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Psychopath  作者: 東都湖 公太郎
ブレイド
17/45

3




 人工的に造られた灼熱地獄の只中。

 そこには、素肌にバスタオル一枚を身に纏っただけの少女がいた。


「…………」


 自然界ではありえない数値の熱気と湿度……そして、熱された木材独特の香りで満たされている巨大なサウナ。

 そこは、地方都市に佇むこの高層マンションの主・剣 亞璃紗がひとり、物思いに耽る場所であった。


「……何年ぶりでしょうか」


 亞璃紗はぽつりと呟きながら、自分の目元を指でなぞる。

 己が最後に人前で涙を流した日はいつだったか……

 記憶の糸をたぐり寄せるも、答えは出なかった。


 彼女……剣 亞璃紗には、悪癖があった。

 その悪癖とは即ち、可愛いものを見ると“過剰に”愛でたくなってしまうことである。

 心の奥底から沸き起こる衝動、それは抗い難い渇き。

 たとえば、からからに乾いた砂漠に放り出されたとしよう。

 飲まず食わずでほんの2~3日でいい。

 そんな最中、目の前に汗をかいたグラスになみなみと注がれた氷水があったとしたら。

 いますぐそれを飲みたい、のどの渇きを潤したい。

 その衝動に抗えるであろうか……否。抗えるわけがない。

 仮にそれが他人のものであっても構わず奪い取り、飲み干してしまうだろう。

 そして、のどが潤ったところで初めて我に返り、苦笑いを浮かべて弁解するのだ。

 数分前の彼女のように。


 だが亞璃紗は困ったことに、他人をいぢめたがるくせに自分が拒絶されることに対してはびっくりするほど、打たれ弱い。

 幼少期……子猫を追いかけ回した末に嫌われたときも、同年代の子達に避けられてしまったときも、彼女は夜通し涙を流した。


 仲良くなりたいけどいぢめたい。

 いぢめたいけど嫌われたくない。

 みんなわたくしから離れてしまう……

 近寄ってくるのは欲にまみれた汚い大人ばかり……

 そうこうしているうちに彼女は人間不信をこじらせ、すっかり性格の捻くれた娘になってしまった。


「お金で縛れば、なんとかなると思いましたけど……」


 そんな亞璃紗だからであろうか。

 彼女は一目で、莉子のことを気に入ってしまった。

 健康的で手付かずの身体、垢抜けてエネルギッシュな性格、愚かなまでの人懐っこさ。

 そしてなにより、見飽きることのない予測不可能な思考ルーチン。

 この子なら……

 一之瀬さんなら、こんなわたくしとも―――


「剣 亞璃紗ぁ!!」

「……はい?」


 突如として響き渡る声。

 広いサウナルームに新鮮な空気が流れ込む。

 声がした方向に視線を移すと、そこには亞璃紗がつい先ほどまで思い浮かべていた人物が仁王立ちしていた。

 一糸纏わぬ姿で。


「い、一之瀬さん……ど、どうして―――」

「どうもこうもないわよっ!! 剣さんずるいっ!」

「ず、ずるい……?」

「そうだよっ!! 泣いて逃げるなんてずるい! 泣き逃げずるい!!」

「そ、そう言われましても……って、わたくし泣いてなんかいませんわっ!」

「ええーーー!? そこぉ!? そこ否定しちゃうの!?」


 亞璃紗は顔を真っ赤にして突っぱねる。

 泣き虫な自分の姿なんて誰にも見せたくなかったし、自分でも認めたくなかった。

 加えて、彼女の家の家訓にこんな言葉がある。


『己の弱きを見せるべからず』


