第八章 太陽を掌に⑤
――ぞわり、と。
その瞬間、男たちは揃って硬直した。
突如、現れた乱入者。
その傍らには、一頭の黒い巨大な熊がいる。
鋼の巨躯を持つ熊だった。恐らくは式神だ。
二本の足で立ち上がり、泰然と、こちらを睨みつけている。
凄まじいほどの威圧感だった。
だが、それ以上に、男たちは乱入者自身に見入っていた。
誰もが顔を強張らせている。中には大量の汗をかいている者もいた。
そんな中で、
「………………」
王だけは、静かな眼差しで乱入者を見据えていた……。
一方、その傍らで。
「おじさん! おじさん! おじさんっ!」
きゅうう、と。
燦の小さな胸は、強く締め付けられた。
ずっと探していた人と、やっと巡り会えたのだ。
もう抱っこして欲しくて仕方がなかった。
彼の方に両手を伸ばして、バタバタと動かした。
けれど、彼は抱っこしてくれない。
いわゆる『高い高い』の姿勢で、燦を近づけさせてくれなかった。
「おじさぁん、やあぁ。意地悪しないでェ……」
と、勝気な少女が、今にも泣きだしそうな表情を見せた。
その顔を見て、彼――真刃は嘆息する。
「……仕方がないな」
今の燦は、炎のドレスを纏っている。
そんな少女に触れれば、只では済まない。
真刃自身は問題なくとも、服が持たないだろう。
だが、この紳士服とコートには、一応、耐火の術式も施されている。
相当な熱量のようだが、少しの間ぐらいなら耐えてくれるかもしれない。
真刃が腕をゆっくりと曲げると、燦は、
「――おじさんっ!」
目一杯、真刃の首筋に抱き着いた。
自分が、炎のドレスを纏っていることも忘れている様子だ。
とりあえず、いきなり服が燃え出すこともなかったので、真刃は少し安堵した。
改めて、両腕で燦の背中を支えた。
「おじさん、おじさん、おじさぁん……」
燦は、甘い声を出して真刃にしがみついている。と、
「――燦ちゃん!」
不意に、少女の声が響いた。
燦は、ハッとして目を見開いた。
そして真刃の肩に手を置いて、声のした方に振り向いた。
すると、そこには、こちらに駆けてくる親友の姿があった。
「――月子っ!」
表情を輝かせて、親友の名を呼ぶ。
それから、再び真刃の顔を見つめて、
「――おじさんっ!」
「……何だ?」
「愛してるよ!」
「…………………は?」
思わず目を瞬かせる真刃の首筋に、もう一度だけギュウッと抱き着いてから、
「愛してるけど、今は降ろして!」
「……あ、ああ」
燦の勢いに圧されて、真刃は少女を降ろした。
そして燦は、
「――月子っ!」
真刃から離れて、月子の元へと走り出した。
「燦ちゃんっ!」
燦は炎の手袋だけを解除し、二人の少女は互いの両手を重ねた。
「良かったぁ。無事だったんだ。月子ォ」
「うん。おじさまに危ないところを助けてもらったの」
「そっかぁ」
燦は、ニカっと笑った。
「うん! 流石はあたしの旦那さまでしょう!」
「う、うん。そうだね」
月子は、少しだけ視線を逸らして頷いた。
そんな少女たちの様子を、真刃が父親のような眼差しで見ていた。
と、その時だった。
「……《未亡人》」
不意に、そんな呟きが耳に届いた。
おもむろに、真刃がそちらに目をやると、そこには隻眼の男がいた。
アタッシュケースを手錠で左手首に括りつけた奇妙な男だ。
真刃と視線が合った男――王は「……ああ」と、小さく呼気を零した。
「……ちょいと、あんたが知り合いに似てたんでナ」
そう告げる。
「……そうか」
真刃はさして気にかけず、少女たちへと視線を戻した。
(……おっかネエな)
言葉一つ交わすだけでも冷たい汗をかく。
王は、内心で肝を冷やしていた。
(……一体何なんダ? こいつは?)
