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元聖女アイリスの反乱⑪

 言葉を失った私に侯爵が言う。


「我らはサーベルへ行く。将軍が聖女を迎えにくることになっているのだ。最早、レイアに未練はない」

「敗戦協定を破って、サーベルの将軍がレイアに再び進軍していることと、貴方達は関係があるのですか? まさか、侯爵が将軍と手を組み、レイアを攻撃させているのですか?」


 侯爵は答える間がなかった。馬車が急に角を曲がり、私の体が座席の上で大きく横にずれ、彼の体を窓に強く押しつけたのだ。

 窓を開けた侯爵が御者に向かって「何事だ」と叫ぶ。


「進行方向から王都保安隊が向かってきています! 先回りされたようです」

「では他の道を使って王都を出ろ! 王都保安隊もまだそれほど多くの隊員を投入できていないはずだ。とりあえず今いる奴らをまけばいいい」


 ピシャリと窓を閉めた侯爵に、私は確信を持って言った。


「運よく王都から出られたとしても、この先国境まで遠いんですよ。サーベルと合流なんて不可能です」

「王太子があれほど大事にしているお前が我らの手の内にいるなら、不可能も可能となるだろう。そもそもお前は、我らの計画の成功を心配するより、自分のことを心配したらどうだ?」


 サーベルへ逃げられたら、私をどうするつもりなのだろう。侯爵の冷徹な銀色の瞳に、ぞくりと体が震える。

 この状況が怖くないと言えば嘘になるが、私はこの国を守る皆を信じている。


「不可能です。今の王都保安隊は、歴代最強と言われているんですから」


 視線を動かすと、アイリスと目が合った。

 アイリスは私の目を真っ直ぐに見つめて言った。


「王都保安隊の隊長と、隊員のマクシミリアンのことは、よく覚えているわ。お前と一緒に私をはめた者達ですもの」

「誰も貴女をはめてなどいません。罪を明らかにして、貴女に償ってもらっているだけです」

「――聖女としての地位を奪われたのは、本当に惨めだったわ。王立病院でいかに屈辱的な生活を送らされていたか、どれほど不当な扱いを受けていたか……」


 アイリスの被害者意識に愕然とする。自分がしでかしたことを、自分の癒しの力を「大舞台」で見せつけるために、大勢の人がいた舞踏会場で大火事を発生させて、たくさんの人々を殺したことを、反省するどころかいまだに何とも思っていない。


「挙げ句にわたくしの王太子殿下まで横取りしようなんて、お前は本当に身の程知らずな女だわ。下々の者は薄汚い向上心で、分不相応にも上流階級に身を置くことを夢見て、蛇のようにずる賢い算段を練るから、油断ならないものね」


 アイリスの愛らしい瞳は、今や侮蔑と憎しみで歪み、血走っている。彼女がどれほど私を憎んでいるかがありありと伝わり、この状況では自分の身の安全を優先しないといけないと思いつつも、私にも我慢ならない思いがある。これ以上黙って聞いているのは、屈辱だった。


「アイリス、貴女こそ物ごとの上辺しか見てこなかったのよ。王太子殿下が貴女を愛したことは、今も昔も、一度もなかったのだから」


 パシッと鋭い音が耳のすぐ近くで鳴り、鋭い痛みが私の頬を走る。右側に無理やり向かされた顔を真っ直ぐに戻した私の右頬を、今度は左手でアイリスが引っ叩く。

 揺れる車内で腰を浮かせ、アイリスは怒りに顔を赤くして唇を震わせた。


「王太子殿下のお心は、わたくしのものよ。高貴な生まれと神に選ばれたこのわたくしこそが、あの方にふさわしいわ!」


 興奮して呼吸が荒くなっているアイリスの肩に、侯爵がそっと触れる。


「そのくらいにしなさい。その女はまだ大事な人質なのだから。国境に着くまで、油断はならんぞ」


 侯爵の厳格な口調に、アイリスが我に返ったように落ち着きを取り戻していく。

 アイリスは再び座席に深々と腰を下ろし、真顔になってからほんの少しだけ微笑を浮かべた。


「ねぇお前は、この瞬間を一度でも想像しなかった? わたくしに復讐されることを。やられっぱなしでいるわたくしではないのよ」


 その瞬間、私の脳裏に蘇ったのはかつて見た光景だ。聖女毒殺の罪を着せられ、処刑の判決を下されて監獄に幽閉されるまでに見たもの――暗く湿気っぽい地下牢の石の床の固さ。縋った鉄格子の冷たさ。

