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ピラーキャンドルの灯りで彩られたシックな雰囲気の店内。
客層は若いカップルが中心で、あちこちのテープルでラブラブオーラを発していた。
こういう雰囲気の店はだいたいこんな感じなので、莉子は結構苦手だ。
しかし、雪はそんなことは微塵も気にしていない。
「ブラジル・ウド・デミナス・セルトン……? なにこれ? 750円もするけど、なんて食べ物……?」
「莉子……? それ……コーヒーだよ……?」
「こ、コーヒー!? コーヒー一杯ななひゃくごじゅうえん!? なにそれ!? たっか!」
「莉子っ、しーっ!」
「あっ……ご、ごめんっ……」
静かな店に不釣合いな莉子の素っ頓狂な声。
それに気付き、莉子は慌てて口を噤んだ。
「もうっ……。ここはちゃんとした喫茶店なんだからコーヒーも本格的なの……。いいコーヒーはそれくらいして当然なんだよ……?」
「そ、そうなんだ……知らなかった……」
「莉子も女の子なんだから……たまにはこういう素敵なお店も経験しなきゃダメだよ……?」
「うぅ……」
まるで出来の悪い妹を叱る姉のような口調で、雪は囁く。
そんな雪の表情はどこか落ち着いており、楽しそうですらある。
「ねぇ……? せっかくだからそれ……頼んでみよっか?」
「え?」
「……わたしが持つから」
「そんなっ! わ、悪いよっ……!」
「ううん。そんなことない。……莉子がこういうお店が苦手だって、知ってて付き合わせてるんだし」
「っ……!」
「……ね?」
「う、うん……」
首を傾げて莉子の同意を得ると、雪は近くにいた店員に小さく掌を見せて呼び止める。
「すいません……注文、いいですか……? ブラジル・ウド・デミナス・セルトンふたつ……。ケーキはチーズケーキとショコラで……いいよね?」
「えっ? あ……う、うんっ……」
慣れない店でドギマギする莉子と相対するように、雪は物怖じひとつせず流れるようにオーダーを決めてしまった。
そんな雪を見て、莉子は自分の不甲斐なさを痛感していた。
雪を傷つけたお詫びのはずだったのに、気を遣ってもらったうえに奢って貰うなんて……
コーヒーだけで750円もするお店なのに……
そんな申し訳なさに苛まれてしゅんとする莉子を、雪は微笑ましく眺めていた。
「もう莉子ったら……。そのくらいで落ち込まないでよ……」
「えっ? 雪……どうして―――」
『どうしてあたしが落ち込んでるって、分かったの?』
顔をあげてそう訊こうとした莉子が、言葉に詰まる。
気が付くと対面に座っていたはずの雪が自分の隣に移動していたからだ。
キャンドルの炎に照らされて輝く彼女の瞳が、すぐ近くにあった。
「どうして分かるかって、言いたいの……?」
「う、うん……」
「そんなの、莉子を見てれば分かって当然だよ……」
「あははっ……あたしってそんなに単純かなぁ」
「それもあるけど……。そのくらいの気持ちの変化なら、分かるんだよ……? わたし……莉子のこと、ずっと見てるんだもの……。ずっと……」
なにか、含みを持たせた口調で……雪はそう呟き、潤んだ瞳で莉子をジッと見つめる。
ほんのりと頬を染めながら……
……暫しの間。
微かに聞こえる上品な店内BGM。
それはまるで、莉子の言葉を……待っているかのように。
「まぁ、なんだかんだで付き合い長いもんね。あたしら」
「…………」
「…………」
「……え? そ、それだけ……?」
「ん? なにが?」
雪は唖然としてしまった。
なぜなら先ほどの台詞は結構本気で言ったつもりだったのに、当の莉子に軽く流されてしまったのだから。
「うー……鈍いのは分かってたけど、鈍感過ぎるよ……」
「へ? なんか言った?」
「なんでもないよっ……」
「???」
か細い声で口惜しそうに、雪は小さく呟く。
しかし雪はめげずに攻め口を変えて莉子にアプローチをかける。
こんなことでめげる雪ではないのだ。
それに、今日の雪には“奥の手”がある。
ポーチに忍ばせてある“それ”が、雪に勇気を与えてくれていた。
「ね、ねぇ莉子……? 今日観た映画だけど……どうだった?」
「うーん……圧制を強いて民衆を苦しめる悪の帝国と、それに立ち向かうレジスタンス組織のバトルサーガだと思ってたから出鼻を挫かれたけど、タレント事務所との露骨なタイアップとかも無かったおかげで演技力のないアイドルやら芸人やらも出てこなかったし……その辺は好印象だったかな? 低予算ならではのショボさは拭えなかったけど、登場人物の迫真の演技は圧巻だったね。テーマが同性愛なのと、それに伴うシナリオのご都合主義っぷりが酷いなーって思ったけど、まぁ意外と楽しかったよ?」
