番外編12 老賢者の手紙
——学園長視点
「やれやれ、まったく……」
陽の落ちかけた学園長室で、私はひとり溜息をついた。
年々、年を重ねたことを感じる。
書類の文字が霞む。
階段を上がれば息が切れる。
だが、心は不思議と衰えてはいなかった。
むしろ、若者たちの輝きに触れるたび、胸が躍るのだ。
──特に、今年の卒業生たちは忘れがたい。
エステル・リヴィエール嬢と、シリウス・アストラ殿下。
誰よりも静かで、誰よりも不器用で。
けれど、誰よりも純粋だったふたり。
———
私は、二人の想いに気づいていた。
教師たちには分からないかもしれない。
同級生たちにも、気づく者はおそらくいなかっただろう。
だが私は、彼らの静かな視線のやりとりを、何度も目にしてきた。
口に出されることのない感情。
自らの立場に縛られ、踏み込めない距離。
けれど、互いを「見る」ことだけは、ずっとしていた。
恋とは、いつも言葉で語られるものではない。
ときに、それは沈黙の中にある。
想いとは、声なきままに宿るものだ。
だから私は、あの二人を見て、こう決めたのだ。
「願いを叶えよう。
もし、彼らがその一歩を踏み出せるのなら——
可能な限り、それを支えてやりたい」
———
本来、模擬戦の優勝者への特典など存在しない。
あれは、私の“気まぐれ”と称した独断だった。
エステル嬢の成績一位に続き、
最後の模擬戦にあのシリウス殿下が出場したと知ったとき、私は思わず口元を緩めていた。
(……来たか)
彼が動いたのだ。
ならば、私はそれに応えねばならない。
そして、彼は言った。
「エステル・リヴィエール嬢の万年筆を、私にいただけますか」
静かで、澄んだ声だった。
そこには、欲望も、野心もなかった。
ただ一途な「願い」があった。
私は黙って箱を差し出し、彼がそれを受け取った瞬間、心の中でそっと祝福を贈った。
———
その数日後。
帰国されたジークハルト殿下宛に、私は手紙を送った。
あの兄君なら、きっと察しているだろう。
だからこそ、確証を与えてやることが、年寄りの最後の務めだった。
「殿下の弟君は、静かな恋をしておられました」
「ご本人は気づかせまいとしていたようですが、私の目は誤魔化せません」
「エステル嬢の魔法具を望んだ彼の心は、純粋でした。そして、その想いがどうか報われることを、私は心から願っております」
私の役目は、見届けることだった。
ふたりが何も語らずに別れていくのなら、
その代わりに私は、彼らの「言えなかった言葉」を、静かに背負って見送る。
———
夜の学園に、星が瞬く。
生徒たちは去り、静けさに包まれた講堂を歩く。
彼らの残した魔法具が、展示棚に並んでいる。
その中の一つ、空席になった台座を見つめる。
——エステル嬢の万年筆があったはずの場所。
——シリウス殿下のロケットペンダントがあったはずの場所。
そこだけ、静かに空っぽだった。
(……良い贈り物になったな)
誰にも知られずに交わされた、密やかな想い。
けれど、それでいい。
それが、彼ららしいのだから。
———
今も、風が吹いている。
学園の木々を揺らし、春を連れてくる風だ。
来年もまた、新しい生徒たちがここで学ぶだろう。
けれど、私は忘れない。
——かつて、ここにいたふたりの青年と少女。
言葉少なに、静かに、けれど深く想い合ったふたりの物語を。




