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弓……それは、人類が最初に手にした射撃武器。
その歴史は古く、遥か昔3万年前にはすでに現存していたという説もあるほどだ。
ときに狩猟に欠かせない道具として。
ときに人を殺める武器として。
獣を射抜くのにも、人を射抜くのにも、林檎を射抜くのにも、扇を射抜くのにも……弓は使われ続けた。
とりわけ、弓の歴史においてはロングボウと呼ばれる大型弓で、武器としての到達点に辿り着いた。
その威力は凄まじく、フライパン程度なら軽く撃ち抜き、有効射程範囲も100メートルと長大である。
しかし、それを使いこなすには技術はもちろんだが、相応の腕力が必要不可欠だ。
なにしろ一本の矢を引くのに、少女一人を持ち上げるのに等しい腕力が要るのだから。
もちろん、物理的制約に囚われていない精神武装として展開されたブロークン・アローには、そんな腕力は必要ない。
己が生成した矢を、自分の精神力が続く限り、撃って撃って撃ちまくることが出来る。
反撃されることのない遠距離から、強烈な殺傷力を秘めた矢を、一方的に。
「うははははははッ!! さっきまでの憎まれ口はどうしただか!? そんただとこ引きこもってさねぇで、オラんとこさ来い!! ブレイドぉ!!」
「…………」
やかましい田舎娘の声が夜の廃墟に響き渡る。
声の方向を確認しようと、亞璃紗は錆をたっぷりと湛えた廃車越しにほんの少しだけ身を乗り出す。
するとたちまち黒い矢が何本も飛来し、彼女の頬をわずかにかすめる。
「っ……!」
良好な反応速度と正確な射撃。
彼女は言葉遣いさえ珍妙ではあるが、精神異能者としての実力は決して低いものではない。
もちろん、散々この界隈を荒らしまくった亞璃紗には遠く及ばないが。
むしろ本来ならば、ブロークン・アローなど亞璃紗にしてみれば物足りない相手である。
矢を番えることすら許さない圧倒的速度の加速で距離を詰め、首を撥ねてしまえばそれで勝負は決してしまう。
しかし、それでも亞璃紗は動かなかった。
理由は3つある。
ひとつは、彼女の自信満々な態度。
亞璃紗はどうしても、それが気になって仕方がなかった。
なにか……その自信を裏付けするもの。
例えるなら“必勝の策”のようなものが無ければ、あの顔、あの態度は出来ない。
もうひとつは、この立地である。
ここは元々経営難で潰れたパチンコ店なのだが、深夜は不良や暴走族以外ほとんど寄り付かなくなるのをいいことに、心無い者達によって廃材やら廃車やらの不法投棄が平然と行われている。
故に、射撃型精神武装にとっては邪魔以外のなにものでもない遮蔽物がいくつも点在している。
射程距離においてイニシアチブが取れるのなら、戦いの場はもっと見通しのいい開けた場所を選ぶのが定石。
なのに何故、あえてここを選んだのか。
廃棄物を盾にされて困るのは、射撃型のブロークン・アローのはず。
なにか、きっとなにか裏があるはず……
亞璃紗のその読みは、正しかった。
「ったく、いつまで引き篭もってるだか、あンの毛唐女はっ……!」
ブロークン・アローの所有者、更科 辰子は、いつまで経っても飛び込んで来ない亞璃紗に対してやきもきしていた。
正直なところ辰子は自分程度の実力で、機動力において他の追随を許さない亞璃紗を捉えることが出来るなどとは思っていない。
そんな考えは思い上がりもいいところだ。
自分の力量は、自分が一番よく分かっている。