「いや……そ、そういうのじゃなくて……もっと内容の話を……ほ、ほらっ! 主人公とヒロインの恋愛描写とかっ……!」
「え? れ、れんあいびょうしゃ……?」
目が泳ぐ莉子。
あれほど映画について饒舌に語っていた舌の動きが一気に鈍る。
言える訳がない。
主人公とヒロインのキスシーンで、自分と亞璃紗を重ね合わせていたなどとは。
そのせいで客観的に見るどころか本気で感情移入してしまい、終始ドキドキしっぱなしだったなどとは。
口が裂けても、言えない。
「あー……主人公とヒロインの子って、どっちも女の子だったよね? ま、まぁ、あたしは色んな愛の形があっても、い、いいと思うけど……」
「そうなの……? 莉子って、女の子もイケちゃうの?」
「えっ!? ななな、なんであたし!? 映画の話だよっ! 映画のっ!」
「だって……同性愛を容認するってことは……もし自分がそういう境遇になっても、受け入れられるってことじゃないの……?」
「う、ううう、うけいれるって……」
その言葉を聞いて、莉子の脳裏に“あの”経験がフラッシュバックする。
“あれ”を受け入れたと言っていいものか。
いや、しかし……広義ではああいうのを受け入れたと言うのかもしれないが……
「でも良かったぁ……莉子が理解のある子で……」
「……ん? よ、良かった? それってどういう―――」
「お待たせ致しました。こちら、ブラジル・ウド・デミナス・セルトンと、ショコラとチーズケーキになります」
「っ……!」
莉子の言葉は、オーダー片手に現れた店員によって遮られた。
コーヒー独特の芳香が、ふたりの鼻腔をくすぐる。
「莉子……? ……ほら、来たよ?」
「う、うんっ……」
莉子はもうコーヒーどころではなかった。
彼女の頭の中で、映画のキスシーンと亞璃紗……そして、雪の意味深な言葉がぐるぐると攪拌されていた。
しかし、せっかくのお高級コーヒーである。
口をつけないなんてとんでもない!
と、意気込んで飲んでみる莉子。
莉子が飲むウドのコーヒー……果たしてその味は―――
「……うっ、に、苦いっ……」
◆
◆
◆
同時刻。
「はぁ~~~~……おしまいですわぁ~~~~……」
大好きな莉子を雪に奪われたショックに打ちひしがれる亞璃紗は、夜の街を浮浪する。
彼女は見てしまった。
放課後、雪に手を引かれながら下校する莉子の姿を。
そして……知ってしまった。
花の金曜日……莉子と雪は決まってふたりで街へ繰り出し、食べ歩きーの遊びーのしている事実を。
故に飲まずにはいられない。
これで片手に持っているのが酒瓶だったりすれば、まさに彼女はスラム街にはびこる人生終了者そのものだったであろう。
しかし、残念ながら彼女は未成年のため、仕方なく瓶入りコーラをあおっていた。
それでも、据わった眼で瓶コーラをラッパ飲みする女の子は悪目立ちするようで、軟派な男性諸君にこぞって声をかけられる。
「ねぇ君ぃ~、かぅわうぃ~ね~!」
「つーかぁー? ぶっちゃけー、おまえ激マブじゃね?」
「俺たちとぉカラオケぇ? とか? いかね? ど? おっけ? おっけ?」
「……点火」
亞璃紗は相手の顔もろくに見ようともせず、面倒くさそうに精神武装・ブレイドを展開。
群がってきた男共を、ぞんざいに薙ぎ払った。
「ぐあっ!?」
「ちょ! 痛って!」
「うげっ!?」
「貴方たち、鬱陶しいです……。黙っておうちに帰って、ドラえもんでも観てなさい」
冷たくそう言い放った亞璃紗のその言葉には、精神異能者の力が僅かに込められていた。
簡易洗脳……
一般人相手ならば数時間ほどで解けてしまうライトな洗脳攻撃であるが、人払いや目撃者の記憶改ざんなどには有効である。
損傷した男たちの薄っぺらな意思に、亞璃紗の言葉が浸透していく。
「ハ、ハイ……」
「おれたち……」
「黙っておうちに帰って、ドラえもん観ます……」
踵を返し、まるでゾンビのようなおぼつかない足取りで去っていく男たち。
これで何人目だろうか。
今日だけでドラえもんの視聴率アップにかなり貢献してしまった亞璃紗は、憂鬱そうなため息をついて頭を抱えた。
「はぁ……わたくしったら、なにをしているのでしょうか……。こんなことをしている間にも、あの霧島 雪に……わたくしの莉子が、莉子がっ……!」
この前とは打って変わって、バッドな妄想が亞璃紗の脳内で炸裂する。
