つまんない男ね」
子供なら好んで飲みそうなほど砂糖を入れた紅茶をアーニャが啜る。
「私の望みはね、誰でもなくなること。姿もない、形もない、影もない。でもみんなが畏怖するの。そこにあってそこにない。だから私はアナスタシアであることもミス・ノーバディであることすら気にかけない。このカップに溶けた角砂糖みたいにね。姿形はなくても紅茶そのものを変えてしまう。溶けた角砂糖は掴めないけれど、紅茶が甘くなったことは誰もが角砂糖を入れたからだと知っている」
「それで何になるんだ」
「分からない?」アーニャはレイモンドを嘲笑するように口角を上げる「その存在こそ世界で最も恐れられる者。誰よりも世界を手の内に収める者だからよ」
「世界が憎いか?」
「いいえ。でも人生の無意味さをみんなに説きたいの。何を成しても結局何にもならないってことを」
レイモンドは先ほど彼女を「ナターリアの傍が誰よりもふさわしい女だ」と言った。それは間違いだ。彼女はナターリアと同じ人間になる気なのだ。ナターリアよりもずっと強い影響力を持った人間に。
レイモンドはその旨を伝えはしなかった。今でこそ味方だがいずれは敵になる。そんな女だ。
「さぁてと、とりあえずは疲れちゃったし休みましょっかねぇ。ここから先は別行動よ。貴方も適当に宿取りなさい」
ソファから立ち上がり部屋を後にしようとするアーニャにレイモンドは仕掛けようとした。もちろんこの場で殺す気はない。だが先ほどから隙だらけの彼女の実力がどれほどのものなのか、レイモンドは知りたかった。がら空きの背中にナイフを投げて殺すことなどレイモンドには容易い。アーニャの僅かな息遣い、歩くたびに動く重心。すべてのタイミングを見計らい、あくまでレイモンドはドレスを揺らしながら静かに歩き出す。
「何?まさか一緒の部屋取る気じゃないでしょ?あなたがもう少し幼かったら一緒に寝てあげても良かったけどね、坊や」
偶然なのだろうか。帰ってきた言葉が予想の範囲内の返答とはいえ、自分がまさに殺すと決めたその瞬間、彼女は振り向いた。瞬間ではないのかもしれない。コンマ数秒、自分の方が遅かった。何事もなく「ふざけんじゃねぇ」と返す自分にアーニャが自分の心臓にナイフを突き立てているのがレイモンドの目にだけ映っている。
もし彼女に刃を向けようものならこの場で殺されていた。
レイモンドは相手に対する態度とは裏腹に、自分を過大評価もしなければ過小評価もしない。実力は素直に受け止める。アーニャに嘲笑されようと罵られようと、自分はこの女に劣っていて勝負をすれば負けるのだ。認めざるを得ない事実にレイモンドは奥歯を噛んだ。
アーニャはそれを知ってか知らずか、廊下に吊るされた用心棒の体を掴むとそれをいたずらに揺らしながら堂々と正面から外へと出て行く。まるで自分が透明人間なのだと思い込むかのように人目すら気にせずに町へと繰り出した。
メイスンヴィレッジの保安官は宿屋の一室のドアを静かにノックした。宿屋の主人から「不審な人物がいる」との通報があり、その一件を最後に今日の業務を終え、事務所で酒を煽ってから帰宅する予定だった。
ノックの後も返事はなかった。店主は言う「まだ部屋の中にいるはずだ」部屋から出てくるのを自分は見ていない。
「ところで、不審な人物とはどんな人物の事だったんです?」
「姿が見えないくらいローブを着込んだ人間ですよ。あれは間違いない。先住民だ。人に姿を見られたくないからあんなにローブを着込んでるんですよ!」
なら、何かあったあとでこちらに言えばいい。そうは思ったがここはフローディアだ。アメリカとは先住民の意味すら違ってくる。
「うちの宿に人間以外が泊まってもらっちゃ困る。犬も猫も禁止だ。もちろん先住民もです」
「なら、最初にそう言えば良かったんじゃ・・」
「とにかく、奴はこの中にいるんです。早く追い出してやってください」
保安官の言葉を無視して店主は虚勢を張っていた。あの時、隣にいた男の形相は生半可な男では立ち向かうことすら困難に思えたのだ。
「申し訳ないんですが・・なにやらここの店主が話を伺いたいそうで・・早くここを開けてくれませんかね。すぐに済むと思いますから」