弟の八郎とタッグを組んで2対1で戦ったとしても、正攻法では敵わないだろう。
そう。“正攻法では”。
故に辰子は“罠”を張った。
廃棄物が点在するこの廃墟を選んだのも、廃材に“罠”を隠し、カモフラージュする為。
“罠”の仕組みは至ってシンプルである。
先ほど亞璃紗と莉子に打ち込んだ、通称『クラスターショット』。
3分間という長い点火を経て練成されるこの必殺の矢を、自身の前方10メートル付近に多数設置する。
錆びた鉄筋の影、ひび割れたアスファルトの間。
様々な場所に身を潜めるかのように仕掛けられた、いわば精神武装の指向性地雷。
その“罠”を炸裂させるタイミングは辰子の意のままではあるが、それは同時に炸裂させるタイミング如何で、勝敗が左右されることを意味している。
目で追うことすら難しい亞璃紗の加速を捉えられなければ、即・敗北である。
もちろん、その点においても抜かりはない。
彼女の加速を想定し、散りばめられた無数のガラス片。
これが踏まれることによって、独特の破砕音が発生する。
相手が目視もままならない高速で襲ってくるのであれば、音の速さでそれを察知すればよい。
結果、小さなガラスが砕ける音が聞こえると同時に起爆すれば、亞璃紗の身に数多の針が降り注ぐことになる。
これが、辰子が徹夜で考えて編み出した必勝の策。
更に辰子は先ほど矢を放ったとき、この作戦で亞璃紗を屠れるという大きな確信を得ていた。
亞璃紗はあの攻撃を回避しきれず、矢が頬をかすめている。
ということは、このトラップも回避出来なくて然るべきだと考えていた。
あとは亞璃紗が、その巧みな“罠”に足を踏み入れるだけ……
「来いッ……さあ来い……ッ! そんなとこさ居ねぇで、オラんとこさ飛び込んで来ぉい!! ブレイドぉ!!」
しびれを切らした辰子の放った矢が、放物線を描く。
弓矢は銃器と違い、このような曲線的な攻撃も容易である。
遮蔽物を飛び越えながら、その先にいる標的へと落ちる軌道。
しかし、これは本命ではない。
この一矢は、獲物を狩場へ追い立てる……いわば走狗。
「ちッ……!」
頭上から落下してくる矢を見て、亞璃紗は加速を発動して絶好の隠れ蓑であった放置車両の陰から飛び出す。
だがそれは、まさに辰子の読み通りの行動だった。
じゃりっ……!
「!?」
亞璃紗と辰子、ふたりの間の距離がおよそ10メートル程になったその瞬間。
足元で鳴った奇妙な音。
それは小さなガラス片が砕け散る音。
辰子にとってその音は、勝利のファンファーレに聞こえた。
「くたばれ成金女ァ!!!」
彼女の怒号に反応するように、突如として炸裂する無数の閃光。
先ほどとは比較にならない数の光の針が、亞璃紗めがけて襲いかかる。
飛び散る金属片。
爆発する放置車両。
常人ならば5度は殺せるであろうその殺戮の嵐の渦中に、辰子はダメ押しとばかりに精神武装の矢を連射する。
「うはッ! うははははははッ!! あーーーーーーッははははははッ!!! 無様だなやぁ!! ブレイドぉ!! どうだぁ!? 格下だと思ってた相手に足元さ掬われる気分は!! あ!? もうくたばっただか!? おいコラ! どうだって聞いてるだぞぉ!?」
濛々とする土煙の渦に向かって勝ち鬨を挙げる辰子。
亞璃紗の存在を確認することは出来ないが、おそらくは弾け飛んだ金属片に全身を貫かれて息絶えているはず……いや、確実に死んでいる。
あんな破壊と爆発の只中に飛び込んで、生きていられるわけがない。
