元聖女アイリスの反乱⑨
私が安堵したことに、しばらくの間ゼファーム侯爵夫人は私の前に姿を現さなかった。
アイリスからの手紙を託されることもなく、減刑の嘆願は諦めたのかもしれない、と思った。
だが王宮はこの間、非常に緊張に包まれていた。サーベルとの国境付近に再集結していた軍勢が、懸念された通り終戦協定を破って国境を超えたのである。
反乱軍を率いているのは、サーベルの将軍だった。サーベル国内では新しい国王のもと、戦後処理の一貫として敗戦の責任を高官に問う動きが進んでいた。その最中、将軍は築き上げてきたものを全て失うよりはと、一か八かの賭けに出てまさに死に体で攻めてきているのだ。彼らはレイアの王都の方向を目指して進軍しており、レイア軍が急遽これに対応していた。
そうして最後にアイリスの手紙を託されてから、半月あまりが過ぎた頃。
ゼファーム侯爵夫人が、再び私の前に現れた。
またしても私の乗馬の練習の後に現れた侯爵夫人は、もう何度もこれまで受け取ってきた簡素な白い封筒に入った手紙をこちらに差し出した。
またかと気持ちが重くなるのが顔に出ないよう、なんとか表情を作る私に、侯爵夫人は意外なことを言った。
「王太子殿下にお手紙をお渡しするのは、これで最後にするとアイリスが言っていたの」
(最後? 嘆願に効果がないと分かって、諦めたのかしら……?)
最後と言われると、身が引き締まる。丁重に両手で私が受け取った直後。
侯爵夫人は突然その場に屈んで膝をついた。
「な、何をなさっているんですか?」
侯爵夫人が――しかも自分よりずっと年長の女性が、庭園の芝の上で私に跪くという異常事態に、困惑して私までしゃがみ込んでしまう。
侯爵夫人は両手を地面につけ、頭を芝に擦り付ける勢いで深々と下げた。
「アイリスが罪もない多くの人々を害し、聖女の名を貶めたことを、一族を代表して謝罪したいの。王太子の護衛だった貴女にも、たくさん迷惑をかけたわ。しかもこれから妃になる方に無礼を働いたのですから、私は我が一族の明日が怖くてたまりません」
「顔を上げてください! こんなことをする必要はありませんから」
私も地面に膝をつき、侯爵夫人を起こそうと彼女の腕に手を触れる。
その刹那、頭の中に重く響くような鈍い音がした。一瞬にして視界が暗くなり、続いて後頭部に強烈な痛みを感じる。
顔面にチクチクするものが当たり、自分が芝の上に倒れたのだと一歩遅れて気がつく。
あまりの痛みに頭を押さえたいのだが、手が言うことを聞かない。
まさか今、後ろから誰かに殴られたのだろうか。
朦朧とする意識の中、背後から声が聞こえた。
「よくやった。この女を急いで運び出すぞ」
男性の低い声に続いて聞こえたのは、怯えを含んだ侯爵夫人の声。
「ほっ、本当にこんなことをしていいのですか? 上手くいきますでしょうか?」
「何もせず滅びるくらいなら、剣を取るのがゼファームの人間だ。ゼファームの没落など、私の目の黒いうちは許さぬ! お前はまだそんなことがわからないのか」
ゼファームの人間……。ということは、私を殴ったのはまさか侯爵その人だろうか。
薄れていく意識の中で、夜道に話しかけてきた制服姿の少女の姿が脳裏に蘇る。
あの忠告は、もしやこのことだったのだろうか。
(せっかく忠告してくれたのに。忠告が無駄になってしまう……!)
この親にしてあのアイリスあり、と頭の中が悔しさでいっぱいになる中、私は気を失った。
体全体に規則的な振動を感じる。
車輪が回る音を耳が拾う。頭はまだぼんやりしているものの、後頭部のヒリヒリとした痛みははっきりしている。
(ここは、どこ?)
