番外編19 世界でいちばん幸福な新郎
——シリウス視点
式が始まる朝、私は目を早く覚ました。
差し込む光が白く、やけに眩しい。
いつも通りに目を覚ましたつもりだったのに、心の奥に微かなざわめきがあることに気づいた。
(……今日、私は結婚するのか)
その事実が、まだどこか現実味を帯びていない気がした。
静かに起き上がり、カーテンを開ける。
王城の庭園が広がる窓の外。晴天。空は高く澄み切っていた。
まるでこの日のために、世界が整えられていたようだ。
———
礼服の胸元に手を当てると、鼓動が静かに跳ねた。
この日が来るまで、いろんなことがあった。
いや、いろんなことが「なかった」と言った方がいいかもしれない。
私は、彼女に何も伝えなかった。
学園で、すれ違うだけの存在だった彼女——エステル・リヴィエール。
誰よりも聡明で、誰よりも冷静で、美しかった人。
彼女の瞳の色を、初めて見た日のことを覚えている。
あれは中庭。
春の風が吹いて、本のページがめくれそうになるのを、彼女がそっと押さえていた。
(どうして、こんなにも気になるのか)
当時の私は、その感情にすら名前をつけられなかった。
望んではいけない。手に入るはずもない。
だから私は、自分の想いをロケットペンダントに封じた。
──永遠に開かれない箱のように。
あの時の私は、ただ見つめることしかできなかった。
彼女の名を、心の中でそっと呼ぶことしか、できなかった。
だけど今。
今日、彼女は私の隣に立つ。
それは、かつて夢に見ることすら許されなかった奇跡だ。
(……エステル様)
あなたは今、どんな顔で準備をしているのだろう。
頬を染めているだろうか。あの、静かな微笑みを浮かべてくれているだろうか。
あなたのその手が、今日、私の手を取ってくれるのだと考えるだけで、
この胸の奥が、言葉にならない熱で満たされていく。
———
扉の向こうで、マークの声がする。
「殿下、そろそろお支度を……」
「……ああ」
一度、深く息を吐いて、私は鏡の前に立った。
誰もが言うだろう。
「第二王子としての結婚」
「王家と宰相家の縁組」
「両国の安定のため」
それらが正しいのだと、私も分かっている。
けれど——
今日この日だけは、私はただひとりの男として、ひとりの女性に心からの言葉を捧げたい。
(あなたを、誰よりも愛しています)
それだけは、今日、きちんと伝えよう。
式が終わったら、手を握って、目を見て。
今度こそ、あなたの耳に、私の声で。
(あなたは、私のすべてです)
誰にも渡さない。誰にも見せたくないほど、大切な人。
そして私は今、間違いなく——
世界でいちばん、幸福な新郎だ。