辰子はそう確信していた。
「ひとつ、教えて差し上げますわ」
「……へ?」
突如として背後から聞こえてきた、淑やかさと凛々しさを兼ね備えた声色。
その声に、辰子の背筋が凍りつく。
確かに感じ取れる小さな息遣い。
……いる。
背後に、彼女が。
そこにいるはずのない、彼女が。
「自慢ではございませんが剣家は江戸時代末期から続く豪商……曲がり間違っても、『成金』なんて下品な者ではありませんことよ?」
「な、ななな、なんで―――」
「はい? んー……『なんで』と申されましても、倒幕を機に武家から商家に鞍替えした結果ですが……」
「そ、そっただこと言ってるんでねぇ!! な、なんでオメェがオラの背後さ立ってるだか!? オメェは確かにあそこに―――」
「くすくすっ……まだ理解出来ませんの? 頭の悪い子ですわね……」
「なっ!? なんだとぉ!?」
激昂して振り返ろうとする辰子の動きを、亞璃紗はほんの少しだけ右手を動かしただけで制した。
冷徹で鋭い刃物が発するひんやりとした感触。
今までに何人もの精神異能者を屠ってきた歴戦の精神武装・ブレイド。
それを首筋に添えられてしまっては、身動きなど取れるわけがない。
「ガラス片を撒いて鳴子代わりにする……ここまではいいアイディアでしたわ。確かにわたくしの加速では、音速には遠く及びませんもの……。ですが、貴方の反応速度には追いつけた。それだけのことですわ」
「は……はんのうそくど……?」
一般的に、人間が視覚や聴覚から得た情報にレスポンスを吐き出すまでにかかる時間は、個人差はあれどおよそ0.2秒~0.28秒の間である。
もちろん、プロボクサーや卓球選手など、動体視力を鍛えるための特殊な訓練を積んだ人間の反応速度ならばもっと縮まるであろう。
それでも人間の反応速度の限界は0.1秒とされており、それを割ることはないと言われている。
「ちょ、ちょっと待つだ! 納得いかねぇだぞ!? オメェの反応速度とオラの反応速度の差なんて、ご、誤差みてぇなモンじゃねぇだか!? 現にオラの矢を避け切れずにほっぺたさ、かすって……そ、それなのに、こんただ圧倒的な差が出るわけが……ッ!?」
そこまでまくし立てて、辰子は“ある可能性”に気付いた。
「お、オメェ……! ひょっとして自分の神経伝達機能ば加速させてるだか!? 矢がかすったのも、オラの油断を誘うためにわざと―――」
「残念ですけどわたくし……貴方の答え合わせに付き合ってあげるほど、暇ではございませんの」
「うがっ!?」
亞璃紗が退屈そうにそう呟くと同時に、辰子の背中に焼けるような鋭い痛みが走った。
鋭利な刃物で斬り裂かれる感覚。
痛みと同時に訪れた猛烈な虚脱感に、彼女は倒れ伏して意識を失った。
「う……あ……?」
「ご安心ください。手加減はしておきましたから……とは言っても、しばらくはろくに動けないでしょうけど」
地べたに這いつくばる辰子を、まるで路肩に打ち捨てられたゴミを見るかのような目で見下ろす亞璃紗。
そして、特になんの感慨もなくその場を後にした。
別に手加減などせず適当に精神崩壊に至るレベルのダメージを与えても良かったが、なんとなくやる気が起きなかった。
「ふぅ……他人に情けをかけるなんて、らしくありませんわね……」
自嘲するようにそう呟きながら、月夜に照らされて金色に輝く髪をかきあげる亞璃紗。
普段ならこういう生意気で面白みのない精神異能者など、問答無用で私刑にしてしまうのだが……
