番外編6 意識せずにはいられない 前編
夜の回廊は静かで、石造りの床に足音が吸い込まれていく。
結婚式まで、あと1ヶ月。
もうすぐ、私は正式にシリウス様の妃となる。
それは幼い頃から決まっていた未来とは違う、自分が望んだ未来。
彼と過ごす日々は心地よく、彼の隣にいることが当たり前になっていた。
(……それなのに)
最近、彼のことを考えると 胸が苦しくなる。
指が触れた瞬間の 体温、名前を呼ばれた時の 響き、
目が合ったときの 柔らかな微笑み——。
そのすべてが、以前よりも 強く意識される ようになった。
(おかしいわ……)
以前は、彼と過ごす時間がただ穏やかであったはずなのに、
今は彼に触れたくて仕方がなくなる。
もっと、彼を知りたい。もっと、近くにいたい——。
そんなことを考えてしまう自分に戸惑いながら、私は角を曲がった。
そして——
「……っ!」
目の前にいた彼の姿に、私は 息を飲んだ。
そこにいたのは、シリウス様。
けれど——
今まで見たことのない姿だった。
上半身は裸。
濡れた金髪を無造作に拭いながら、片手にはタオルを持ち、髪を乾かしている。
普段の整った装いとは違い、彼は ラフなスラックスのみを身に着けていた。
すらりとした体つきなのに、しっかりと鍛えられた腕と胸板。
滑らかな肌を伝う水滴が、月明かりに照らされている。
無防備な 艶やかさ と、普段の 気品 が同居した姿。
その光景が 息を詰まらせるほど美しくて——。
私は 思考が停止した。
「……エステル様?」
低く優雅な声が、静寂を破る。
シリウス様が ゆっくりとこちらを振り向いた。
その瞬間、私は顔が熱くなるのを感じた。
(だめ……こんなに見てはいけない……!)
視線を逸らさなければと思うのに、
彼の引き締まった腹筋や、肩のラインから滴る水滴に 釘付けになってしまう。
「エステル様?」
彼の紫の瞳が、不思議そうに私を見つめる。
(違うの、そうじゃなくて……!)
言葉にならない。
「……」
彼の肌に伝う水滴が、静かに流れ落ちた。
その瞬間、私は 無意識に手を伸ばしてしまいそうになった。
(触れたら、どうなってしまうのだろう——)
指先が、彼の肌に触れたとき。
彼は どんな表情をするのか。
私の心臓は、痛いほどに高鳴っていた。
「……エステル様」
名前を呼ばれた瞬間、我に返る。
「な、なにも……!」
とっさに背を向ける。
けれど、耳が 赤くなっているのを自覚した。
「……」
沈黙が降りる。
しかし、次の瞬間——
「エステル様」
低く、優雅な声が すぐ近くで響いた。
「……?」
振り返るよりも早く、彼の指がそっと私の頬に触れた。
「……顔が赤いですね」
「……っ!!」
指先の温かさが、私の肌に 残る。
「……湯浴みを済ませた後だから、熱が移ったのでしょうか」
シリウス様は、いつも通りの穏やかな微笑みを浮かべている。
けれど——
(……違う)
そんな簡単な理由ではない。
これは、彼のせい。
私が彼に 触れたいと、そう思ってしまったから——。
「……」
私は 何も言えずに、その場を逃げるように駆け出した。
そして——
指先には、まだ 彼の温もりが残っていた。




