元聖女アイリスの反乱⑫
苛立ちを隠さず窓を破らん勢いで開けた侯爵だったが、彼は窓の外を見て急に黙り込んだ。
道の先から、馬に乗って見慣れた人物が向かってきていた。
ごくりと喉を鳴らし、アイリスが掠れた声で呟く。
「あれは――ギディオン?」
まさか、なぜここにと私も額を窓にくっつけて外を確かめる。
アイリスの言う通り、道の真ん中をギディオンが単身、進んできている。
アイリスはチラリと私を見た。私とギディオンは学友だし、王宮でも親しくしていた。彼女は彼が私を助けに来たのかと、判断に迷っているのだろう。
(でも、今の彼は私が十三歳から共に過ごした彼じゃない。ギディオンは、一体何をしにきたの?)
その質問にはギディオン自身がすぐに答えた。彼は声を張り上げ、馬車に向かって語りかけた。
「侯爵殿、聞いてください。まもなく王都から地方に伸びる道が全て封鎖されます。事態に気づいた国王陛下が、全王宮魔術師を召集し、総力を上げて王都から聖女を出すまいとしているのです」
「くそっ、予想より動きが早いな」と侯爵が舌打ちをする。
アイリスが窓の外を見ながら、声を張る。
「ギディオン、貴方は何をしにここに来たの?」
「君を助けに、アイリス」
ギディオンは馬車のすぐ隣まで来ていた。
碧色の瞳はひたとアイリスに向けられ、彼は窓に触れているアイリスの手と窓越しに触れ合うように、片手を差し伸べて窓に触れた。
金色の髪は風に煽られたのかボサボサに乱れ、ランカスターの屋敷にいたところを急いで出てきたのか、外套やジャケット、手袋は色もめちゃくちゃで、乗馬用ブーツは片方の紐が解けている。
余程急いでここに駆けつけたのだろう。
「途中で王都警備隊の奴らと出会ったけれど、彼らを上手く言い含めて西に向かわせたよ。これでも俺は、サーベル王国との戦争の英雄だからな。疑いもせず彼らは俺の情報を信じたよ。だから、君達は東に向かったほうがいい」
アイリスは窓に当てていた手をそっとずらし、首を傾げてギディオンを疑わしげに見つめた。
「アイリス、ずっと会いに行かなかった俺を恨んでいる?」
「貴方がしょっちゅう王立病院の前まで来て、長い時間建物を見上げていたことは、知っていたわ。つまり貴方は、わたくしよりランカスター家の体裁を重んじたのでしょう?」
事実を言い当てられたのか、ギディオンは微かに震える唇を引き結んだまま、何も言えなかった。
アイリスが続ける。
「それなのに、どうして今さら来たの? レイアを守った英雄が、陛下の命令に反して逃亡中のわたくしを助けるというの?」
「そうだ。――だって当たり前だろう? 俺にとっては、国よりもアイリスが大切なのだから。子どもの頃から、いやそのずっと前から……、ただアイリスだけを思っているんだ」
ギディオンの告白に心動かされたのか、アイリスの手が窓をずり上がり、再び窓ガラスを挟んで二人の手と手が触れ合う。
「――分かったわ。貴方を信じるわ、ギディオン」
ギディオンは小さく頷き、毅然と駆け出した。
「こっちだ!」
(どういうつもりなの、ギディオン! 王宮魔術師が束になったら、ゼファーム家に勝ち目はないと、誰よりも貴方なら分かるはずなのに!)
