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元聖女アイリスの反乱⑩

 王立病院は騒然としていた。

 どうやら私達の乗る馬車がここに到着する少し前に、丸太を積んだ荷馬車が病院の正面に突っ込んだらしく、玄関が派手に破壊されていた。

 病院の入り口には、何があったのか確かめようと中から飛び出してきたたくさんの兵士達が集まっている。

 私達の馬車の後ろにいたのか、馬から飛び降りた侯爵が素早く剣を抜いて、荷馬車の周りに集まる兵士達の方向へ突進していった。彼が連れてきたらしき騎士達が、それに続く。

 その後の一部始終を車窓から見ていた私は、全ての光景がゆっくりと進んだように思えた。

 兵士達は困惑して外に出ようとする患者達を説得したり、門を壊した荷馬車をどけようと、目の前の己がすべきことに集中していた。彼らの背後から風のように駆け寄った侯爵は、剣のひと払いでまず一番手前にいた兵士二人を斬った。異変に気づいた周りの兵士達が顔を上げたが、その目が侯爵を捉えるより先に彼の首が宙を飛ぶ。

 目を覆う暇すらなかった。

 侯爵は道端に生える雑草をナタで切り開くがごとく、バタバタと兵士達を斬り捨てていく。


「素晴らしい夫でしょう? あれがゼファームよ。文武両道を極めて、他の凡庸な貴族の追随を許さないの」


 私と同じく窓の外を見ていた侯爵夫人が、ほんのり恍惚とした声色で呟く。

 たしかに侯爵は強かった。だが、王立病院の警備も手厚く、杜撰ではない。

 危機を察知した兵士達が中から次々と出てきて、侯爵が建物に入るのを阻止する。

 侯爵側の手勢は十人弱だ。対する兵士達は三十は超えている。

 騎士の一人が肩を負傷し、剣を落としたのを見るや否や、侯爵夫人が動いた。


「出るわよ! 大人しくついてきなさい」


 侯爵夫人は私の二の腕を掴んで馬車の扉を開け、華奢な体のどこからそんな力が出るのかと驚くほどの強い力で、私を馬車から引き摺り下ろした。

 下車するなり、足を縛られていて歩けないのに侯爵夫人に背を押され、その場で転倒する。肘を地面に打ち付け悶絶する私の首に、ヒヤリと冷たく硬質なものが押し当てられた。瞬時にそれが何かを察し、私は動くのをやめた。


「お前達、剣をしまいなさい! さもないとここにいる女の首が飛ぶわよ。この女は王太子妃に内定しているリーセル=クロウよ」


 その場の兵士達が一斉にざわつき、動揺して剣を引いた隙に、侯爵家の騎士達が建物の中へと駆け込んでいく。


「やめて! 王立病院に押し入るために私を使うなんて、卑怯だわ!」


 すぐ後ろに立つ侯爵夫人を見上げるが、彼女は剣をより強く私の首に押し付けるだけだ。

 よく見れば何人かの兵士達は、妙に体がフラついている。立つのがやっとといった兵士もおり、剣を地面について支えにして、今にも倒れそうなのを何とか踏ん張っているようだ。

 事前に一部の兵士達に睡眠薬でも飲ませたのかもしれない。内通者がいたのだろう。

 やがて騎士達が大きなフード付きの外套を着た女性を守るようにして、建物の中から出てきた。彼女の両肩に手を回して付き添っている茶色い髪の若い男性は軽装で、どう見ても騎士ではなく、王立病院で警備をしている兵士のようだ。

 なぜ兵士が侯爵家の騎士達と行動を共にしているのだろう――そう思っていた矢先、その場にいた兵達から怒りに満ちた声が上がった。


「お前、ビクター! 元聖女の部屋の鍵を開けたのは、まさかお前か⁉︎」

「皆の茶に何か入れただろう⁉︎ この裏切り者!」


 ビクターと呼ばれた裏切り兵士はアイリスと共に、私が乗ってきた馬車の方へ走ってきていた。彼の視線がチラリと私に流れ、なぜ侯爵夫人に剣を向けられているのか、と訝し気にかすかに見開かれたが、アイリスを逃亡させる手助けに集中したいのか、目はすぐに逸らされてアイリスを馬車に乗せようと彼女に手を差し伸べる。

 だがビクターの同僚達の怒りも大きかった。一人が剣を抜いて目にも留まらぬ速さで、アイリスとビクターの元に近づいた。


「危ない!」


 侯爵夫人の警告は遅かった。少し前までは仲間だったであろう兵士の一人が、一か八か当たればよいといった様子で放り投げた短剣は、アイリスに付き添うビクターの脇腹に深々と刺さった。

 ビクターはその瞬間、ビクリと震えた。だがアイリスを馬車に乗せるために支える手から力が抜けることはなく、彼はそのまま彼女が外套をはためかせて車内に乗り込むまで、しっかりと支え続けた。

 短剣を投げた兵士はすぐさま騎士によって薙ぎ払われ、やがてビクターの脇腹から短剣が抜け、近くに座り込んでいる私の膝すれすれに落下する。

 短剣が抜けたビクターの脇腹からは、泉のように血が噴き出す。ドクドクと溢れて服を真っ赤に染め上げ、彼の足元の石畳にまで広がっていく。ようやくアイリスが車内に乗り込むのを見届けた彼は、車体に捕まり今にも倒れそうだ。

