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一之瀬 莉子は単純な娘だ。
誰かと喧嘩したり、嫌なことがあっても一晩寝ればスッキリ忘れて次の日の朝には笑顔で挨拶してくる。
一言で形容するなら『バカ』である。
……しかし、そんなバカ娘とて女だ。乙女だ。
キスというものに少なからず幻想を抱いて当然である。
彼女自身も、人並みの恋愛をして、人並みのファーストキスをするものだと、漠然とながら想っていたのに。
それなのに年下の、しかも同性に奪われることになるとは。
まさに青天の霹靂。
おまけにディープ。
もうね、なにしてくれちゃってるの?
いくらわがままな亞璃紗でもさ、やっていいことと悪いことがあるじゃん?
まぁ……ちょっと寂しそうな目してたからって気を許しちゃったあたしも悪いけどさ?
でも、だからってアレはないでしょアレはぁ!!
1時間だよ!? 1時間っっっ!!
1時間ぶっ続けで唾液飲まされるとか、ファーストキスにしてどんだけ変態的なキス経験しちゃってんのあたしっ!!
なにより許せないのが、亞璃紗のキスが……結構気持ち良か―――
「って、ちがぁーーーーうっ!! なに考えてんのよあたしっっっ!!!」
莉子は熱暴走しかかった自分の思考をそこで遮断した。
これ以上考えてしまうと、なにかいけない領域に踏み込んでしまいそうだったから。
……あの日以来3日間、莉子と亞璃紗は事務的な言葉以外ほとんど交わしていない。
毎朝亞璃紗の為に作っていた味噌汁や焼き魚、卵焼きといった暖かな朝食は、一本のバナナにマジックで『バカ!』と書いただけの代物に成り代わった。
カラフルなおかずが所狭しと詰まった莉子特製お弁当は、憤怒のメッセージが海苔で綴られた粗末なのり弁へと変貌した。
それは亞璃紗に対する、莉子なりの反抗だった。
「り、莉子っ……。えっと……ご、ごきげんよう……」
そんな怒り心頭の莉子に対して、ぎこちなく微笑みながら会釈する亞璃紗。
その表情には、普段の余裕と気品に満ちた風格などどこにも存在しない。
ただ、なんとかして仲直りのきっかけを作ろうという焦燥感に苛まれる、年相応の悩める女の子が見せる苦笑いが、そこにあった。
「……なに? “剣さん”」
「うっ……」
莉子の冷たい返事に、亞璃紗は一瞬だけたじろぐ。
しかし、ここで退いてはいけない。
それは初日と2日目に通った道だ。
3度目は、ない。
亞璃紗は小さく深呼吸し、意を決したように次の言葉を紡ぐ。
「あ、あのですね……? よかったら、そのっ……えとっ……お、お昼っ! 一緒にっ……」
「…………」
おずおずと手にした巾着袋をちょこんと持ち上げながら……亞璃紗はそう呟いた。
その巾着袋には、莉子謹製怒りの弁当Ver.1.02が封入されている。
今日の弁当に莉子が書いてやった罵り文字は『中2!』である。
ちなみに、初日の弁当で書いたのは『キス魔!』だった。
『魔』の字を海苔で書くのにかなり苦労した。
そして、二日目は『エロ!』。
両日とも、クラスメイトの前で開封した時の亞璃紗の赤面っぷりは思い出しただけで笑いがこみ上げそうになるほど可笑しかった。
うん、そうだね。
この辺で許してあげてもいい、かな……?
亞璃紗も反省してるみたいだし。
目の前には柄にもなく切羽詰った亞璃紗。
そんな彼女を微笑ましく見つめながら、莉子がそう考えを巡らせていた矢先のことだった。
「……莉子? なにしてるの?」
「っ……!?」
「おー、雪ー」
囁くような声で莉子に話しかけてきた少女は、霧島 雪。
彼女は長い黒髪を流れ落ちる滝のように静かに揺らし、ふたりの間に文字通り、割って入ってきた。
「なっ……! ちょっ……!」
「ねぇ莉子……? 今日は……天気、いいから……屋上で食べよ? お弁当……」
「え……?」
そして今、莉子の視界からは死角となっていた位置で、電撃的なポジション争いが勃発。
まさに一瞬の出来事であった。
雪はその長身と肉感的なヒップを駆使して、さりげなく亞璃紗を押し退けたのだ。
「うーん……」
莉子は逡巡しながら、雪の後ろに隠れてしまった亞璃紗をちらりと見やる。
長年莉子と連れ添ってきた雪には、彼女の言いたいことが手にとるように分かった。
おそらくあと5秒ほど待てば、莉子の口から『亞璃紗も一緒にどう?』という言葉が出てくるはずである。
しかし、そんな隙を与えるつもりなど雪にはなかった。
彼女の長い指先はするりと莉子の指を絡め取り、ごく自然な力加減で引き寄せる。
「わわっ! ゆ、雪?」
「ほらっ……早くしないと、いい場所取られちゃうよ……?」
「うー……うん。そうだねっ」
「あ……り、莉子っ……待っ―――」
雪のリードを甘受するかのように、莉子はするすると追従する。
名残惜しそうに亞璃紗のほうにチラチラと視線を移すが、もう遅い。
仕方ない、よね……?