大好きな莉子が、こともあろうに雪に篭絡されて以下表現不能……
そんな不健全な妄想をして身悶えする亞璃紗を、気味悪げに眺めている少年がいた。
「よおブレイド」
「あぁ……莉子っ、貴方は今どこでなにをしてますの……?」
「こんなところで会うなんて奇遇だな」
「確かにわたくしが悪ぅございましたけど、だからといってあんな女についていくなんて……」
「おい! 聞いてんのか!」
「あてつけとはいえ酷過ぎますわっ!!」
「無視すんなっつーの!!」
しびれを切らした少年は、無防備に靡いていた亞璃紗の髪をすれ違いざまにむんずと摘み、軽く引っ張った。
「きゃっ!? ちょ、い、痛いっ! 痛いですわっ!! おやめなさいこの無礼者っ!!」
「無礼はどっちだよこの糞セレブが!! ひとが声かけてんのにシカトして通り過ぎようとしやがって!!」
「はぁ? というより貴方……どちら様ですの?」
「テんメぇ~~~~……本気で俺のこと覚えてねーのか!? 西山だよ! ニ・シ・ヤ・マ! 西山 拓也っ!! シザー・ハンズの!!」
「ん? んー……ああ、莉子に母親の面影を重ねて付け回してた、迷惑甚だしい変態マザコン男の西山君でしたわね」
「うおお……ッ! 完璧に合ってるけどなんかムカつく……ッ! 殴りてぇ……ッ!」
「別に殴りかかってきてもいいですけど……わたくし、反撃しますわよ? 全力で。貴方、わたくしに勝てますの?」
「うっ……あ、相変わらずムカつく女だぜ、テメェはよぉ……」
亞璃紗が振り返ったその先に立っていたのは、精神異能者・西山 拓也であった。
彼は三白眼をチラチラと動かしながら、そこにいるはずのない少女の姿を探している。
「……莉子なら今日はいませんわよ?」
「えっ!? いや、な、そんな、べ、別に俺、一之瀬がいるかもとか、あわ、淡い期待を抱いてキョロキョロしてたわけじゃねーし!!」
「わ、分かり易いですわねー……」
図星を指摘されてあからさまにキョドる拓也。
そんな拓也を見て、亞璃紗は改めて思った。
やはり莉子は、精神異能者だけを誘引する特異体質ではないのかと。
「んなことより、一之瀬は今どうしてるんだ? おまえと一緒なら大丈夫だと思ってたけど、あいつ一人となると心配だな……」
「なにが心配なものですか。莉子だって新参者とはいえ立派な精神異能者ですのよ? 別にわたくしがついてなくても……」
「……おまえ、なに言ってるんだ? 今日は金曜だぞ?」
「? ……貴方こそ、なにを言ってますの?」
ふたりは、お互いの見解の食い違いに首を傾げる。
確かに金曜日の夜は、浮かれた学生精神異能者がハメを外して暴れることが多い曜日である。
しかし、拓也の口ぶりはそういうニュアンスではない。
なにか別の……もっと危険なファクターが絡んでいるとでも言うだろうか。
「マジで知らねーのか? 白川界隈の精神異能者の間じゃ有名な話だぞ? 蜘蛛の噂は」
「ちょっとお待ちになって……? それ、どこかで聞いたことが―――」
亞璃紗はこめかみに手を当て、記憶の引き出しを漁り始める。
『白川』『金曜』『蜘蛛』……
この3つのキーワードを、亞璃紗はどこかで一度耳にしたことがあった。
それは一体いつ、どこで、誰から聞いたのか。
考える。
更に考える。
そして、思い出す。
数日前出会った精神異能者……ブロークン・アロー、更科 辰子の言葉を。
「金曜の夜にだけ白川町に現れる、蜘蛛のような腕を持った精神異能者。攻撃方法、異常技能は一切不明……通り魔的に精神異能者を襲撃する危険人物……」
「なんだよ、知ってるじゃねーか。知ってるくせに一之瀬をほっぽり出してたのか?」
「…………」
「だんまりかよ。テメェ……さも当然のように俺から一之瀬をかっ浚ったくせに、無責任が過ぎるんじゃねーのか? あ?」
「ごめんなさい……。色々ありまして、今の今まで忘れてましたの……」
「はぁ……そうか」
思い詰めた表情で呟く亞璃紗に対して、拓也はそれ以上何も言わなかった。
人間誰しもひとつのことに夢中になっている間は、小脇にある雑多なことが疎かになりがちである。
いくら亞璃紗が再三自分と莉子の間を邪魔したいけ好かない女であるとはいえ、些細なミスをつつき回すなんてカッコ良くない。
なにしろ、本人の顔を見れば反省していることなど明白なのに、そんな女の子を咎めたとあっては莉子にも天国にいるママにも顔向けが出来ない。
拓也はそう考え、亞璃紗に対してそれ以上の追及はしなかった。
「で? これからどうするつもりだ?」
「…………」
どうする?
