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Psychopath  作者: 東都湖 公太郎
ブレイド
18/45

4



「ぐすっ……」


 広大な日本庭園にそびえる、楓の巨木。

 その根元にうずくまり、少女がひとりすすり泣いている。

 彼女の名は―――


「……亞璃紗よ」

「あっ、おじい様っ……」


 亞璃紗の目の前に現れた老人。

 体格は小柄で、口髭とあご鬚が立派なその老人は、鋭い眼差しで少女を見下ろしていた。


「今、泣いておったか?」

「え? えっと……」

「泣いて、おったか?」


 老人は感情のこもっていない声で、二度、同じ質問をする。

 亞璃紗はその言葉にどう返せばよいのかを知っていた。

 目を瞑り、息を整え、気持ちを切り替えて―――


「……いいえ。剣の者は人前で涙を流しません」


 答える。

 凛とした面持ちで老人を見据えながら。


「…………」

「…………」

「あ、あのっ、おじい様?」

「……らい」

「はい?」

「偉いッ!! 偉いぞ亞璃紗ァ!!! さっすがワシの孫じゃわい!!!!」

「ひゃあっ!?」


 突然興奮し、少女を抱き上げて小躍りする老人。

 しわくちゃの顔が喜びに満ち溢れる。

 その笑顔は、彼らの頭上で輝く太陽に負けるとも劣らぬほど輝いていた。


 彼……亞璃紗の祖父・剣 刀右衛門とうえもんには、亞璃紗が泣きたい理由を痛いほど理解している。

 ある日突然、親元を離れてこんな片田舎で祖父母達と暮らすことになるなんて、幼くか弱い少女にとっては耐え難い苦痛だろう。

 一体亞璃紗のなにが不満だというのだ?

 こんなに可愛くて、こんなに聡明な一人娘を、こともあろうに欠陥品呼ばわりしくさりおって。

 ……許さん!


「許さんぞ馬鹿息子ォ!! そしてあのいけ好かぬ毛唐の小娘がァァ!!!! 亞璃紗をこんなに悲しませおってからにィ!!! 今度その汚いツラ見せたらハラワタ引きずり出して吊るし上げてくれるぞォォォォォ!!!」

