第二章 陰なる太刀➂
二日後の朝。
まだ人通りが少ない七時頃。
木造の駅舎の傍らで一人の人物が立っていた。
白い下襟に灰色の胴着。同色の紳士服を着た青年だ。
手には大きな茶色の鞄。頭には、灰色の帽子も被っている。
私服姿の久遠真刃である。
「…………」
真刃は何かを喋ることもなく、静かに人を待っていた。
と、その時。
――ボボボ……。
突如、宙空に鬼火が現れた。
それは徐々に形を変化させて、数秒後には骨の翼を持つ猿の姿になった。
宙に浮かぶ猿。
異様な光景だが、それを気にする通行人はいない。
猿が霊体ゆえに、只人には見えないからだ。
真刃は、ポツリと呟く。
「どうした? 猿忌よ」
『……いやなに。主よ』
駅舎周辺を見渡して、猿が人語で応える。
『いささか遅くはないか?』
「……ふむ。そうだな」
真刃が、骨翼の猿――猿忌を一瞥した。
次いで、懐中時計を胴着の内から取り出す。
「七時半を過ぎているな。あいつにしては珍しい」
本日のこの時刻。
真刃たちは、列車で目的の街へと出立する予定だった。
しかし、約束の時刻になっても、相棒である男がまだ来ない。
約束事には重きを置くあの男らしからぬ状況だった。
いつもなら、約束の三十分前には、待ち合わせ場所で待っているというのに。
「何か問題でも発生したのか?」
真刃が、少し案ずるような声で呟いた。
その様子を見やり、猿忌は『……ふむ』とあごに手をやった。
『主が他者を心配するとはな』
「……己とて、同僚の心配ぐらいはするぞ」
しかめっ面で真刃はそう語るが、猿忌は肩を竦めた。
口ではそう言うが、猿忌の主が同僚を心配するのは、かなり稀なことだ。
そもそも真刃は、他者を無視することが多い。
真刃を恐れるあまり、相手側も真刃を避けることが多かった。
例外は従兄弟であり、上官でもある丈一郎と、やけに好意的な総隊長。
そして、いま到着を待つ御影刀一郎だけだった。
『……ゆえに、あのような噂が立ったのだろうな』
猿忌は、苦々しく口角を崩した。
「……? 何の話だ?」
一方、真刃は眉根を寄せる。猿忌は『何でもない』と答えた。
――御影刀一郎は、久遠真刃の情夫である。
その噂は、実のところ、真刃だけが知らなかった。
流石に、真刃本人に告げることは、周りが恐れたからだ。
些細な噂話を揶揄することも憚られる。
それほどまでに久遠真刃とは、周囲と隔絶した存在なのである。
真刃の幼少時から、ずっと仕えてきた猿忌としては、悩みの種でもあった。
いかに最強であっても主の心は人間だ。化け物などではない。
だからこそ、もう少し社交性を持って欲しいと思っているのだが、こればかりは主の生い立ちにも由来する。すぐに改善できる話でもなかった。
『ともあれ、二週間の任務。紫子には心配をかけるな』
「……ああ、そうだな」
真刃は、双眸を細めた。
「今回は長期任務だ。紫子もそうだが、杠葉も、いつになく心配していたな」
『……………』
真刃の呟きに、猿忌は沈黙した。
それは前々日のことだった。
「お帰りなさい。真刃さん」
「ああ。いま帰った」
自分の屋敷にて恭しく出迎えてくれたのは、丈一郎の妹である少女だった。
歳は十七になる。優し気な顔立ちに、肩に届かない程度に伸ばした黒髪が印象的な少女。
紫色の着物がよく似合う美しい娘である。
――大門紫子。
真刃にとっては唯一の隷者でもある。彼女とは、すでに一緒に暮らしていた。
「話がある。紫子」
和装に着替え直した真刃は、早速、明後日からの任務について話した。
任務の内容こそ秘匿のために教えることは出来なかったが、長期任務でしばらく家を空けると告げた時、紫子は少し寂しそうな顔をした。
ただ、それでも「どうかお気をつけて」と言ってくれたのだが、御影刀一郎も同行すると教えた途端、紫子は顔色を変えた。そして少し上擦った声で、
「あ、あの、大丈夫ですよね?」
紫子は、真刃の袖を掴んだ。
「その、真刃さんには、その気はないですよね?」
「……いや。何の話だ?」
真刃は、首を傾げるだけだった。
次の日。
今度は、真刃の屋敷に、恋人である少女が訪れた。
――火緋神杠葉。
年齢は紫子より半年ほど上。腰まで伸ばした長い黒髪が美しい緋袴姿の少女だ。
彼女にも長期任務の話をした。御影刀一郎も同行することもだ。
すると、杠葉も怪訝な表情を浮かべた。
「……えっと、真刃って、その気はないのよね?」
「……? だから何の話だ?」
やはり、真刃は眉をしかめるだけだった。
杠葉は「ちょっと紫子」と言って、紫子を手招きした。
「えっと、紫子。これって大丈夫よね?」
「……多分、大丈夫だとは思いますけど……」
ひそひそと少女たちが話し合う。
「けど、私は一度ぐらいしか会ったことがないけど、真刃の同僚の御影さんって、あの女の人みたいに綺麗な人のことよね?」
「は、はい。初めて会った時は気付きませんでしたけど、よく見ると、髪とか肌とか凄くきめ細かくて、眉なんかも凄く細い人です」
「あの人嫌いで偏屈な真刃が、あの人とだけは仲が良いのよね?」