馬車はギディオンの先導を受けて疾走を始めたが、もう私に焦りはなかった。
王都が封鎖されれば、アイリスが逃げ出す手段はかなり限られる。それに戦争から帰ってから、ギディオンは魔力を失った。彼の魔力は今や全て王太子ユリシーズのものなのだから、大した反撃はできないはずだ。
掌の中の巾着をぐっと握りしめる。生地が密着した右掌からは、魔力が吸われていく感覚がない。シンシアの巾着が、しっかりと魔力吸収石の効果を遮断している。これなら、魔術を使えそうだ。
次に馬車が止まった時、水龍を呼んで車内で暴れさせよう。
そしてその機会は思ったより早くやってきた。
十分ほど走った馬車は、また行き止まりに突き当たってしまい、停車を余儀なくされたのだ。
アイリスが困惑の声を上げる
「どういうこと、ギディ……」
「出でよ、水龍! 渦巻いて己の強靭さを皆に見せよ!」
一瞬、私の詠唱を聞いた侯爵夫妻はこちらに「気でもおかしくなったのか」と言いたげな眼差しを寄越した。だが私の掌から大量の水が噴き出し、それが大きな水龍の形を成して行くや否や、彼らは四肢を振り回して暴れた。
狭い車内で水龍が凄まじい勢いで渦を巻き、私達はものの数秒で下着までびしょ濡れになった。
「この、小娘っ! やめっ、ゴホッ、今すぐ水龍を消せっ!」
水を吸い込み、むせながら侯爵が私を睨む。
扉が外からガチャリと開けられ、振り返ると馬から下りたギディオンが立っている。彼は長い腕を車内に伸ばし、アイリスを馬車の外へと引っ張り出した。
水龍は開いた扉からその拍子に飛び出そうとしかけたが、すぐ戻ってきて侯爵に巻きつき始めた。
「待ちなさい、アイリス!」
氷の刃で足枷を切りつつ、私も転がるように車外へ飛び出す。
水滴をボタボタと垂らしながら、馬車の振動で痛くなったお尻を庇いつつ、なんとか立ち上がる。
ギディオンは自分が濡れるのも構わず、アイリスを抱きしめていた。そうして切なげに震える声を絞り出す。
「愛しているよ、アイリス。君が何者だろうと。どんな悪事に手を染めようとも、俺の前ではいつでも幼馴染の可愛いアイリスなんだ」
「ギディオン、腕が痛いわ。離して……」
抱き締める力が強いと訴えてギディオンを見上げるアイリスの唇を、彼は自分の唇で塞いだ。
アイリスに口付けをするギディオンの姿を、この時私は初めて見た気がする。
それはあらゆる場面と時間を飛び越えて思い出し、そして今後を考えてみても、やはり最初で最後になるキスに違いなかった。
二人のキスを見るのは、複雑な気分だ。
微かに胸が痛むのを感じながら「あれはかつての私のギディオンじゃないのだから」と自分に言い聞かせる。
ユリシーズとギディオンが入れ替わっていた時に、ギディオンとキスをしなくてよかったと今更ながらに思う。
アイリスは両手を突っ張って、ようやくギディオンの腕の中から逃れた。
「こんなことしてる場合じゃないのよ、ギディオン。一刻も早く王都を出たいの。私達は郊外で馬車を変えて、すぐにサーベルに行くんだから!」
だがギディオンは首を左右に振った。
「だめだ、アイリス。幸せになって欲しいけれど、国外には行くべきじゃない。聖女たる君が、戦に利用され続ける姿を見たくない」
アイリスがギディオンの発言に困惑し、何度も瞬きをする。
「どういうこと、ギディオン?」
不意に私の背後で、ゼファーム家の騎士が詠唱を始めるのが聞こえた。魔術で私を再び捕えようとしている――そう気づいた私は、奥歯を食い締め、巾着を左手で強く握った。
(国立魔術学院の次席を、舐めてもらったら困るのよ!)
王太子の近衛を勤める王宮魔術師として働いてきた意地と実力を、今こそ見せてやらねば。そう思って私は叫んだ。
「出でよ、氷の剣!」
空中の水分が剣の形となって一瞬にして凍りつき、目の前ひ氷の剣が出現する。それが未だかつて見たことないほど大きいことに自分で驚く。右手で握ってみれば、青白く耀く剣は太く長いが重さは感じさせず、にもかかわらず周囲を白く染めるほどの凄まじい冷気を放っている。
(これは、何? 火事場の馬鹿力かしら。本当に私の魔力?)