「お、おじい様? 心の声が漏れてますわよっ?」

「うォおっといかんッ!」


 刀右衛門は慌てて口を噤む。

 とんだ失態である。

 こともあろうに可愛い孫の両親のことを、あんな口汚い言葉で罵ってしまった。

 彼の武闘的な性格は、時として驚異的な商才を発揮するが、大抵の場合はこのような形で自滅するのが常であった。


「あ、亞璃紗? そ、そのォ、さっきの言葉は―――」

「はい。ものの弾みというやつですわね。忘れますわ」

「ほっ……」


 幼い亞璃紗は出来た子であった。

この歳にして、祖父の性格も“大人の事情”というものも、よく理解していた。

 そう、理解している……つもりだった。


 ことの発端は数ヶ月前。

 彼女の右手に灯った青白い炎。

 その変調を、純真無垢で素直な少女はすぐさま両親に訴えた。

 だが、そんな亞璃紗に大人たちが下したのは『心の病気』という名の烙印。

 都会暮らしで心を病んだ娘を哀れんだのか、それとも本当に邪魔者扱いして遠ざけたのか。

 亞璃紗はこの片田舎にある祖父・剣 刀右衛門の邸宅へ預けられた。

 ここでの生活に、不満はない。

 祖父母は優しいし、自然も豊かで水と空気が美味しい。

 家に常駐している家庭教師だって一流だ。

 たまに祖父によって行われる『剣流剣術つるぎりゅうけんじゅつ』なるものの稽古には度肝を抜かれたが、慣れると結構楽しかったりもする。

 しかし、それとこれとは話が別だ。

 両親に忌避されて悲しまない子供がいないわけがない。

 思い出しただけで、涙が出そうになる。


「……おじい様」

「んォ? なんじゃ?」

「剣の家の者は……ずっと弱さを見せずに生きなくてはなりませんの?」

「む……う、うむゥ……」


 子供らしからぬもの鬱げな表情で、そう問いかける亞璃紗に刀右衛門は言い淀む。


 『己の弱きを見せるべからず』


 剣の家に代々伝わる言葉。

 自分の心に隙を作ってはいけないというこの教えは、幼い少女にとっては重過ぎる枷。

 もちろん、それは誰にとっても同じことだ。

 どんな人間であれ、己が弱さをひた隠して生きられるものではない。


「これは、亞璃紗がもっと大きくなってから教えるべきことだったんじゃが………」


 刀右衛門はそう前置きしたうえで、おずおずと語りだす。

 視線を泳がせ、髭をいじりながら。


「まぁ、その……なんじゃ? いくら剣の者といえどもな? やはりひとりは寂しいものじゃ」

「はい……」

「だからの? あの家訓には続きがあるんじゃ」

「続き? 剣の者は誰にも気を許してはならないのが決まりではないのですか?」

「基本的にはそうなんじゃが、例外として……りょ、が……」

「?? はい?」

「じゃ、じゃからの? は、は……りょには、心を許してもよいのじゃ」

「え、えーっと……おじい様? 大事なところが聞き取れないのですが……」 


 刀右衛門は面と向かってこんなことを言うのが気恥ずかしくて仕方がなかった。


 『心を許すは生涯において唯一人、己の伴侶となる者のみと心得よ』


 剣を知ること。

 それは生涯添い遂げることを誓った片割れにのみに許される特権。

 心を許し、身体を許し、すべてを許しあえる者こそが至高の宝であり、それを得るためには相手に己が心の一切合財を差し出す。

 それが豪放磊落な剣の血統が連綿と受け継いできた恋愛美学であった。


 もちろん、ギリギリ気が触れているような剣家の人間を陥落させるのは並大抵のことではない。

 恋愛沙汰で死人が出る程度ならまだ可愛いほうで、小娘一人の取り合いで国がひとつ滅んだ逸話も残っている。

 そんな猛毒の棘をもったバラに触れようとする愚かな虫が、果たしているだろうか?

 いや、たとえいたとしても亞璃紗は渡さん。

 絶対に渡さんぞ!