 そして最後まで私に付き添ってくれた、実家の侍女のカトリンの涙。

 私を絶望に追い込んだあの光景を久しぶりに鮮明に思い出し、燃えるような怒りが込み上げる。

 手枷をはめられた手をぎゅっと握りしめ、私はアイリスに反論した。


「それはこちらの台詞よ。アイリス、貴女はもう覚えていないでしょうけど、最初に私を陥れたのは貴女なのよ」

「わたくしが何をしたというの? おかしなことを言わないで」


 私から目を逸らしたアイリスの瞳は、窓の外に向かった。

 窓のすぐ近くを、矢が飛んでいる。

 タンタン、ダン! と車体に音が響き、馬車に矢が当たっているのだと分かる。

 侯爵達は一様に表情を固くさせ、車窓に注意を向けた。

 どうやら追っ手に追いつかれそうになっているらしく、後方から追い上げてくる騎士達が見える。うち一人は黒いローブを纏っており、魔術師と思しきその人物が右手を前方に掲げた。

 魔術師の掌に赤い光が輝き、一気に大きくなった直後。突然轟音が鳴り響き、巨大な竜巻にでも巻き上げられるかのように、彼らは旋回しながら上空へと煽られた。宙に飛ばされた魔術師の手の中の赤い光が、急速にしぼんでいく。

 どうやらゼファーム家の騎士の中に、手練れの魔術師がいるらしい。ゼファーム家側の反撃には一切手加減がなく、作り出された竜巻は追っ手達が空高く巻き上げられた状態で急に消失し、彼らは一転して真っ逆さまに地面に向かって落ち始める。

 騎士達や馬達が地面に叩きつけられる寸前で、魔術師が風のクッションを作り出したのか、皆が静止するのが見えた。

 騎士達が大怪我をせずに済んだことに安堵したものの、私達を追う態勢はすぐには整えられないために、夜の闇の中で彼らの姿が再び遠ざかって見えなくなっていく。


(私が人質なんかになってしまったせいで、この馬車に対して効果的な魔術が使えないんだ……)


 早くこの状況をなんとかしなければ。

 魔術を封じる手枷への対抗手段として思いついたのは、ポケットの中にあるシンシアの巾着だ。

 あの布は魔力吸収石の効果を遮断することができる。

 同乗者達全員の意識が窓の向こうに向けられている今、彼らに私の動きを察知されずに動くには絶好のチャンスだ。

 手枷ごと右手をそろそろとポケットに近づけていき、私も窓ごしに後方を凝視していると思わせる姿勢をとり、三人の目線がこちらにないことを再確認してから、右手の指先をそっとポケットの中に忍び込ませる。

 人差し指と中指の二本でまさぐり、生地を探り当てて最小の動きでそれを引っ張り出す。

 直後、馬車が急停車しその勢いで巾着がポケットから飛び出した。右手を慌てて握りしめ、巾着を掌の中に隠す。


「何やってるんだ! 急に馬車を止めるな!」


 窓を開けるや否や、侯爵が車体前方にいる御者を怒鳴りつける。


「す、すみません! 道を間違えました。行き止まりだったようで……」


 馬車の後ろを見ていた皆が、今度は前方を凝視する。

 御者の言う通り、私達は袋小路に迷い込んでいた。

 道の先は建物が立っていて、これ以上は進めない。無理もない。暗い夜道で馬車を疾走させるべきじゃないのだ。


「それならさっさと引き返せ! せっかく撒いたさっきの騎士達に追いつかれるぞ!」


 侯爵に怒鳴られ、御者が馬車を懸命に方向転換させる。だが走り出した馬車は、なぜか再び止まった。


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