「いけませんわね……あの子に影響されないように気を付けていますのに……」
心を許せる相手……莉子という存在を得てからおよそ一週間。
短期間ながらも、亞璃紗は自分自身の心の変化を実感していた。
敵に情けをかけること……
果たしてそれは弱さなのか。
それとも、心が強くなったからこそ成し得ることなのか。
「……って、今はそんな禅問答をしている場合ではありませんわね」
亞璃紗は考えることを止め、彼女のもとへ駆け出す。
自分には遠く及ばないが、同じ精神異能者である少女……莉子のもとへ。
「……まだやられてはいないでしょうけど、わたくしが到着する頃には絶体絶命のピンチになっているといいですわね。そこをわたくしが颯爽と登場して、こう、ハリウッド映画のヒーローみたいにカッコ良く助けに入って―――『ああん! 亞璃紗大好きっ! 抱いてっ!』 ……な~んてことになるかもっ♪ んもうっ、莉子ったらぁん! はしたないですわよっ♪ んふふっ♪」
不純な妄想を膨らませ、莉子の声真似をして一人で勝手に盛り上がり、頬を染める亞璃紗。
亞璃紗がなかなか攻撃に転じなかった3つ目の理由とは、実はこれである。
正直なところ、ブロークン・アロー程度ならば策を練ってようが罠を張ろうが、その気になればすぐにでも倒せていた。
しかし、そんな呆気なく倒してしまったら緊張感が無くなってしまう。
愛する人と時間と苦楽を共にし、ほんの少しだけピリ辛スパイス的な危険に晒すことで深まる愛がきっとある。
計算高い亞璃紗らしい、実に巧妙な恋愛ロジック。
そう……ほとんどその為だけに、亞璃紗は攻勢に転じるのを躊躇っていたのだ。
「さて、わたくしの莉子はどうなって……って、あらら……?」
亞璃紗がそこまで執着している少女、莉子。
その莉子の奮闘振りを確かめようと、彼女と狼男が追いかけっこをしていた場所に到着した亞璃紗は目を丸くした。
なぜなら―――
◆
◆
◆
数分ほど時間を遡る。
莉子は未知の精神異能者を目の当たりにして、防戦一方だった。
「うへへへぇ!! ケツ! ケツだァ!! そのケツ触らせろォ~~~~~!!」
「ひいぃっ! こ、来ないでよぉ、もおっ!!」
……加えて、未知の変質者を目の当たりにして、本気で逃げ惑っていた。
右腕と顔だけ毛むくじゃらの狼男となった少年……更科 八郎は、常人では到底成し得ない跳躍力で、莉子に迫る。
「ぃやっほおォ~~~~~~!!」
「っ!? あ、加速っ……!」
奇声を発する八郎の姿。
走り幅跳びの要領で跳躍した野獣が、落下しながら自分のほうへ迫ってくるのが見えた。
莉子はその着地点を悟り、慌てて加速の力を自分の両脚に込める。
一時的に得たその驚異的な瞬発力で、なんとか危険区域からの離脱を試みているのだ。
「ぁあああああたあああれぇええええええ!!!!」
「間に合えーーーーーーーっ!!」
振り上げられた獣の豪腕。
まさに鉄槌と呼ぶに相応しいその渾身の一撃は、劣化したアスファルトを易々と粉砕し、破片を飛び散らせ、小さなクレーターを形成した。
かろうじてその一撃を回避した莉子は足を踏ん張りながら急制動をかけ、飛散する瓦礫をガードしつつ反転攻勢に移ろうとしていた。
眼前には片膝立ちのまま反動で動きが止まっている獣。
顔のガードはガラ空き。
その一瞬のチャンスを、莉子は逃さなかった。
「そこだっ!!」
「うおッ!?」
相手の膝を踏み台にして跳躍する莉子。
狙いはもちろん……無防備な顎!
入れるのは……正面からの強烈な飛び膝蹴り!
