70話 たたかいおわって
「逃げられた、か」
俺はシメオンとエヴァンジェリンが消えていった中空を見上げながら、俺はそういった。
俺には、悔しさ半分、安心半分といった感はある。
こちらはタロが健在だから、まともに戦えば負けることはないだろう。
けれども、シメオンにはなにをやってくるかわからない不気味さはある。よくもわるくもまっすぐな性格なタロにとっては、相性が悪い相手だといえる。
ともあれ、いってしまったシメオンのことにこれ以上こだわっても仕方がない。
これ以降は、ギルドの対応におまかせすべきだ。
俺はそう思って、もうひとつの懸案に目をやった。
喪心が切れたか、地に伏して、舌を出してはあはあと荒れた息を吐いているガルムのこと、ではない。
そこから少し離れ、大きく傷ついた身体を柱へと寄りかからせている男。
勇者アドルフがそこにいた。
彼は開いたであろう傷口を押さえながら、こちらとめをあわさないようにかそっぽをむいている。
叶うならば俺たちの前からさっさとおさらばしたいのだろうが、おそらくはその気力もないのだろう。
俺が近くに歩み寄ると、観念したようにこちらを向いた。
「ロッカか」
「アドルフ、大丈夫?」
「当然だ。貴様につけられた傷程度・・・・・・」
「あ、そっちはごめん。それもそうなんだけど、なにか操られていたみたいだから」
アドルフはそれを聞いて、あきらかにむっとしたような雰囲気だ。
少したって、彼はふたたび口を開いた。
「礼は言わない。その必要もな・・・・・・」
「なーに、スカしているのよアドルフ」
ゴ、と
アドルフの頭から、鈍い音がした。
リンネがいつのまにかアドルフのうしろに立って、木の杖で彼を小突いたようだ。
リンネは顔をしかめるアドルフの横にかがみ込んで傷を確認すると、回復魔法を発動させた。
「怪我人になんてマネを・・・・・・」
アドルフはいいつ、治療自体はすなおに受けた。
「すまん」
「だから、私より先に言う相手がいるでしょうが」
彼は俺を見、そうして目を伏せる。処置なしというようにリンネが嘆息するのを、俺は苦笑しながらそこを離れた。
めざすもふもふにたどり着いて、俺はしばしそれを堪能した。
タロの方も今回はさすがに疲れたようで、少し眠そうな目を近づけて、俺のおなかを顔を埋めるかのようにつついてくる。
その頭をくしゃくしゃにしながら、俺はあらためてタロの凄さを思った。
あれほどの相手と戦っておきながら、今のタロはみごとなほどにもふもふだ。
多少は負わされただろう傷たちもたちまちの内に塞がって、いまは見る影もない。
そのタロの相手をしたガルムが、クルルと小さくうめき声を挙げた。
俺はガルムに近寄って、様子を見る。
タロによってつけられた傷はいまだ大きいものの、もう命に支障があるという段階は脱しているようだ。
気になるのは、回復がとまっていることくらいか。
自己修復、という点ではタロに劣らないようにみえたのだけれど。
俺はあらためてガルムと向かい合う。
血の文様を描き治し、そうして、いまいちどテイムをこころみるつもりだった。
さきほどと同じ手順をふみ、手を高くかかげる。
文様は鈍く光を発し、そうして唐突に光は消えた。
「失敗?なんでだろ」
いつものテイム、そして先ほどガルムとの間でもあったように、テイム相手とパスがつながるような心持ちが、いつまで経ってもおこらなかった。
ガルムは、とみれば相変わらずクル、と声を出しながら、俺ではない、どこかを見ているようだった。
「アドルフ?」
その視線の先にいるのは、確かに彼だった。
俺の声をききつけたのか、アドルフが立ち上がる。そうしてふらふらしながらこちらに来た。
リンネが手を貸そうとしたのを払いのけたのは、彼の最後の矜持だったのかも。
傷は塞がったようだが、アドルフは顔面蒼白だ。いままで汚れていた顔を治療の時に拭ったらしく、それはますますはっきりと見て取れた。
「邪神、ガルムか?これが」
しばらく喪心していたらしいアドルフが、ガルムと向かい合うのはこれがはじめてなのだろうか。
彼が近寄ると、ガルムは伏していた顔を上げてハッハッと少し興奮したように息をならした。
「なんだこいつ。そういうんだ?」
どうやら、アドルフにはわからないらしい。
けれども、俺にはなんとなく感じ取れた。
それははじめてあったころ、タロが俺に向けていた不器用な親愛の表現に似ているところがあったのだ。
「まともなアドルフにあえて、うれしいってさ」
彼は困ったような、驚いたような、嫌がるような、うれしいような、それらすべてが混ざり合った複雑な表情を浮かべて、ガルムの前へと歩いて行く。
アドルフはそうしておずおずと右手を差し出した。ガルムがその手をぺろりと嘗める。
彼は何かに気がついたように懐に手をやると、そこからなにかを取り出した。
乾いて見える赤黒い塊。
アドルフがそれを差し出すと、ガルムが大きな口を小さく開けて、それを食んだ。
携行食。それも肉かなにかかな。
「いいの?ロッカ」
ひとりと一匹がなにものかを育んでいるところを微笑ましくみていると、リンネが声をかけてくる。
俺はすっかり光の消えた手の甲に目をやった。
邪神をテイムする、というのはなかなかに刺激的なことではあるけれど、それよりもガルムが幸せならそれでいいじゃないか、という気分が勝る。
なにより、俺にはタロがいる。それで充分だろという思いもあった。
「おさまるべきものがおさまるべきところへ、って感じじゃない?」
リンネは一度大きく息を吐いて、そうして笑った。
「もったいない気はするけどね。まあ、そのほうがロッカらしいか」
アドルフが慣れない手つきでガルムの顔を撫でている。あとでいいやりかたを教えてあげよう、と俺は思った。




