第四十一話 兄と弟
(シリウス視点)
「……兄上が本気で、イザベル摂政王妃を娶ろうとしている」
そう確信した瞬間、私は 深い嘆息をつかずにはいられなかった。
王宮はすでに騒然としている。
王位継承問題が浮上し、各貴族や官僚たちは対応に追われ、国王陛下は未だ疲れ果てた表情を浮かべている。
当然だ。
第一王子である兄上が、突然 「愛する人ができた」と宣言し、その相手が他国の摂政王妃であると告げた のだから。
王宮が混乱するのは 至極当然の成り行きだった。
それでも。
私は、兄上の真剣な表情を思い返し、また静かに息を吐いた。
「……やれやれ」
(結局、兄上はどこまでも自由な人なのだな)
執務室の窓辺に立ち、私は 庭園にいる兄上とエステル様の姿を見下ろしていた。
兄上は何かを語っている。
それを、エステル様は静かに聞いている。
兄上が、あのような穏やかな表情をすることは 滅多にない。
いや、むしろ—— 誰かと真正面から自分の考えを話すこと自体が珍しい のではないだろうか。
私は 椅子に座り直し、書類の束に目を落とした。
この数日、王宮の空気は 目に見えて変わっていた。
兄上の発言を受けて、王宮の重臣たちは対策を協議しているが……明確な結論は出ていない。
「王太子が摂政王妃を娶るというのは前例がない」
「ジークハルト殿下が婿入りされる場合、王位継承権はどうなるのか?」
「フェルディナント王国との関係がどう変化するか、慎重に検討しなければならない」
どれも 当然の懸念 ではあるが——
(……兄上は、どこまで計算しているのだろうか?)
その日の夜、兄上が執務室を訪ねてきた。
「よぉ、シリウス」
「……兄上、こういう時間に来るのは珍しいですね」
「お前も珍しく夜更かししてるじゃないか」
兄上は 気楽な調子で笑いながら、窓辺の椅子に腰を下ろす。
持ってきたワインのグラスを手にしながら、軽く揺らしてみせた。
「随分と忙しそうだな」
「兄上のせいで、王宮が騒がしいですからね」
「はは、すまんすまん」
まるで他人事のような口ぶりだったが、私はあえて追及しなかった。
「それで? 今日は何の御用でしょう」
「いや、別に用があるわけじゃないさ。ただ……お前と少し話したくなった」
「……?」
私は 目を細める。
兄上が こうして静かに話をしようとすることは滅多にない。
「なぁ、シリウス」
兄上は ワインを軽く飲みながら、ぽつりと呟いた。
「俺は……お前にばかり負担をかけていたな」
「……何の話ですか?」
「お前はいつも俺の尻拭いをしてきた」
「兄上」
私は 淡々とした口調で言う。
「私は兄上の尻拭いをしているつもりはありません」
「そうか?」
「ええ。私はただ……私のやるべきことをやっているだけです」
兄上は 目を細めて、グラスをくるりと回した。
「……お前は、ずっとそういう奴だったな」
「俺はな、シリウス」
兄上はふと 遠くを見るような視線 で続けた。
「昔から、自分の好きなように生きてきたつもりだった。外交に出たのも、戦略的な意味もあったが、結局は自由がほしかったんだ」
「……」
「でもな、最近ふと思うんだ。
——本当に俺は、自由だったのか?」
私は 僅かに眉を寄せた。
「兄上は、自由ではなかったと?」
「そうかもしれないな」
兄上は軽く笑う。
「俺は、王族という立場に縛られないように生きてきたつもりだったが……結局、王族であることからは逃れられないんだよな」
「……」
「だからこそ、イザベルを見た時に思ったんだ。
——この人は、俺以上に自由を知らない」
その言葉には、確かな重み があった。
「お前はどう思う、シリウス」
「……何についてでしょうか」
「俺が、イザベルを娶ること」
兄上は 真剣な目 で私を見る。
その眼差しには、迷いはなかった。
「……兄上が本気ならば、私は何も言いません」
「お前、昨日も同じこと言ったな」
「兄上が何度も問うからです」
私は 淡々とした口調で答える。
「ただ……私が気にしているのは、兄上の行動が王国に与える影響だけです」
「それは、俺も考えてるさ」
「……兄上がそう仰るなら、私は信じましょう」
兄上は ふっと笑った。
「お前はやっぱり、俺の自慢の弟だよ」
「お褒めいただき光栄です」
私は 肩をすくめる。
「ただし」
「ん?」
「兄上が道を誤った時は、私は容赦なく止めます」
「……頼もしいな」
兄上は どこか嬉しそうに 笑い、ワインを飲み干した。
「まぁ、俺も無茶はしないさ」
「本当でしょうか?」
「……それはどうかな」
「……」
私は 再びため息をついた。
(やはり、この兄を見守るのは骨が折れる)
だが。
それでも 兄上は、俺の誇るべき兄なのだ。
私は 静かに兄上の横顔を見つめた。