「シャイニング・ウィザーーーーードっ!!!」
「ぐッ……! おッ……!?」
それはプロレス界においては華麗な魅せ技と同時に、非常に危険な技として知られる膝蹴り攻撃……初期型シャイニング・ウィザード。
莉子は幼少の頃、プロレスにハマっていた頃があった。
その頃に観た映像の記憶から、見事にそれを再現して見せたのだ。
もちろん、全体重が乗った飛び膝蹴りなんてものを顔面に食らって、無事で済むはずがない。
この一撃で勝負は決した。
莉子はそう確信していた。
……が、それはあくまでも常人相手での話である。
「痛っ……たくねェんだよォーーーーー!!」
「えっ!? わっ、ひゃあっ!?」
膝がモロにめり込み、のけぞったかに見えた狼男。
しかし、驚くことに彼はその状態から無理やり体勢を立て直してきた。
必殺の一撃を見舞って気を抜いていた莉子は、それに驚いてバランスを崩す。
背中から地面に落ちそうになる莉子。
その彼女のしなやか足首めがけて、毛むくじゃらの右腕が伸びる。
「う、うわわっ! な、なにこれっ!」
「ぐへへぇ~~~~! つ~~~~~かま~~~~えたッ!!」
一瞬の攻守逆転。
その絶好のタイミングを、八郎は逃さなかった。
結果、莉子は足を掴み上げられ、見事に逆さ吊りにされてしまう。
「ちょっ……! お、下ろしてよっ! み……見えちゃうじゃないっ!! 変態っ!!」
「うへへっ! 嫌なこった! ようやくとっ捕まえた俺のケツだ! じ~~~っくりと楽しませて貰うぜェ~~~~~」
「ていうかいい加減ケツ呼ばわりするのやめてくれない!?」
莉子は脚を固く閉じ、宙吊りになりながらも両手で必死にスカートを押さえて抗議の声をあげる。
なんという恥辱。
なんという屈辱。
足首から腰元まで素肌を露にし、まるで芋虫のように身をよじる莉子。
その恥ずかしさもさることながら、莉子にはひとつだけ……どうしても腑に落ちないことがあった。
「どうして……!? だ、だってあんた……っ! さっきあたしの膝っ……モロに入ったはずなのに……!」
「ふっ……ふへへへへっ!! おいおい冗談だろォ!? おまえ、三大異常技能の強化も知らねェのかァ!?」
「ぶ、強化っ……!?」
三大異常技能。
精神異能者が操る比較的ポピュラーな異常技能を、彼らはそう呼ぶ。
ひとつは亞璃紗のような加速系。
自身の身体に加速の力を付与し、瞬発力を高めてエネルギーの伝達速度を速めることによって、人智を超えたスピードを得るもの。
ふたつめは辰子が得意とする射撃系。
精神武装の弾丸に精神エネルギーを凝縮することにより、遠距離から強力かつトリッキーな攻撃を放つもの。
そしてみっつめが彼……八郎が今、駆使している強化系。
肉体の攻撃力、耐久力を一時的に強化することによって、桁違いの筋力や想像を絶する打たれ強さを獲得するものだ。
「ま、要するにパワーアップしてるわけだ。特に、精神武装として展開されているこのイケメンウルフフェイスと、フッサフサの右腕は攻防共に無敵だぜェ!! ま、ここまで広い範囲で展開出来るのは、今夜みたいな満月の夜だけだがな」
「ていうか、どこがイケメンなのよどこが」
「なにィ!? このワイルドかつダンディーな造形美が分かんねーのかァ!? 生意気なケツだぜェ、だったら俺も容赦しねぇーぞォ?」
「なっ……なによっ……」
「ぐひっ、オ・シ・オ・キ……してやるぜェ……? この、犬並に強化された嗅覚でなぁ……」
意味ありげにそう呟いた狼男は、ニヤニヤしながら目を細める。
そして、おもむろに鼻から空気を吸ったり吐いたりを繰り返しはじめた。
ひどく下品に。
「くん! くんくん!! くんかくんか!! フゴッ! フゴフゴッ!」
「えっ!? ちょっ……あ、あんたっ、な、なにしてんのよっ!?」
「ひくひく……すぅ~~~~~~~……おぉ~ぅふ~~~~ぅ! ぁ~~~……イイ……これは久々の大ヒットだぜェ~~~」
「な、なにがよ……」
鼻をひくつかせてだらしなく笑う獣を見て、莉子は宙吊りのまま気味悪そうに問いかける。