「もしそんな蛆虫が沸いて出たら、このワシが直々にぶち殺してハラワタ引きずり出してくれるぞォ!!」

「お、おじい様っ、また心の声が……」

「うォおっといかんッ!」


 このときの刀右衛門は、予想だにしていなかったであろう。

 少し先の未来……

 年月を経て、心身ともに成長した孫娘が、男ではなく女……しかも、サウナで汗だくになった全裸の少女に言い寄られる未来など。



 当然のことながら、それは亞璃紗にとっても想定外だった。

 ちょっと手軽にいぢめて遊べて、都合の悪い部分にはノータッチでいてくれる気さくで楽しいお友達が欲しい。

 そんな軽い気持ちで莉子を捕まえたつもりだった。

 しかし、莉子のほうはそんなぬるいごっこ遊びなど望んでなどいなかった。


「……一之瀬さんは新参者ルーキーだからご存知ないでしょうが」


 普段と変わらない笑顔を浮かべて、亞璃紗は突然そう切り出す。

 莉子の歩みを止めるために。


「実はわたくし、結構な数の精神異能者サイコパスを、廃人にしていますの。この剣で……」


 精神武装ミリタリアは人間の心にダメージを与える武器。

 心に致命的な損傷を受ければ最悪、一生精神病院で暮らすことになる。

 それは、ひとによっては死よりも過酷な結末だろう。

 亞璃紗はその過酷な結末を、この冷徹な刃で数え切れないほど演出してきた。

 もちろん、こんなことを吐露して他人にどう思われるかは百も承知である。

 ドン引きされても構わない。

 今は、莉子の猛進を止めるのが最優先なのだから。 


「だからなに?」

「えっ……? な、なにがって……怖くないのですか?」

「そりゃ、ちょっと怖いとは思うよ。でも、剣さんは理由もなくそんなことする人じゃないでしょ?」

「っ……! そ、そ、それはっ、そうっ……ですけどっ……!」

「それに……剣さんがあたしに言うべきことって、そんなことじゃないでしょ?」


 気にした素振りも見せずに莉子はまた一歩、踏み出す。

 正直なところ亞璃紗はドギマギしつつも、内心嬉しかった。

 精神異能者サイコパス同士の衝突で、相手を廃人にしてしまうことなど珍しいことではない。

 だからといって、決して印象のいいものでもない。

 不良の悪事自慢よりたちが悪い。

 しかし、莉子はその事実をただ一言、『だからなに?』と飲み込んでしまった。

 同年代の子が、自分を受け入れてくれる。

 信じてくれる。

 産まれて初めて体感するその心理的快楽が、亞璃紗の背筋を駆け巡る。

 柔らかく包み込む不思議な安心感に、心がふわふわになり、蕩ける。


 彼女なら……一之瀬さんなら、わたくしのすべてを受け止めてくれるかもしれない。

 受け止めてほしい。

 受け入れてほしい。


 そんな欲求が、亞璃紗の心の奥底から沸々と湧き始めていた。

 溶かされているのがわかる。

 莉子の発する情熱によって、永らく閉ざされていた自分の心。

 その厚い氷壁が、みるみるうちに融解していく感覚を、亞璃紗は敏感に感じ取っていた。


 ……だが、それは―――

 それだけは許されない。


「一之瀬さんが、男の子でしたら……」

「えっ……?」


 震える唇で、小さく呟いた亞璃紗。

 莉子がその言葉に反応するよりも速く、その刃……精神武装・ブレイドの切っ先が翻る。

 気が付くと、亞璃紗の姿は莉子の視界から消えていた。

 