 弱きを見せれば付け入られる。

 襤褸を出せば差し込まれる。

 戦国から江戸時代まで武家として生き抜き、江戸時代の終焉と共に商人となり、そこから世界を席巻する大財閥へとのし上がった家系に連綿と伝わってきた言葉。

 それが意味するところは、大きい。


「いやいや、だってあたし剣さんが泣いてるところ見たし!」

「それは……えっと、幻覚ですっ!」

「じゃあその赤くなってる目元はなにさっ!」

「き、気のせいですっ!」

「別にそんなところで意地張らなくたっていいじゃん!」

「意地なんて張ってませんっ!!」

「剣さんの意地っ張り!」

「違いますっ!」


 泣いた・泣かないの低次元な口論。

 おそらくそれは、幼少期に誰もが一度は経験したであろう稚拙な喧嘩。

 傍から見ればまるで子供の喧嘩のようにしか見えないだろう。

 しかし、同年代の友達を作ることなくこの歳まで特殊な環境で育てられてきた亞璃紗にとってそれは、とても新鮮な口喧嘩だった。


「むむむ……これじゃ全然話が進まないよ……」

「進めなくてもいいです」

「よくないっ! あんな泣かれ方したら、気になるじゃんっ!!」

「だっ、だから泣いてなんか―――」

「あたし……剣さんとは友達になれると思ったのに」

「と、ともっ……!?」


 莉子のその一言に、亞璃紗の強張っていた表情が一瞬のうちに瓦解。

 先程までの臨戦態勢はどこ吹く風。

 視線はふわふわと彷徨い、指をもじもじさせ、まるで校舎裏に呼び出された中学生のような落ち着きの無さだった。


「でも、剣さんの気持ちが分からないの。剣さんが泣いた理由も分からないし……それに、どうしてあたしにあんな酷いことしたの?」

「えっ!? ええっと……それは……」 

「あ、別に責めてるわけじゃないよ? びっくりはしたけど……でも、あれにも剣さんなりの理由があるんだよね?」


 言えるわけがない。

 亞璃紗の『Sっ子体質』はもはや悪癖どころか性癖の域に達している。

 好き好んで自分の性癖を暴露するような変態がいるだろうか……まぁいるかもしれないが。

 少なくとも亞璃紗はまだ、変態ではなかった。


「あっ、貴方はっ! わ……わたくしの心のなかを覗くおつもりですのっ!?」

「違うよ。あたしは剣さんのことをもっとよく知りたいの」

「わたくしのことを、知りたい……?」


『君のことを、もっと知りたいな』

 亞璃紗はこれまで自分の家柄目当てで近寄ってくる、下等で下劣な人間が使うその口上を飽きるほど聞いてきた。

 優しい言葉で言い寄るくだらない男に至っては、精神武装ミリタリアの一振りで何人失神させてやったか憶えていない。

 故に、下心の見え隠れする汚い人間のあしらうことに関してなら亞璃紗は百選練磨。

 相手がなにを欲しているかを見極め、見咎め、痛烈な一撃でご退場頂く。

 亞璃紗という名の城塞に侵入しようとする不埒なスパイを吊るし上げることなど、彼女にとっては造作も無いことなのだ。

 しかし、こんな澄んだ瞳で自分だけを見据え、真っ直ぐな気持ちでぶつかってくる相手と相対するのは生まれて初めてのこと。

 まさに未知なる敵。

 いや、敵と呼べるのかすら怪しい。

 それは喩えるなら、無邪気な笑顔を振りまきながら敵国兵の鎧を脱がしにかかる少女と対峙すること等しかった。


 このまま彼女を信じていいの?

 警戒して突き放すべきではなくて?

 今までの方々のように、わたくしを利用しようとしているだけでは?