そんなことは決まっている。
速やかに莉子と連絡をとり、無事を確認すること以外になにがあろうか。
しかし、亞璃紗は逡巡する。
携帯端末を手にしたまま、固まる。
「……じ、実はわたくし……」
「あ? なんだよ」
「莉子と喧嘩……してますの。しかも、わたくしが一方的に悪くて……そんなわたくしが電話しても、出てくれますでしょうか……?」
「あん? うーん……。そりゃあ、喧嘩の程度にもよるんじゃねーのか? 原因はなんだよ」
「口では言えないような酷いことです」
「ちょ! おまっ……おまえっ、一体一之瀬になにしやがったんだよ!?」
「だから、口では言えないことを……」
「待て待て! まずその言い方をやめろ! 俺の心と身体に良くない! 色々想像しちまう! やばい! やばいから!!」
「では言い方を変えますね」
「ちょっと待て! しばし待て! ていうかいい! やっぱいい! 言うなッ!! なんかもうそれ以上聞きたくない!!」
「わたくしは莉子に対して、筆舌に尽くし難い淫猥で下劣な行為を……」
「ホントふざけんなよテメー!! やめろって言っただろこのバカッッッ!! なんなんだよテメェは!! 淫猥で下劣って……ちょっ、ふざけんなよ!! 一之瀬は俺の聖母なんだぞ!? 他人の聖母穢すんじゃねーよ!!!」
「俺の聖母って……貴方って本当に気持ち悪いですわね」
「おまえが言うなッッッ!!!」
なにをすべきか……
重要であるはずのその顛末を、平行線の彼方へに置き去りにしたまま……拓也の声だけが虚しく響いた。
◆
◆
◆
「…………?」
「……莉子? どうしたの?」
「いや、なんか外が騒がしいなーって思って」
そう呟いて、店の外を覗こうと身を乗り出す莉子。
しかし、ふたりが座っている席は店の奥、しかも一番隅っこなのでよく見えない。
「……きっと、痴話喧嘩だよ。声も男の人と女の人みたいだし……」
「ふーん、そっか。なんか聞き覚えのある声で呼ばれた気がしたんだけど」
雪の言葉を聞いて、アテが外れたがっかりした子供のような表情で、莉子はぺたんと席に座り直す。
そして、再びコーヒーに口を付ける。
「うえぇ……やっぱ苦いぃ~……」
「ふふっ……♪ 莉子ったら、お子様舌だねっ……」
「だってぇ~……苦いものは苦いんだもん」
「もうっ……しょうがないなぁ。ほら、貸して……? お砂糖とミルク入れてあげるから」
「ホント? やったぁ! それならあたしにも飲めるよっ!」
莉子は大喜びでそう言うと、雪に自分のカップを差し出す。
そんな無邪気な莉子を微笑ましく見つめながら、雪はポーチからさりげなく“ある薬品”をこっそりと取り出す。
「莉子好みの、甘くて美味しいコーヒーにしてあげるからね……?」
ミルクの入った小瓶の影に隠したスポイト。
そこから静かに滴り落ちる、液体。
無色透明なそれは、大量のミルクと一緒に混ざって消えた。
もちろん、莉子がそれに気付くわけもなく、その上から当然のように角砂糖が投下されていく。
その数……2個、いや……3個だ。
そして、銀のスプーンがそれらをくるくると攪拌していく。
「……はい、出来たよっ」
「わーいっ!」
自分好みのテイストになって帰ってきた褐色のコーヒーを、莉子は笑顔で出迎える。
そして、なんの疑いもなく口を付け……飲む。
「……っ! ん~~~~っ! あんま~~~~いっ♪ 雪っ! グッジョーブ!」
「くすっ……。もう、莉子ったら……」
もはやカフェオレと化してしまった高級コーヒー。
それを無垢に微笑みながら美味しそうに飲む莉子を見つめ、雪は静かに微笑んだ。
自らの魅惑的なリップを舌でなぞりながら、妖艶に……