改めて、戦慄を覚える。
――突如、現れた黒いコートの男。
どうやら、火緋神家の娘と知り合いらしい。
普通に考えれば、火緋神家の人間。火緋神燦の救出者だ。
だが、
(こんなバケモンを、火緋神家は飼ってんのかヨ……)
全身の緊張が、一向に解けない。
この男は、少女たちを優しい眼差しで見守りつつ、同時に王たちには、微塵に切り裂くような凶悪極まる殺意を、絶えず叩きつけてきているのだ。
魂力とは違う。純粋なる意志による圧力だ。
この男の殺意は、崩を始めとする部下たちも、肌で感じとっていた。
イレギュラーが割り込んできたこの状況。
本来ならば、即座に排除すべきだというのに、誰一人動けない。
――迂闊に動けば死ぬ。
全員が、すでにそう察しているのだ。
(……それにしたってこの殺意。まるで)
王は、片目しかない瞳を細める。
本当によく似ている。
自分の知る『最強』の人物と。
敬愛してやまない『彼女』の姿に、とてもよく似ていた。
(……それに……)
王は、少女たちの方にも目をやった。
男と共に現れた少女。あの娘は鞭が確保していたはずだ。
その娘が、無傷でこの場にいるということは……。
(………鞭)
すでに、あいつも殺られたということになる。
悪癖の多い鞭だが、相当の実力者だ。それを無傷で倒したということである。
(クソ。とにかく、こいつとは戦うべきじゃネエ。だが、どうすりゃいい……)
王は思考する。
ここでの最善手は何なのか。
それを模索する。と、
「……王」
おもむろに、崩が口を開いた。
「ここは撤退すべきだ」
小声で、そう告げてくる。
王は横目で崩を見やり、眉をひそめた。
「そいつは分かっているヨ。だが、どうやって……」
「俺が殿を務める」
崩はそう言った。
それから強張る腕をどうにか動かして、自分のポケットに手を入れた。
取り出したモノは、普段の青とは違う赤い液体の入った無痛注射器だった。
「幸い、鞭から切り札も預かっている。これを使えばこの場もどうにか出来る」
「……崩?」
王は、崩の持つ赤い無痛注射器に目をやった。
「なんだそいつは? 俺は聞いてねえゾ」
「俺が用意させたものだ。まさかこんな所で使うことになるとは思わなかったがな」
一拍おいて。
「王よ」
崩は、真剣な眼差しで王を見据えた。
「恐らくこれが今生の別れになる。だから言っておくぞ」
崩は、拳を強く固めた。
「お前は『王』だ。俺たちの『王』なんだ。だからこそ目を覚ましてくれ」
「……なに?」王は眉をひそめた。「どういう意味ダ?」
「力こそすべて。そう生きてきたお前が『あの女』に心酔するのも分かる。だが、思いだしてくれ。お前は『王』なんだ。最後にはすべてを略奪する『王』なんだよ」
崩は、双眸をグッと閉じた。
「『あの女』に平伏するのはもうやめてくれ。敗北で牙まで失うな。どうしても『あの女』に執着するのならば」
崩は一歩前に進み出た。
男からの殺意の圧力で膝が崩れそうになるが、どうにか抑え込む。
次いで、武骨な拳で王の肩を強く押す。
「『あの女』を自分の女にする。それぐらいの気概を見せてくれ」
「…………」
王は無言だった。
一方、崩は黒いコートの男――久遠真刃の前へと進んでいく。
一歩一歩が重い。
それでも崩は歩き続けた。
「……ほう」
真刃は、静かな闘志を抱く崩を一瞥した。
「……察するに、お前が殿を担うのか?」
率直にそう尋ねる。
彼我の力量差は、真刃の方でも、すでに把握していた。
月子の件もあり、今回は相当に腹に据えかねていたので、久方ぶりに『殺意』の挨拶をしてみたが、それだけで動けなくなる程度の輩だ。
たとえ、廃ホテルにいた男と同じ力で全員が挑んできても敵ではない。
――模擬象徴。
金羊からそれを聞いた時は驚いたが、所詮はあの小僧の劣化版といった印象だった。
(いや。実際に劣化版なのかもな)
ともあれ、今も再会を喜び合う少女たちを保護した以上、勝敗は決した。
後は、この輩を捕えるだけだった。
だが、当然ながら、こいつらも足掻くはずだ。
最も可能性が高いのは逃走。
そしてその場合、恐らく出てくるのが、
「ああ。俺がお前の相手をする」
崩が頷いた。
「俺たちのボスが逃げる時間を稼がせてもらおう」
「……ふむ」
真刃は目を細める。
「それは容易ではないぞ」
「分かっている。化け物め。だからこそ、この命」
そうして崩は、無痛注射器を首に当てて告げた。
「我が『王』に捧げることにしよう」