「『己の弱きを見せるべからず』……」

「……え?」

「わたくしの家に古くから伝わる教訓です。みだりに他人に弱みを晒してはいけないという意味ですわ」


 想定外の状況に追い込まれたとき、どんな生き物でも大抵の場合『守り』に入る。

 それはヤドカリが殻にこもるように。

 ダンゴムシが身を丸めるように。

 彼女もまた、剣家が代々守り守られてきたその“言葉”を盾に、己が身の守りを固めた。


「そんなのおかしいよっ!」

「おかしい?」

「そうだよ! だって、誰だって弱いところとかダメなところくらいあるもん! そんなのしょうがないことじゃん!」

「弱点を晒せば付け入られるのが世の常……そんなものを晒して得られるものなんてございませんのよ?」

「あたしはっ! 剣さんのダメなところとか全部ひっくるめて好きになりたいのっ! 仲良くなりたいのっ!」

「……! 世の中はそんなに単純じゃありませんっ! 人の驕りを戒めることで剣の家は戦国の乱世から現代まで生き延びてきましたっ! それが―――」

「いい加減あたしと向き合ってよっ!! あたしを見ろ亞璃紗ぁ!!!」

「なっ……!」


 莉子の反論は、理屈や道理など気にも留めていない代物だった。

 ただ自分の気持ちを、心の奥底から湧き上がってくる激情を、無理やり言葉にしただけの荒削りな叫び。

 しかしそれは、亞璃紗の心を揺さぶった。

 目の前にいる無鉄砲な少女の気持ちを試してみたくなるほどに。


「ふふっ……まったく、どこまで猪突猛進なんですか? いいでしょう……そこまで言われてはわたくしも収まりがつきません」


 亞璃紗は呟くと静かに人差し指を立て、異能の者にしか見えない火を灯す。

 それは精神異能者サイコパス達の間では敵意と拒絶の象徴・点火イグニッション

 闘争本能を燃え上がらせ、己の心にある“ブレイド”をイメージする。

 触れようとするものすべてを斬り伏せる冷徹の刃。

 その色は気高き白銀。

 彼女の手中に顕現した精神武装ミリタリア・ブレイド。

 それを静かに携え、正眼の構えをとって莉子に向ける。


「なっ……精神武装ミリタリアっ!?」

「くすくすっ、そういえばわたくしの精神武装ミリタリアを見せるのは初めてですわね?」

「それが剣さんの答えなの……?」

「早合点なさらないでくださいます? これは貴方が知りたいとおっしゃっていた、わたくしの心の一部ですのよ……?」

「それが……剣さんの一部……」

「どうしたのですか? そんなところにいてはお話も出来ませんわよ? もっと近くにいらして……そしたらわたくしのすべてを、教えて差し上げますわよ?」


 ふたりの間にある距離は、およそ10メートル。

 会話をするには遠すぎる距離。

 だが、彼女の言葉には大きなパラドックスがあった。

 亞璃紗は『こちらへ来い』などと言っておきながら、凄まじいまでの殺気を放って精神武装ミリタリアを構えている。

 殺意むき出しで凶器をぎらつかせている人間の間合いへ飛び込む愚者が、果たしているだろうか。


「ふふふっ……来られるわけないですよね? 所詮貴方もその程度の覚悟で―――」

「そっちに行くね」

「え……?」 


 いや、いる。

 今、亞璃紗の目の前にいる少女がそれである。

 サウナの熱気にあてられて汗を流しながら、莉子は僅かに微笑んで歩き出す。  

 まるで臆した様子なく歩み寄ってくる少女の姿に、亞璃紗は内心動揺しまくりだった。


 精神異能者サイコパスとしての実力でいえば、莉子と亞璃紗の間には素手と重機関銃ほどの差がある。

 さすがの莉子でも尻込みすると亞璃紗は踏んでいた。

 しかし、丸腰の少女は進軍をやめる気配がない。

 これは亞璃紗にとって想定外、莉子は想定外の愚か者だった。

 だがこのままではまずい。

 このまま莉子がこちらに向かってくれば、亞璃紗は究極の二択を迫られることになってしまう。

 近寄ってくる莉子を完膚なきまでに拒絶するか、彼女にすべてを打ち明けて“行き着くところ”まで行ってしまうか。


 この“行き着くところ”とは何なのか。

 亞璃紗はその“ありえない光景”を一瞬だけ想像し、顔を紅潮させた。


『己の弱きを見せるべからず』


 剣の家で代々守られてきたこの絶対的な家訓。

 実はこの家訓には続きがある。

 その口上は、致命的にして決定的な一言で締めくくられている。




 そして、続きの言葉とは―――




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