「はい。普段の会話にもよく出てきます。真刃さんは、その、ひねくれてるから素直には褒めませんけど、凄く信頼しているのは分かります」
しばしの沈黙。
「……大丈夫、よね?」
「だ、大丈夫ですよね?」
互いの顔を見合わせて、二人の少女は、表情を強張らせていた。
二人とも、群を抜いた美貌を持つ少女である。
そして隷者と恋人という違いはあるが、二人とも真刃を愛し、愛されていた。
死と常に隣り合わせなのが引導師の世界だ。
多くの子を残すためにも、正妻や隷者など、数人の伴侶を持つことは一般的な話だった。名家の当主ならば、三人から四人の伴侶は、当然とも言える。
それだけに、紫子にしても、杠葉にしても、三人目を忌避している訳ではなかった。
ただ、流石に、三人目が『男』というのは……。
「……真刃。お願いだから血迷わないでね」
「……些細な仕草とかに魅入ってはダメですからね」
随分と悩んだ後、二人はそう告げてきた。
真刃としては、最後まで首を傾げるだけだった。
その場面にずっと立ち会っていた猿忌は、ただただ溜息をついた。
紫子たちの心配も分からないこともない。
なにせ、例の噂が立つほどに、御影刀一郎の美貌は目を瞠るものなのだ。
下手をすれば、紫子や杠葉にも届くほどである。
それに、真刃が刀一郎に気を掛けているのも、まごうことなき事実なのである。
(まあ、あやつは、主の人を遠ざける悪癖を直すにはよい相手ではあるがな)
と、猿忌が考えていたその時。
「……本当に遅いな」
真刃が、再び懐中時計に目をやった。
すると、
「……待たせたな」
不意に、そんな声を掛けられた。
御影刀一郎の声だ。真刃は視線を前に向けた。
しかし、どうしてか周囲に御影の姿はない。
「……声が聞こえたような気がしたが」
気のせいだろうか?
真刃が、再び懐中時計に目をやろうとすると、
「おい。久遠。何故無視をする」
脛を蹴られた。
軽い蹴りだ。真刃にとっては痛みもないが、流石に相手は気になった。
再び前を見やる。と、そこには一人の女性がいた。
二十代前半のようだが、背の低い少女のような女性だ。髪は肩まであり、まるで絹糸のように美しい。色は魅入るような烏の濡羽色。唇はふっくらとした質感を持つ桜色だ。
身に纏う衣類も桜色。花弁の刺繍がされた着物である。
右手には、浅葱色の巾着袋を持っていた。
本当に、綺麗な女性だった。
駅舎に入る利用者が、思わずその場で足を止めてしまうほどに。
ただ、真刃は、別の意味で硬直していた。
猿忌も同様だ。
主従揃って、しばしこの状況に沈黙する。
そして、
「――ぶふっ!」
あの真刃が。
不愛想の化身のような真刃が、口元を片手で抑えて噴き出したのだ。
それから視線を逸らし、肩を震わせて笑いを堪えている。
猿忌も、片手で口を覆って笑いをかみ殺していた。
「笑うなぁあああッ!」
女性が絶叫する。
それは、間違いなく御影刀一郎の声だった。
――そう。そこには、桜色の着物を纏う御影刀一郎がいたのである。
女性の正体。それこそが刀一郎だったのである。
弟が大絶賛した着物姿。
百人いれば、百人とも魅入る艶姿。
それを、真刃にもお披露目したのである。
ただし、
「なんで自分がこんな目に遭うのだ!」
現在、彼女は、この上なく涙目ではあったが。
◆
――同時刻。
「……さて」
第三分隊長室の執務席で、大門丈一郎が懐中時計に目をやった。
時刻は、すでに八時を過ぎている。
「そろそろ二人は出立した頃かな?」
部下たちは今日、件の街へと出立予定だった。
丈一郎としては見送りたかったが、他にも任務があるため仕方がない。
「けど、我ながらよい発案だったな」
丈一郎は、満足げにあごを擦った。
――昨日、御影邸に送った品。
あれは偽装としては、まさに盲点を突くものと言えよう。
「よもや、あれを纏った御影君を男性と思う者はいないだろう」
まさに完璧な偽装だ。
「土壇場で思いついたのは天啓だな。とはいえ」
丈一郎は、表情を真剣なものに改めて天井を仰いだ。
「……未来視、か」
双眸を細める。
丈一郎の系譜術の名は《断眩視》。
無限の可能性。陽炎のごとくその未来の断片を垣間見る術式だ。
しかし、その莫大な情報をいつまでも記憶していては、脳が壊れてしまう。
ゆえに、脳を自衛するため、未来の記憶は数十秒と持たずに消えてしまうのである。
それは、この術式の一部だった。
その消えてしまう記憶を、丈一郎は必死に書き残した。
そうして記憶を失う前に残したのが、
――特級案件。
――夜桜の乙女。
――無数の剣戟。
これら、三つの文章だった。
壮絶な何かを見たはずなのに、もう何も思い出せない。
「……何とも不便な力だ」
あまりにも、使い勝手が悪い術式だった。
未来視であるというのに、これでは未来に危機が迫っていても何の対策も打てない。
「やはり改善はしたいところだが、これが私の今の精一杯か」
天井を見上げたまま、指を強く組む丈一郎。
これ以上の補佐は、もう出来ない。
「困難な任務になるだろうな」
丈一郎は呟く。
自分に出来ることといえば、もう案ずることしかない。
「せめて無事を祈るよ。充分に気をつけてくれ。真刃。御影君」