薄らと目を開けると、目の前に侯爵夫人が座っているのが見えた。なぜそんなに傾いて馬車に座っているのだろうと思いきや、変な姿勢をしているのは私の方だった。
私は両腕を縛られたうえ、馬車の座席に転がされていた。
侯爵夫人は目が合うなり,冷たい目で私を見下ろしながら状況を説明し始めた。
「驚いたでしよう? でも貴女はいい人質になるから。それに何より、アイリスが貴女を連れてくることを希望しているの」
(アイリス――⁉︎)
馬車の座席に横向きに転がされていた私は、起き上がって外を見ようとしたが、車窓にはカーテンが引かれていて外が見えない。
「ここはどこです? それにどうやって……? 私を一体、どこに連れて行くつもりですか⁉︎」
侯爵夫人は揺れる車内でピンと姿勢良く座ったまま、微かに唇を震わせて答える。
「王宮の絨毯商を買収したのよ。洗濯する絨毯の中に貴女を巻いて、運び出したの。質の良い羊毛の絨毯は、職人達が足で踏んで汚れを落として、天日で良く乾かすの。――王太子殿下に付いた染みを王宮から追い払うのにまさに相応しい方法でしょう?」
私が染みだと言いたいらしい。腹が立つけれど、今は挑発に乗っている場合ではない。
まずは、自分の置かれた状況を確認したい。
すると私の意図を読んだのか、侯爵夫人が手を伸ばしてカーテンを開けた。
馬車は狭い路地を走っている。家屋がごちゃごちゃと立ち並ぶ、王都の中でも下町と呼ばれるエリアだろう。日は暮れかけ、ランプ片手に歩いている人がチラホラといる。
(王宮を出てどのくらいたったんだろう?)
「私をどうする気ですか? この馬車はどこに向かっているんですか?」
尋ねると侯爵夫人はただ窓辺に目をやった。痩せすぎているせいで落ち窪んだ目を、神経質そうに何度も瞬いている。硬く引き結んだその口元は微かに震えており、随分緊張しているように見える。
私の記憶が正しければ、侯爵夫人は魔力持ちではない。だとすればここから逃げるのは簡単かもしれない……。
私の足首はロープで結ばれていて、かなり固く結ばれているようで、足を動かして抜いたり解いたりするのは難しそうだ。
そして手は手首部分に非常に重くて分厚い黒い板をはめられ、固定されていた。
まずは切るのが簡単そうな、足のロープに照準を定める。
(ロープを氷の粒で切ってしまおう)
密かに掌を足元に向け、馬車の振動音に紛れて氷の粒を呼ぶ詠唱を始める。
「鋭い氷の粒よ、集まりて……」
私はすぐに異変に気づいた。
魔術を行おうとしているのに、私の中の魔力が手に溜まっていかず、むしろどこかへ吸い込まれていくような感覚があるのだ。
ゾワリと全身の鳥肌が立つ。
私はこの感覚を知っていた。
これは、魔力吸収石を握った時に覚える感覚と酷似している。
信じられない思いで手枷を見下ろす。
板は黒い石でできていて、魔力吸収石と同じ材質に見える。
手元を凝視する私の様子に気づいたのか、侯爵夫人が口を開く。
「魔術は使えないわよ? その手枷は魔力吸収石でできているから、貴女の魔術という名の武器は、事実上封印させてもらったわ」
(まずい。これじゃあ、反撃の手立てが見つからない……)
魔術が使えないとなれば、非力な女に今できる抵抗など、あってないようなもの。
試しにもう一度詠唱をしてみるが、唱える先から手枷に魔力が吸われていき、ただ疲労感が増すだけだ。
侯爵夫人は私を見つめて無表情に呟いた。
「諦めなさい。大人しくしていれば、危害は加えないから」
「私をどうするつもりですか? 貴女は何がしたいのですか⁉︎」
「――わたくしは、娘を助けたいだけよ……」
目を伏せてそう言う侯爵夫人の硬い表情を見て思った。
わたくしは、ということはこの計画に加担しているであろう侯爵自身は、そうではないと言いたいのだろう。侯爵が気にしているのは、きっと一族の名声だけだ。
馬車はやがて狭い通りを抜け、大通りに出た。そこから速度を上げる中、私は窓の外に見えたものに思わず喘いだ。
夕暮れを背に聳える、大きな石造りの建物。
私の乗せられた馬車は、王立病院に来ていたのだ。