掌からは溢れんばかりの魔力が出ており、こんなに魔力を消費して大丈夫なのかと心配になるほどだ。一度に魔力を使い過ぎて上限点を超え、気を失ってしまうのではという不安が頭をよぎる。
だが剣を握りしめながら、私はこの魔力の出どころが自分ではないことに気がついた。左手で握っている巾着を通して、魔力吸収石からどんどん魔力が噴出し、私の掌に入り込んでいる。
この強大にして誠実なオーラを纏う魔力が、誰のものなのかを私は知っていた。国立魔術学院で嫌と言うほど魔術を競い合った、かつてのギディオンのものだ。
(もしかして、魔力吸収石をシンシアの巾着の布で挟んだ上から魔術を使えば、吸収石に吸わせた魔力を吸い出すことができるのかしら⁉︎)
ことの真偽は不明だが、とにかく私は今莫大な魔力を操っている。
私は確信した。以前、王宮の庭園の噴水を凍らせる魔術は失敗したが、今なら絶対に失敗しない。成功してみせる。
「ゼファーム家の馬車よ、凍りなさい!」
剣を後ろに振りかぶり、馬車に向かって勢いをつけて大きく薙ぎ払う。直後、空中をキラキラとダイヤモンドの粒が飛ぶような、圧倒的な冷気が馬車を覆った。
冷気は車内で侯爵に巻き付いていた水龍ごと馬車を凍らせ、侯爵は真っ青な顔で「ヒイイッ!」っと悲鳴を上げる。
さぞ寒いだろう。侯爵夫人はどうにか夫を助けようと氷の龍を剥がそうとしたものの、全く歯が立たず、車体が凍るという寒さに自らも耐え切れなくなったのか、夫を放置して馬車から飛び出した。
アイリスはギディオンの隣で呆然としていた。
馬車が凍っては、逃げようがない。
そこへギディオンが追い討ちをかけるような台詞を吐く。
「本当は――王都保安隊には、東を行くように助言したんだ。だからごめん、間もなく彼らはここに駆けつけるだろう」
アイリスの瞳が愕然と見開かれ、口元がワナワナと震える。
「なんですって? 王都保安隊が来る道まで、わざとわたくし達を案内したというの?」
ギディオンは辛そうに顔をひきつらせていたが、言い訳はしなかった。
「ギディオン……、貴方は幼い頃からの無二の友達だし、兄のように思っていたのに。それなのに、わたくしを裏切るなんて……」
私は車体にこびりついた血の跡を見て、置き去りにされたビクターを思い出した。彼も同じように、人に裏切られる辛さを感じていたはずだ。
もしかしたらギディオンは、執着しているアイリスに遠くへ行ってほしくないだけかもしれない。けれど彼の苦しげな顔を見ていると、そんなに単純な動機で彼が駆けつけたのではない、という気がした。
ギディオンはアイリスのように、相手のことを考えずに身勝手な動機から彼女を裏切ったのではない。
雨に降られて今と同じように濡れていた、ユリシーズとギディオンの魂が入れ替わったあの日を、思い出す。自分の命と全魔術を捧げた時戻しに賭けた希望が――アイリスと結ばれたいという願いが叶わなくなったユリシーズの中にいたギディオンの絶望する顔が、脳裏に蘇る。
アイリスに反論することなく、言われるがままのギディオンの代わりに、私は口を挟んだ。
「違うわ、アイリス。ギディオンは無二の友達だからこそ、貴女を止めたのよ。彼だけは、貴女のことを本当に大切に想ってくれているんだわ」
アイリスが私に向けた瞳は、まるで無機質なガラス玉のようだった。
「おかしなことを言わないで」と言いかけたアイリスの顔に、何かが飛んできた。
「痛っ」と小さく悲鳴をあげてアイリスがこめかみを押さえる。彼女が手を離して辺りを見回すと、今度は黒い球体のようなものが飛んできて、額にぶつかって壊れた。べチャリと音を立てて地面に落ちたそれは、泥団子のようだった。
「人殺し」と近くで声が上がる。
暗闇に紛れて気が付かなかったが、目を凝らせば私達は王都の住民達に既に囲まれていた。