ごめんね亞璃紗。
放課後っ、放課後になったら……お話する時間作るから……
それまで待ってて……ね?
莉子は寂しそうな目で見送る亞璃紗に向かって、心の中でそう呟いた。
普段なら竹を割ったような即断即決っぷりを見せる莉子にしては珍しい失態であるが、それは致し方ないことであろう。
なぜなら莉子は、なんとなく感付いているからだ。
このふたり……雪と亞璃紗が、お互いを敵視しあっていることに。
故に、すぐに言い出すことが出来なかった。
『亞璃紗も一緒にどう?』という一言が。
「ふふん……♪」
「なっ……!?」
刹那、亞璃紗は見てしまった。
まんまと莉子を掻っ攫った雪が、微かに口角を釣り上げて笑うところを。
その表情は、どことなく勝ち誇っているように見えた。
いや、実際……亞璃紗は負けたのだ。
そして、今更になって気付く。
仲直りしようとしていた女の子を目の前で浚われ、なにも出来ずに指をくわえて見ている自分の、情けなさに。
惨めさに。
不甲斐なさに。
心が、打ちのめされる。
「……はぁ」
小さなため息が、昼休みの廊下の喧騒に紛れて消えた。
今日も孤独なお昼ごはんが確定してしまった。
トボトボと、弱々しい足取りで教室に戻る亞璃紗。
憂鬱そうな美少女の姿はどことなく近寄り難く、声をかけようとするクラスメイトは皆無である。
「……いただきます」
『中2!』
人もまばらな昼休みの教室で、ひとり孤独に食べるのは心無い罵倒が海苔で描かれた質素なお弁当。
味付けは海苔に染み込んだわずかなしょうゆのみ。
「ぐすっ、しょっぱいですわっ……」
3日連続で食べる質素な弁当は、ちょっとだけ塩味がきつかった。
◆
◆
◆
屋上。
適度な暖かさが気持ちのいい陽気と時折頬を撫でる優しいそよ風。
お昼休みを満喫するのには打ってつけの天気であった。
莉子と雪は、人気の多い出入り口付近から少し離れたベンチに腰掛ける。
さあ楽しい昼食のはじまりだ。
「さて、いただきますっ!」
「ん……いただきます……」
雪のお弁当箱の中は、俵おにぎり、エビチリ、ほうれん草のゴマ和え、粉吹きいも、大学いも、里いもの煮転がし、デザートにオレンジが一欠片というラインナップ。
一方の莉子は……あろうことか、ミニサイズの日の丸弁当。
「莉子……? 3日連続、だよね……? それ……」
「ん? うん、まぁ……あの子にのり弁渡しておいて、あたしだけいいモノ食べるわけにはいかないでしょ?」
「はぁ……莉子って相変わらず、律儀というかなんというか……」
莉子と亞璃紗が喧嘩中であることは、雪も把握している。
彼女の家でメイドのお仕事をしていることも知っている。
唯一莉子に教えてもらっていないのは、ふたりの喧嘩の理由と……ふたりが出会った過程だけであった。
「ていうか、それを言うなら雪だって相変わらずのいも祭りじゃん」
「だって……好きなんだもん、おいも……」
「こんなに炭水化物食べてもぜーんぶ胸とおしりと身長に行くってんだから、世の中不公平よねー。あたしなんか全然おっきくならないってのにさー」
「……莉子は、それ以上おっきくならなくていいよ。わたし、そのっ……わたしね? そ、そのままの莉子が、す―――」
「わぁ! ねぇ雪見て見てー! 飛行機ー!! すっごい高いとこ飛んでるよー! ほらあれっ!!」
「…………」
「戦闘機かなー? なんて機種だろー……」
「……わかんない」
「うーん……あたしもよく分かんないや!」
「……そう」
雪は一度も空を見ずに、俯きながら答える。
遠いまなざしで空を見上げていた莉子は、飛行機が見えなくなると気を取り直したように日の丸弁当をついばみ始めた。
しかし、やはり梅干しと白飯のみでは食が進まない。
だが……かといって―――
「莉子……わたしのおかず、食べる……?」
「えっ!? いや、えーっと……」
普通なら、これは嬉しい申し出であろう。