 そこをゆっくりとアイリスが振り返る。

 私はこの時、王立病院にアイリスが軟禁されてから初めてまともに彼女を見た。


(ああ、アイリス。とてもやつれたけれど……、それでも貴女はやっぱりちっとも変わらないのね)


 松明の明かりに照らされ、薄闇の中でキラキラと輝く金色の髪は彼女に神々しい雰囲気を与え、丸く大きな瞳は純真そうな印象を与える。

 振り返ったアイリスが、ビクターに澄んだ声で尋ねる。


「ビクター、どうしたの? 貴方は乗らないの?」


 アイリスはビクターに短剣が刺さっていたことに気づいていなかった。

 ビクターが震える声で答える。


「不甲斐なくとも負傷してしまいました。で、でも大丈夫です。どこまでもお守りします。ど、どうか聖女様の尊いお力で、治癒をお願いいたします」


 その間、馬車の反対側の扉から侯爵が乗り込み、私を指差しながら夫人に呼びかける。


「お前もその人質を連れて、さっさと乗るんだ。騒ぎを聞きつけた王都保安隊が、すぐに来てしまう。モタモタするな!」


 夫に命令された侯爵婦人が、剣先を私の首筋に当てたまま腕を掴み、アイリスの立つ馬車の扉口へと歩き出す。足首を縛られているので両足を交互に引きずるようにしか歩けず、私が時間をかけて進む中、侯爵は痺れを切らしたように怒鳴った。


「さっさと乗れ! 王宮魔術師、下手な真似は身のためにならんぞ!」


 私はもう王宮魔術師をやめているので、私をそう呼びかける者はもういない。だが、侯爵は私が王太子妃候補だということを頑として認めたくはないし、名前も呼びたくないのだろう。

 アイリスは小首を傾げて、ほっそりとした自分の顎先に右手を当て、軽く考え込む仕草をした。愛らしい桃色の口が開き、澄んだ声でビクターに語りかける。


「ビクター、でも見ての通り時間がないの。貴方もわたくしにサーベルまでちゃんと逃げてほしいでしょう?」


 私は聞き間違えたかと、何度も瞬きをした。


(サーベル? まさか、アイリスと侯爵夫妻はレイアを逃げ出すつもりなの?)


 足元から血の気が引いていく。

 もしや、最近サーベルの一部の軍隊にある妙な動きは,アイリスと何か関係があるのだろうか。

 ビクターが必死に車体に掴まりながら言う。


「もちろん、無事レイアを出ていただきたいです。ですので……」

「それなら分かってくれるでしょう? 貴方をここで治療する時間はないわ」


 なんの悪気も感じさせない、いっそ見惚れてしまうほどの微笑を浮かべて、アイリスがこちらに背を向ける。王立病院を脱出するのに手を貸してくれた者に、一切手を差し伸べることなく、ここに捨てていこうというのだ。

 アイリスが侯爵の向かいに座り、後に続けとばかりに侯爵夫人が私を車内に押し込む。

 すれ違いざまにビクターの顔を見ると、彼は真っ青だった。絶望で表情を失ったのか、アイリスを追う瞳は生気がなく、車体に掴まっていた手はズルリと滑り、彼は人形のように地面に倒れた。

 私の後に乗車した侯爵夫人が、無情にも扉を閉める。

 兵士達は私が人質に取られているせいで、馬車に手出しができないのか、焦燥感に駆られた表情でこちらを見上げている。


(まずいわ。私がいるせいで、アイリスを逃してしまう。兵士達の任務の足手纏いになっている……!)


 なんとかしてこの手枷を外さないといけない。

 だが侯爵夫人が乗るなり、馬車は動き始めてしまった。

 同時に騎士達も馬に跨り、その場に誰もビクターを庇う者がいなくなったからか、近くにいた兵士の一人が駆け寄り、ビクターの顔面を蹴り上げ、その襟元を掴んでズルズルと引っ張っていく。

 尋問でもするつもりなのか、建物の方に引かれていくものの、その軌跡を赤く濡らしていく出血量を考えれば、最早彼の命が助からないのは明白だ。

 一方のアイリスはと言えば、ビクターに一瞥もくれない。

 私は思わずアイリスに尋ねた。


「ここを出るのを手伝ってくれたあの兵士を、見捨てていくの?」


 するとアイリスは意外なことを聞かれた、とでも言いたげに愛らしい目を瞬いた。


「壊れた道具は、直すか捨てるしかないでしょう?」


 一瞬、アイリスが何を言っているのか分からなかった。


(道具? つまり、自分の味方をしてくれた兵士が、壊れた道具だと言いたいの?)

「貴女を庇って刺された人を、壊れた道具だと? 同じ人間なのに……」

「同じではないわ。わたくしとは生まれついた身分や、人としての価値が違うもの。貴女も壊れていらなくなった道具は捨てるでしょう?」


 返す言葉がない。何を言っても無駄なのだ、と気がつく。


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