中からコツコツと音が聞こえたと思うとギィと扉が開いて先ほどの男が出てきた。黒いシャツに黒いベスト、ズボンすら黒の男は闇から現れた。とうに陽は沈んだのにもかかわらず灯りは点けなかったようだ。
「遅くなった。長旅で疲れて既に眠っていた。手短に済ませてくれ」
男は保安官ではなく店主を見る。店主にとっては視線で射貫かれたも同然だった。
「あ、あんた、一緒に連れていた奴はどうした」
「奥で眠っている。それより、お前には誰も通すなと言ったはずだ。保安官を寄越せと私がいつ言った?」
「つ、連れてきてくれ。眠っていても構わない。連れの顔が見たいんだ。何やら不審そうに見えたから・・」
「断る」
会話を成り立たせようとはしない店主に男は強く言い放った。
「あんたがそう言うと思って保安官に来てもらったんだ。奴を連れてくるんだ」
「それで、どうする気だというんだ」
「先住民ならここからすぐにでも出て行ってもらう」
男は黙って店主の顔を見つめていた。負けじと店主も見返したが男の圧に競り負けて目を伏せた。
「これは警告だが・・今すぐに下へ降りて何も見なかったことにした方が良い」
「警告だと?私には保安官が付いているんだぞ。それにここは私の店だ。私の宿なんだ。この宿の法には従ってもらうぞ」
「・・警告はしたぞ」
殺気を見せる男に保安官の手がホルスターに伸びる。手のひらの汗が滲み、銃を抜く瞬間に闇の向こうから声がした。
「マスター!」
店主は振り返る男のその向こうにいる先住民を見ようと目を見張らせた。保安官の手は未だにホルスターの上に置かれている。
「・・何か問題ですか?」
再び深く着込んだローブの中からローザがドアの前に立つ保安官を見ながら言った。
「どうやらこの店主が私たちを気に入らないらしい」
「私たちではなく、私だけのことでは?」
もとより勘が良いローザだったがこの手のやり取りは飽きるほどに遭遇している。
「私たちのことだ。それは間違いない」
そんなことを知りつつもあくまで大佐はそれを否定した。
「マスター。ここはおとなしく引き下がるべきだと思います。受け入れてくれる所を探しましょう。野宿になったって私はそれで構いませんから」
大佐はドアの向こうの闇を見つめながら数秒考えこんだ後「迷惑をかけた」とすぐに手荷物を持ってローザとともに出てきた。その姿を保安官は神妙に、店主は不機嫌そうに見ていた。
階段を降りる二人の背後からは店主の愚痴が聞こえている。まだ一時間も使用していない部屋を先住民が踏み込んだから念入りに掃除しなければならないだの、先住民と同行するなんて気が触れているだの、大佐が視界から消えたことを良いことに罵詈雑言を吐いている。
「この国のフロンティア終結宣言がいつになるか見ものだな」
大佐は憤りを抑えながら皮肉を語った。罵詈雑言の対象でもあるローザはローブの中で静かに笑った。
宿の前で繋いだ馬に乗ると二人はメイスンヴィレッジを後にする。暗がりの中歩く二人は闇に溶けていくようだ。
「表情一つ作るのさえ苦手なのにマスターは短気すぎるんですよ」
馬身を一つ空けて後ろを歩くローザが言う。
「お前はもう少し自尊心を持った方が良い。あそこまで言われて何とも思わないのか?」
「所詮狭い世界で生きてる人間の言うことですから」
だから気にも留めないというのか。大した自尊心だ。大佐は相も変わらず表情を崩さぬまま笑った。
「どのみち、今は立ち止まっている場合じゃありません。私たちはミス・ノーバディの後を追わねばなりません」
「追う・・か」大佐は無数の星が輝く夜空を見上げて言った「追われているのは我々の方なのかもしれないがな」
一人思いつめた様子の大佐にローザは首を傾げていた。
「私たちが追われているって・・どういうことですか?五十万ドルの賞金首が自らやってくるとは思えないのですが・・」
「厄介なことに首を突っ込んだということだよローザ。今晩はあの崖を背にして寝ることにしよう」
闇夜の中そびえ立つ岩山を視線で指して大佐は言った。後ろにいるローザにはおおよその範囲でしか分からないが前方にある岩山を指しているのは明らかだ。馬に拍車をかけて二人は駆けだした。