おかずの交換ではなく譲渡であるのだから、断る理由など存在しない。
そう……普通なら。
「今日のは……上手に出来たと思うから……はい、あーんして?」
「う゛っ!?」
そう呟いて、不自然に赤黒いエビチリを差し出す雪。
しかし、莉子は痛いほど理解していた。
彼女が今、自分に食べさせようとしている“モノ”の危険性を。
「……あーん」
「うぐぐっ……」
なにかを期待するような輝きを放つその瞳に、莉子の良心が痛む。
親友の好意を、無下にするわけにはいかない。
…
……
………ぱくっ。
意を決して、そのエビチリにかぶりつく。
「むぐっ!?」
その刹那、莉子の口内を襲ったのは激痛。
強烈なカプサイシンが醸し出す刺激的な辛さは、灼熱地獄となって舌を焼く。
しかも、ただ辛いだけではない。
妙な甘ったるさが口の中にへばり付いて最凶の不快感を演出する。
「ゆ、雪? まず、ね……? 豆板醤の入れ過ぎ。あと、砂糖も入れ過ぎ……」
「……ごめん。……美味しく、なかった……?」
……霧島 雪。
彼女は、天災的な料理までに料理が下手っぴであった。
そのくせ、なぜか果敢に料理に挑戦したがる困ったちゃんでもある。
「ううん。確かにすごい味だけど、今回のはギリギリ食べられるレベルだし、中学のときに比べたらすごい進歩だよ」
「え……? そ、そうかな……? わたし、料理、上手になってる……? お嫁さんに……なれる?」
「大丈夫っ! このままいけば、きっと料理上手で素敵なお嫁さんになれるよっ!」
「そっかぁ……えへへっ、およめさん……」
確かに、中学時代と比較すると彼女の料理スキルは格段に進歩している。
なにぜ彼女は中学時代、調理実習の時間に作った料理の“異臭”だけで、学校を3日間も閉鎖に追いやった伝説の持ち主なのだから。
しかも創造主である雪の味覚に至っては、『すごく美味しい』『美味しい』『普通』の三段階しかないので、劇物クラスのものでも『普通』と感じてしまうのだ。
それを加味すれば、彼女の上達っぷりは“進歩”ではなく“進化”なのかもしれない。
だが、その進化の過程で生み出された産廃ともいえる異形の物質を口に入れようとする勇者など、いるはずがなかった。
そう……莉子以外は。
莉子は犠牲になったのだ。
「……莉子? 今度は……こっちの大学いも、食べて……?」
「う……うん。い、いいよっ」
莉子は冷や汗をかきながら、妙に青みがかった大学いもを見やり覚悟を決める。
「はい、あーん……♪」
断頭台へ上がる死刑囚のような面持ちの莉子に対し、雪はまるで天使のような恍惚と微笑を浮かべながら、その混沌なるいもを莉子の口へ放り込む。
傍から見れば微笑ましい光景であろう。
とりわけ、雪の男好きするルックスが目を引くせいか、遠巻きに見てる男子からの『あぁー、霧島さんの手作り弁当……俺も食いてぇーなー』とか『いちのせ! たのむ! ゆずってくれ!』とでも言いたげな熱視線をビシバシ感じる。
あのね、さっきから羨望の眼差しで見てくれちゃってる男子生徒の皆さん。
うらやましいと思う?
美味しそうに見える?
言っとくけどこれ、ぜんっぜん美味しくないから!
さっきのエビチリは言わずもがな、この大学いもに至ってはなぜかナスの漬物の味がするし!
しかもめっちゃ渋いの!
おいもが渋いってどういうこと!?
おかげであたし今すごい笑顔でもぐもぐしてるけど、口の中は妖怪大戦争だからね!?
あんた達さ、バカみたいに口半開きにしてあたし達のこと見てるけど、コレ笑顔で食べられる自信あるわけ!?
ないよね!?
あるわけないよね!?
君達もどーせその辺に転がってる「え? 女の子って普通料理が上手いものじゃないの?」とか思い込んでる一山いくらの平凡な男の子なんでしょ?
あのね、この際だから教えてあげる。
料理が下手な女の子だっているんだよっ!!!
例えばこの雪っ!!