遠巻きにこちらを窺っていた三十人ほどの人々が、徐々に距離を埋めてくる。皆寝間着や普段着姿だし、誰も武器など持っていない。
代わりに彼らの手に握られているのは、小石や生卵、泥団子や小枝といったようなものだ。
狼狽したアイリスが叫ぶ。
「貴方達、何をするの。わたくしは聖女よ!」
「おいみんな、元聖女のアイリス=ゼファームがここにいるぞ!」
「お前が起こした火事のせいで、どれだけの人が死んだと思っているんだ!」
カン、カンカン、と音がして、アイリスが両腕で自分の顔を庇う。距離を詰めてきた住民達が、小石を彼女に投げたのだ。彼らの怒りに満ちた険しい顔に、アイリスが怯む。
「何が聖女だ。お前は、癒すどころか人を傷つける存在じゃないか!」
「違うわ! 目を覚ましなさい、貴方達!」
「馬鹿を言うな! お前こそ目を覚ませ!」
アイリスは雨あられのように飛んでくる小石や枝を避けようもなく、その場にしゃがみ込んでいた。
「何するの、無礼者! そろいもそろって平民ふぜいが……」
「一番無礼なのはお前だ、元聖女!」
投げつけられる物の速さと量は減ることなく、むしろ増えていった。
アイリスは自分の時代は終わったのだと、ついに悟ったに違いない。
ついにすすり泣きながら、恨めし気に呟く。
「ギディオン、許さないわ。うまく行っていたのに、わたくしとお父様の計画を、めちゃくちゃにするなんて!」
すぐ隣にいたギディオンは、住民達から罵倒され石や生卵をぶつけられるアイリスを、庇おうとはしなかった。だが彼は彼女のすぐ後ろに立ち、アイリスに当たらなかった石を黙って代わりにその身に受けた。
やがて泥団子がギディオンの頭に当たり、弾けるように崩れた。金色の髪を茶色に染め、彼の額から土がパラパラと落ちていく。
まもなく王都警備隊が到着し、すぐに王宮の騎士達もやってきた。
騒然とする中、私は道端に刺さった棒にでもなったかのように、その場を動けなかった。
アイリスはギディオンをまだ非難していたが、彼は一切反論しなかった。
目に涙が溢れるせいで、誰が駆けつけて誰が私を揺すっているのかが分からない。
私はただ、ギディオンを見つめていた。無言で小石を身に受け、額から血を流す姿が、見ていて辛かった。
「よかった。無事で……。追いつくのが遅くなって、申し訳ない」
そう言って私を後ろから抱きしめるのは、ユリシーズだ。
胸の前に回された腕に、そっと手を重ねる。
「十分早かったですよ。それに殿下の魔力のお陰で、危機を脱出することができました」
「どうして泣いているの? どこかに怪我を?」
「言われてみれば、後頭部がまだジンジン痛むかも。思いっきり頭の後ろを殴られたみたいなので。でも、他はどこも怪我をしていません」
ただ、ギディオンの――、決して報われない愛が、胸に刺さった。
「すぐに宮廷医に見せよう。動かない方がいいかもしれないから、私に体を預けて」
ユリシーズは少し屈むと、私を抱え上げた。周囲にたくさんの人がいる中でお姫様のように抱っこをされ、猛烈な羞恥心が襲ってくる。
「わ、私一人で歩けます」
「歩かせない。リーセルが乗馬訓練から帰ってこないと女官から聞かされて、どれほど心配したか。当分過保護でいさせてくれ」
ゼファーム侯爵家は、国家反逆罪で起訴されることになるだろう。アイリスも軟禁ではなく、もう二度と自由に外には出られないような、厳しい処罰が下されるに違いない。
「心配の芽はもう摘み取られたから、ご安心を」
ユリシーズをできるだけ怖がらせないように、穏やかな声で言ってみたものの、彼は私を下ろすつもりはないようだった。
だから私も自分で歩くことは諦め、広い胸に顔を預けて身を任せることにした。
それは私が、心から安心できる場所だった。