「うへへっ! おまえの匂いだよ、ニ・オ・イ! 健康的な甘酸っぱい汗の香りを筆頭に、それを隠そうにも隠せなかったデオドラントスプレーの芳香! 微かに匂う牛乳石鹸と安物シャンプーのフレグランス! おそらく移り香であろう高級感漂うローズヒップも、ミスマッチかと思いきやなかなかどうして絶妙なアクセントを醸し出しているじゃねェか! そしてなにより、鼻から脳天までをツンと刺激するこの芳しいアンモニ―――」
「ギャーーーーーーーーーーー!!! あ、あんたなんてことっ……そ、それ以上言うな変態っ!!! 死ねっ!!! 死ねーーーーーーー!!!」
「おふぅ!?」
莉子は羞恥で顔を真っ赤に染めて、じたばたと身体をまるで振り子のように揺らして大暴れする。
その挙動は偶然にも、狼男へのクリティカルヒットを生み出した。
莉子の頭の位置と、彼の股ぐらの位置が……ちょうど同じ高さだった為に起きた“不幸な事故”であった。
「おッ……! お、俺のッ……! お珍宝ッ……! き、金の、た、タマタマがァ~~~~!!」
「はぁ……はぁっ……っ、どうやら、“そこ”は強化されてなかったみたいね」
「うぐッ……ぉおおおぉ~~~~~ッ!!」
投げ出された莉子はすぐさま立ち上がり、追撃の体勢に入る。
莉子とは対照的に狼男はあまりの痛みに立つことすらままならず、うずくまったまま股間を押さえてピクピクしていた。
「なっ……なんてことしやがるんだッ……せ、せっかくこの俺が絶賛してるってェのに―――」
「体臭なんか褒められて喜ぶ女の子なんて、いるわけないでしょーーーがっ!!!」
「ぎゃいんっ!!」
赤面しながら振り抜いた点火キック。
その足は、八郎の大事な大事なふたつのボールを見事に捉えていた。
点火の炎を纏っていれば、単なるヤクザキックも立派な精神攻撃となる。
もちろん、物理的ダメージも据え置きである。
「お……ッ! おふぅ……」
そして、八郎は意識を失った。
男性なら誰しも経験するであろうこの耐え難い苦痛を前に、成す術もなく失神したのだ。
同時に、彼の顔面と右腕を覆っていた、まるで狼男のような精神武装も解除されていく。
「って、あらら……?」
かくして亞璃紗は目を丸くする。
なぜなら、圧倒的に不利だと思われていた精神武装持ちの狼男。
それをこともあろうに、覚醒してから1週間足らずのド素人……愛する彼女が、足蹴にしているのだから。
「亞璃紗っ! こっちはなんとか押さえといたよ! そっちは?」
「えっ!? え、えぇ、まぁ……滞りなく……」
「怪我は?」
「ご心配なく。ちゃんと手加減しておきましたから」
「違うよ。相手の子のことじゃなくて、亞璃紗が、だよ。怪我とかしてない? 大丈夫? ほら、ほっぺのところ……なんか赤くなってるよ?」
「なっ……!」
そう呟いて、自然な動作で亞璃紗の頬に触れようとする莉子。
莉子のあまりに突然過ぎるアプローチにキョドった亞璃紗は、咄嗟にその手を払ってしまう。
「あっ……」
「っと、ご、ごめん……触られるの、嫌だった?」
違う。
莉子に触れられて、嫌なわけがない。
むしろどんどん触りに来て欲しいとさえ思っている。
しかし……いかんせん、免疫がないのだ。
他人からの、好意に満ちた触れ合いというものに。
故に、どうしてもドギマギしてしまう。
驚いて……慌てて拒絶してしまうのだ。
「っ……も、もうっ! わ、わわ、わたくしがそんなヘマするわけありませんでしょう!? 精神異能者としての経歴なら、わたくしのほうがずーっとお姉さんですのよっ!? こっ、子供扱いっ、しないでくださいっ!」
「あははっ、それもそうだね。ごめんごめん」
「っ……! ううっ……」
顔をゆでだこのように真っ赤にしながら、亞璃紗は慌てて言い繕う。
テンパる亞璃紗とは対照的に、莉子はあっけらかんと微笑んできた。
亞璃紗としてはその温度差が、ものすごく悔しかった。
「どうしてわたくしだけこんな思いをっ……ず、ずるいですわっ……」
莉子に背を向け、小さく……拗ねるようにそう呟く亞璃紗。
「ん? なにが?」
「なんでもありませんっ!!」
一体なにが“ずるい”のか。
今の莉子では、おそらく一生かかってもこの“ずるい”の意味を理解することは出来ないだろう。