可憐で奥ゆかしい家庭的な女の子に見えるけど、この子の作る料理って全部分け隔てなく―――
「ホント! びっくりするほど不味いんだから!!!」
「えっ……? り、莉子……?」
「はっ! し、しまったっ! つい心の声が出てしまった!」
「心の声……? そう……やっぱり、わたしの料理、不味かったんだ……ぐすっ」
「あ、あわわっ……」
目に大粒の涙を湛えはじめる雪。
ちなみに莉子は、泣いてる子に弱い。
特に自分のせいで泣いてしまった子に対しては強い罪悪感を覚え、なんとか泣き止んでもらおうと必死になってしまう。
「ち、ちがっ……くはないけどっ、ご、ごめん雪っ! 悪気は無かったのっ!」
「くすん……莉子にっ、不味いって言われたっ……」
「うっ……そ、それは本当にごめん。お詫びになんでも言うこと聞くからっ……機嫌、直して? ……ね?」
「……なんでも?」
「あ、あたしに出来る範囲で……だよ?」
「じゃ、じゃあ…………かご」
「えっ……? なに?」
「きょうのほうかごっ……付き合って、欲しいのっ……」
「えっ!? きょ、今日……?」
今日の放課後は不味い。
なぜなら莉子は放課後になったら、亞璃紗とちゃんと仲直りしようと思っていたからだ。
「うーん……今日は、ちょっと……」
「莉子、お願いっ……今日じゃなきゃ、ダメなのっ……だって、明日は土曜だし、その次は日曜……今日を逃したら、2日も莉子に会えなくなっちゃう……」
「え? ゆ……雪、さん……?」
切羽詰った感じでそう囁く雪。
莉子はそんな彼女の心の揺れ動きに、形容し難い不安を覚える。
「……お願いっ」
「け、けどっ……」
「……莉子っ」
「うっ……で、でも……」
「…………」
「…………」
雪は、莉子の袖をちょこんと掴んで、俯いている。
その表情はまるで、雨に濡れた捨て犬のような悲壮感を醸し出している。
放っておけるわけがなかった。
捨てられた子犬を無視することなど、莉子に出来るわけがなかった。
「もう、そんな顔しないでよ雪っ。いいよ? 今日の放課後ね?」
「っ……! うんっ!」
ごめん亞璃紗っ!
今日中には絶対仲直りしに行くからっ!
莉子はそう心の中で叫んだ。
「それで? 今日はどっか行きたいところとかあるの?」
「うんっ……あのね、観たい映画があるの。その後、アントワネットでお茶したいな……」
「え゛っ!?」
単に映画鑑賞のみであったなら、莉子は快諾したであろう。
しかし、この流れで映画館に行けば、タイトルの選択権は当然雪が勝ち取ることになる。
雪の好みの映画は練乳に砂糖をぶち込んだような激甘のラブロマンス。
対する莉子の好みは、B級臭漂うアクション物。
おまけに映画館近くにあるアントワネットという店は、ナウなヤングカップルに大人気のしゃれおつな喫茶店。
「で、でもさっ、映画観た後にアントワネット行ったら、時間的には夕食だよね? だったら、ラーメンとか牛丼とかのほうが―――」
「やだ。だってそんなの……可愛くないもん」
「で、ですよねー……」
雪は、かなりの乙女趣味である。
いつもは莉子に合わせて立ち食い蕎麦だの定食屋だの女子高生にあるまじき店にだって平気で行くが、本当はおしゃれで可愛いお店で存分にスイーツをつつき回したいのだ。
逆に、莉子はそういう女々しいのが苦手だったりする。
しかし、当然ながら今の莉子には拒否権などあるわけがない。
というわけで莉子の本日の予定は、激甘恋愛映画を観た後でおっしゃれーなスイーツ喫茶店という放課後デートコースと相成ってしまった。
「うふふふふっ……楽しみだね、放課後っ……♪」
「ソ、ソウダネ……」
ほんのり頬を桜色に染めながら、莉子にしなだれかかる雪。
夢見心地ですりすりしてくる雪と違い、莉子は苦悩していた。
サメもゾンビも謎の巨大生物も、マッチョやテロリストすらも出てこない映画……
うーん……絶対途中で寝ちゃうよ……
でも、こんなに雪が楽しみにしているのに途中で寝るなんて出来ないよね?
それに、アントワネットってめっちゃおしゃれだから、あたしみたいな野暮ったい子が入ったらきっと浮いちゃうよ……
あの独特の雰囲気もちょっと苦手だし、困ったなぁ……
……こんな感じで、莉子の頭の中はすでに放課後のことでいっぱいだった。




