番外編34 ギャップという名の衝撃 前編
―エステル視点―
今日も、私の夫――シリウス・アストラ殿下は、完璧だった。
姿勢は常に正しく、言葉は丁寧で、動きの一つ一つが優雅そのもの。
朝、私が寝癖を直しているあいだに、すでに衣装を整え、軽やかに紅茶を淹れてくれたり。
出発前には「本日もご無事で。無理せずにお過ごしくださいね」と微笑んでくれたり。
……いえもう、これは何かの幻ではないかと、毎朝思うほどの美しさと優しさである。
(王子って……こんなに尊くて良いのでしょうか……?)
しかし、その日の私は――
ちょっとしたいたずら心と、嫁心に満ちていた。
「エステル様!焼けましたよ!最高の黄金色です!!」
「わーっ!サラ、焼き加減完璧ですね!」
「ミシェルがさつまいもの甘さ調整してくれたんですよ。これは絶対殿下のお気に召します!」
「当然です。殿下の好みは、すでに完璧に把握しておりますから」
……ということで。
今日は、私も混じって一緒に作った、殿下の大好物“りんごとさつまいものパイ”を、シリウス殿下の執務室にこっそり差し入れしに行くことに。
私がこっそり、ですよ?
少しだけドキドキしながら歩く廊下は、思いのほか新鮮だった。
(……普段は迎えてもらうばかりだものね)
そして――
執務室の扉の前に着いたその瞬間。
私は思わず、足を止めた。
「……現在の予算配分では、供給量の変動に対応できない可能性があります。見積もりの再提出をお願いします」
「は、はいっ……!」
「また、先ほどの報告書。表記の整合性が取れていません。提出前に確認しましたか?」
「……申し訳ありません……!」
……空気が。
ちがう。
執務室の中から聞こえてくるのは、凛として張り詰めた声。
あれは、間違いなくシリウス様の声なのに――
いつもの優しくて穏やかな響きではなく、どこか冷たくて鋭い。
けれど、決して怒鳴っているわけではない。
言葉は丁寧なまま。落ち着いた口調のまま。けれど、容赦なく的確に指摘している。
(……す、すごい)
執務室の前で見張りをしていたマークが、ちらりと私たちを見て、小さく肩をすくめた。
「申し訳ありません、エステル様。ただいま少々、重要な局面でして……」
「えっ、あ、あの……あの空気、いつも……?」
「いえ、あんなピリピリは……年に何度か、ですね。だいたい誰かがやらかしたときです」
(……そ、それは大変なときに来てしまったのでは……!?)
サラがひそひそ声で、しかし妙に目を輝かせて囁く。
「エステル様……あれ、ギャップ萌えってやつですよ……!」
「ぎゃ、ギャップ……?」
「普段優しい人が、冷静に鋭く詰めてるとこ見ると……ゾクッとするアレです……!!」
「サラ、落ち着いて!?」
「無理です!だって、あんなキリッとした殿下、なかなか見られないんですから!!推しの新境地!!」
その隣でミシェルが真顔でうなずく。
「“氷の王子”と呼ばれていた頃の面影が、まだ残っていたのですね……記録します」
「ちょっとミシェル!?メモ帳出してない!?」
「記録は大事です」
私は思った。
(……確かに……これは、ギャップ……)
普段は私の手を取り、頬に口づけ、「おかえりなさいませ」と微笑む人が――
今、静かに、でも容赦なく政務を捌いている姿。
その横顔が、妙に美しく、気高く、そして……
(新鮮で、素敵……!)
胸の奥で、思わず何かがときめいた。
だけど。
だけど私、今、その人にパイ持ってきちゃったのよ!?
この空気で!? 差し入れ!? 場違いの極みでは!??
「……どうしますか、エステル様?」
「……と、とりあえず、音を立てずにそっと戻るのが良いかもしれないわ……」
「いや待ってください、そしたらこのパイの熱が失われてしまう……!」
「ミシェル!?冷静な分析いらないわ!」
「では、窓から……」
「侵入じゃない!?それ、侵入者よね!?」
そんな我々の囁きが、まさかの“悲劇”を招くとは、このとき誰も気づいていなかった。
──サラが、足を滑らせて、パイの入った包みを落とすまでは。
(後編に続く)




