番外編3 愛しい人の香り 後編
(シリウス視点)
朝の静寂の中、ふと 微かな香り が漂った。
ウッディノートの深みのある香り。
穏やかで落ち着いた温もりを感じる、馴染みのある香り——私がいつも使っているものと同じ香り。
(……エステル様?)
振り向くと、そこにいたのは、いつもと変わらぬ優雅な佇まいのエステル様だった。
けれど、私はすぐに 違和感 を覚えた。
彼女から、私と同じ香りがしている。
瞬間、胸の奥が熱を帯びるのを感じた。
「……エステル様」
朝食の席へと向かう廊下で、私は彼女の名前を呼んだ。
「はい?」
エステル様が ゆっくりと振り返る。
髪はいつも通り美しく整えられ、落ち着いた微笑みを湛えている。
けれど、彼女の周囲に漂う 馴染み深い香り に、私は僅かに息を呑んだ。
「……」
言葉を探しているうちに、エステル様は 少し戸惑ったように瞬きをした。
「どうかされましたか?」
「……いえ」
私の問いに、エステル様は 何でもないような顔で微笑む。
けれど、その 頬がわずかに赤い ことに気づいてしまった。
(……さて、どういうことなのか)
静かに見つめると、エステル様は 目をそらした。
その仕草が、あまりにも 可愛らしく、そして愛おしい と思ってしまったのは——
私の心の中にある 独占欲 のせいだろうか。
朝食を終えた後、私は エステル様をそっと呼び止めた。
「少し、よろしいでしょうか」
「……はい?」
戸惑いながらも、エステル様は 私の言葉に従ってくれた。
場所は、王宮の 小さな庭園。
人気のない場所で、風に乗って彼女の香りがふわりと広がる。
私は そっと距離を縮めた。
「エステル様……」
「……?」
「その香り……」
私は、指先で 彼女の手を軽く取る。
「……私と同じですね」
「っ……」
エステル様の 肩がわずかに震えた。
「……気づかれましたか?」
「当然です」
穏やかに微笑むと、エステル様は ほんの少しだけ視線を落とした。
「ジークハルト様からいただいた石鹸が……シリウス様と同じもので……」
「……ええ」
「……使ってみたら、どうなるのかと思って」
そう言って、エステル様は 恥ずかしそうに唇を噛む。
(……なんと愛らしいことか)
ふっと微笑みながら、私は エステル様の頬へと手を伸ばした。
「……それで、いかがでしたか?」
「え……?」
「私と同じ香りを纏った感想を、聞かせていただけますか?」
彼女の 頬がみるみる紅潮していく。
「そ、それは……」
「……」
エステル様の言葉を待ちながら、私は そっと顔を近づけた。
「……エステル様がこの香りを纏っていると、とても……」
「……とても?」
「……甘く感じます」
「……っ」
彼女が 息を詰まらせる。
私は、そっと 彼女の髪に触れ その香りを確かめるように 指先を絡めた。
「……私は…殿下に包まれている気がして、安心しました」
「……」
彼女の 控えめな声が、ひどく甘く響いた。
(……包まれている、気がする?)
それはつまり——
「……そうですか」
「……っ、あの、あまり気にしないでください……!」
エステル様は 慌てて視線をそらそうとした。
けれど——
「いいえ、気にしますよ」
私は 彼女の顔をそっと上向かせる。
「エステル様が、私の香りを纏い、安心してくださるなら……」
彼女の 耳元に、そっと囁く。
「——それは、私にとっても、嬉しいことです」
「……!」
エステル様が 息を詰まらせる。
(……可愛い)
この香りは、ずっと自分だけのものだと思っていた。
けれど、彼女が纏うことで、こんなにも甘く、こんなにも愛おしく感じる とは——。
「エステル様」
「……はい」
「これからも……時々、私の香りを纏ってくれますか?」
「……!」
私の言葉に、エステル様は 驚いたように瞳を見開いた。
そして——
「……はい」
静かに微笑んで、囁くように答えた。
私は、その答えに 深い満足を覚えながら、
そっと エステル様の額に唇を落とした。
——甘く、静かな、二人だけの時間が、ゆっくりと流れていく。
私の香りを纏った、愛しい人を抱きしめながら。