「剣流剣術……暗殺剣『彼岸花』っ!!」


 暗殺剣『彼岸花』。

 それは剣家に代々伝わる剣技のなかで、特に重要な場面で多く使われているものだった。

 敵将の暗殺。

 商売の邪魔になる侠客の排除。

 私服を肥やすだけの要人の謀殺。

 一滴の返り血も浴びることなく、すれ違いざまに首筋数センチを切り裂き、相手の首元に真紅の彼岸花を咲かせる。

 凄まじいまでの瞬発力と、頚動脈をギリギリ致命傷に至る程度に損傷たらしめる繊細な剣さばき。

 そのふたつを両立させて初めて成せる絶技であった。


「う……っ、あ、がぁ……っ!?」


 一瞬遅れて、莉子の首筋に激痛が走る。

 精神武装ミリタリアでの斬撃。

 実際に身体を切り刻まれたわけではない。

 しかし、この痛みは本物だった。

 莉子が鋭い痛みを発する首筋をふと見ると、そこはまるで壊れた水道管のような勢いで血しぶきが迸っていた。

 それは亞璃紗が植えつけたこの攻撃の精神イメージであるが、それを受けた莉子は本当に自分の頚動脈を切断されたような感覚だった。

 おそらくは、もう取り返しがつかないレベルでの精神的損傷。

 精神病院送り……それが、亞璃紗が出した答えだった。


「ごめんなさい。貴方には、あげられませんの……わたくしの心と身体と、剣家の未来は……」


 『己の弱きを見せるべからず』

 『心を許すは生涯において唯一人、己の伴侶となる者のみと心得よ』

 莉子に心を許すこと。

 それはとても魅惑的なこと。

 幼いころから渇望してやまなかった“信頼できるお友達”が出来る。

 おまけに生涯でたった一人きりの大切な、“伴侶”も出来る。

 同性の。


 ……そう、それが問題なのだ。


 同性の伴侶など、前代未聞である。

 別に亞璃紗本人としてはさして恋愛には興味が無いので、特に性別にこだわりはない。

 しかし、剣家としては大問題だ。

 体裁はもちろんだが、そもそも世継ぎはどうするのか。

 愛だけでは、どうにもならないことがある。

 そして、亞璃紗の心に産まれた情動もまた、どうにもならかった。


 故に、決別の道を選んだ。

 己の欲求と、莉子との決別……この選択は、絶対に正しい。

 そう思って剣を振った。

 ……はずなのに。


「どうして、涙が止まらないのでしょうか……」


 亞璃紗の視界は涙で歪んでいた。

 今まで野菜くずを斬り捨てるような感覚で数多の精神異能者サイコパスを刻んできたが、こんな気持ちになったのは初めてだった。

 自分を殺し、莉子の心を殺し、今になって後悔の念が涙となって押し寄せる。

 本当に……本当にこれが正しい選択だったのか。

 そんなことを考えても仕方のないことだが、やはり考えてしまう。

 振り返り、すでにもの言わぬ廃人と成り果てたであろう彼女を見つめて―――


「……い、一之瀬さん、ど、どうして……?」

「えっ……なにが?」


 亞璃紗は振り返って先にいた少女の姿に驚愕した。

 致命的な一撃を受けたはずの莉子。

 本来なら、廃人一直線であるはずの精神的損傷受けてもおかしくなかったはずであったのに、莉子の瞳はいまだ輝きを失ってはいなかった。


「剣さん……また、泣いてるね……」

「っ……」


 ゆっくりと手を伸ばし、柔らかく微笑む莉子。

 その笑顔を見た途端、亞璃紗は自分の心が息を吹き返したような気がした。

 干からびてひび割れた心に、瑞々しい岩清水が染み渡るような、そんな清涼感。

 そして、莉子の伸ばした手が亞璃紗の頬に触れ……


「えっ? いちのせさ―――ひゃあっ!?」


 そのまま、前のめりになって倒れこむ。

 亞璃紗を押し倒すように。

 その衝撃で亞璃紗のバスタオルは肌蹴て、汗まみれになった莉子の素肌と亞璃紗の素肌が、直に密着する。


「ちょっ……!? い、いちのせさんっ!? ……き、気を失ってますの?」


 そのまま莉子は、まどろみの底へと意識を沈めていた。

 だが、気を失うにしても場所が悪い。

 なにせそこは―――


「もうっ……ひとの胸の上で寝るなんて、お行儀が悪いですわよ……?」


 気が和らいで、少しだけ落ち着きを取り戻した亞璃紗は、そこでようやく理解する。

 あの時……暗殺剣『彼岸花』は完全に発動してはいなかった。

 この絶技は、頚動脈を斬りつけるときの微妙な力加減が肝要であり、強過ぎれば大量に噴出す返り血によって己の身が汚れ、弱過ぎれば相手を絶命たらしめる頚動脈への損傷には届かない。

 そう。

 今の莉子のように、少し首を切られた程度のダメージで済んでしまう。

 無意識のうちに、莉子への攻撃を躊躇ってしまっていたのか。

 それとも、この精神武装ミリタリア・ブレイドが、亞璃紗の心の一部として莉子を傷つけることを拒んだのか。

 

「きっと、その両方ですわねっ……♪」


 自嘲めいた口ぶりでそう呟くと、自分の胸に顔を埋めて寝息をたてる莉子の頬をぷにぷにと突っつく。

 柔らかい。

 そして、暖かい。

 トクトクと脈打つ鼓動が、愛しい。


「はぁ……やはり人間、自分の欲望に素直になるのが一番ですわねっ♪」


 もう、亞璃紗は迷わない。

 周囲の反応なんて、もはやどうでもいい。

 頬を薔薇色に染めながら、莉子の頬をぎゅっとつねる。


「い、いひゃいぃ……」


 気絶しながら眉間にしわを寄せて嫌がる莉子。

 それを見るだけで、亞璃紗の背筋にゾクゾクと形容し難い快感が走る。


「ふふっ♪ 可愛いっ……♪ でも、このくらいで根をあげちゃダメですよ?」


 むずがる莉子とは対照的に、亞璃紗はまるで子供のように無邪気に微笑んでいた。

 もちろん、莉子の頬をむにむにとつねり続けながら。


「貴方はもう、取り返しがつかない大損害を剣家に与えてしまったのですからっ……♪」


 そう……確かに莉子は、戦国時代から続く名門・剣家に天文学的な損害を与えてしまった。

 これはとてもお金で償いきれる代物ではない。

 なぜなら下手をすれば、剣家は亞璃紗の代で断絶してしまう可能性だってあるのだ。

 一之瀬 莉子という猪突猛進な馬鹿娘のせいで。



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