番外編35 ギャップという名の衝撃 後編
―マーク視点―
朝からずっと、殿下は冷静だった。
いや、むしろ「静かなる嵐」とでも言うべきか。
「この資料、誤差範囲が過去三年分と合致しません。なぜ修正せず提出したのですか?」
「ひ、ひぃっ……も、申し訳ありません……!」
「では、今すぐ再計算を」
うん。これな。
声のトーンは変わらないのに、背筋が冷えるやつ。
「氷の王子、再臨」とでもメモしておこうか。
このピリついた空気の中で、誰一人息を呑むことすら許されない数時間。
秘書官たちは全員ノールック書類仕分けを始め、若い部下は“気配を消す”という高等スキルを発動。俺は俺で、後方で気配察知と胃薬準備を担当していた。
そんなときだった。
「マークさんっ……」
「……エステル様!?」
思わず声が裏返った。
よりによってこのタイミングで、殿下の“癒しの本丸”ご登場!?
「ご、ごめんなさい。あの、こっそり……差し入れを……」
「ちょ、ちょっとお待ちを。今は……タイミングが……」
(パイだ。パイがある……しかも焼き立て……!殿下の好物、りんごとさつまいも。これは致死レベルの癒しアイテム)
エステル様はそっと扉の外から耳をすませ、真剣な表情に。
「……すごい……これが、シリウス様の、政務中の姿……」
「ええ、殿下が本気を出すとああなるんです」
「でも……美しい……」
「でしょう……?」
(……なんか不穏な“ときめき”が漂ってる気がするぞ)
サラとミシェルは既に妄想モードへ突入。
「ギャップがすごいです!この空気感!ヒロインが“惹かれてはいけない人”に惹かれてしまうパターンですよこれは!」
「殿下の背後から抱きついて“戻ってきてください、優しいあなたに”って囁くとこですかね」
「最高……!!」
「だからメモ帳しまえミシェル!」
――そして、事件は起きた。
「……わ、わわっ!エステル様、す、すみませ……!」
バランスを崩したサラが、パイを包んだまま、スローモーションで前のめりに……!
「落ちるッ……!!」
俺の騎士魂が叫んだ。
「そこだァァ!!」
ずざっ!
全力で身を滑らせ、空中でパイを受け止めた!
ふわっと香るバターの香りと、勝利のガッツポーズ。
「……危なかった……」
「マ、マークさん!?すごいです!ナイスキャッチ!」
「やるな、マーク」
「流石ですね」
「ここが今日のクライマックスかと」
(※まだです)
──そして、騒動で発された音は、静まり返った執務室に……届いた。
バタン、と扉が開き。
出てきたのは、殿下だった。
冷徹な空気を纏い、完璧な姿勢で、厳格な視線をこちらへ――
と思いきや。
「……エステル様?」
あ。
あれ。
今……氷、溶けた?
顔が、ふわっと和らぐ。
背筋が、すっと自然に。
なにより、瞳が――とろんと甘い色に。
さっきまでの「氷の王子」モードはどこへやら。
空気、完全にメープルシロップ並みのとろとろに変わった。
「お越しくださっていたのですね。嬉しいです。ご機嫌いかがですか?」
「シリウス様、あの……お疲れ様です。本当は差し入れを持ってきたのですが……空気があまりにも……」
「いえ、貴女の訪問は、私にとって最高の癒しです」
すごい。
さっきまで「再計算を」って言ってた人が、今や「癒しです」って。
空気の変化速度が新記録。雷速。
「そ、それで……サラたちと作ったパイ、まだ温かいんです。もし、ご迷惑でなければ……」
「もちろん、いただきます。……執務中ですが、数分のお茶の時間くらいは問題ありません。皆で休憩しましょう」
「えっ!?」
「えっ!?!?」
「ま、まじで!?!?」
――と、秘書官たちと部下が同時にフリーズ。
「マーク。中へどうぞ」
「かしこまりました。パイ、無事です」
(……魂を懸けて守った甲斐があった)
———
そして現在。
殿下の執務室では、
・パイを切り分ける殿下
・それを嬉しそうに受け取るエステル様
・コーヒーと紅茶を慌てて用意する秘書官たち
・失敗した部下に「よかったですね〜」と声を掛けるサラ
という、謎のほっこり空間が広がっている。
なお、サラは相変わらずだ。
「ギャップ!ギャップありがとうございます!!新しい尊みを摂取しました!!!これであと一ヶ月は働けます!!!」
(いや、働いてくれよ?)
こうして、今日も王宮は平和――というか、甘かった。
俺は紅茶を啜りながら、ふと日報に書き加える。
「本日、差し入れ一つで政務室の気温が15度上昇」
以上、現場よりマークがお届けしました。
ちゃんちゃん。




