元聖女アイリスの反乱⑥
王立病院で患者達に、昼食が配膳される正午。
自室で薄いスープを飲んでいたアイリスのもとに、面会者がやってきた。
罪人であるアイリスに会いに来られるのは、彼女の家族だけだ。アイリスの父であるゼファーム侯爵を彼女の部屋まで案内したのは、ビクターだった。
面会者がいる時は、アイリスが怪しい動きをしないよう、必ず兵士が付き添うことになっている。ビクターはゼファーム侯爵が部屋に入った後、入り口の近くに立って二人の言動に注意を払った。
ゼファーム侯爵はアイリスと同じ金色の髪に、端正な顔立ちの中年男性だった。名家の当主らしい威厳ある身のこなしをしており、娘と違って鋭く磨かれた剣のような銀色の瞳をしている。
王立病院での任務に着いて以来、ビクターは侯爵のこの何もかも見透かすような厳しい銀の瞳が苦手だったが、どうやら娘でもそれは同じなのか、アイリスは彼の前では常にどこか怯えた様子だった。
ゼファーム侯爵はアイリスに一週間ぶりに会うなり、彼女を罵った。
「お前はどこまで私達を失望させれば気が済むのだ。はとこのリチャードの婚約が、今更破談になったぞ。先方が何と言ってきたか、聞きたいか?」
部屋に入るなり狭い室内の中央で仁王立ちになり、腕組みしてゼフアーム侯爵が大きな声を出す。
アイリスは部屋の隅に追いやられ、手を腹の前で組んで俯いたまま首を左右に振った。
「悪女と親戚になる勇気がありません、と申したのだ!」
アイリスが更に俯き、声を震わせる。
「お父様、申し訳ございません。わたくしが至らないせいで」
「お前は四大名家ゼファーム家の名を、先祖の血の滲むような努力を、全て踏みにじったのだ。この役立たずが!」
体格のいいゼファーム侯爵が怒鳴ると、狭い石造りの室内に声が反響してその怒りが際立つ。すぐ近くで聞いているビクターは、まるで自分が叱られているかのような恐怖を感じた。
女性ながらに目の前で叱責されるアイリスの恐怖はいかばかりだろう、とつい心配になってしまう。
アイリスは両手を胸の前で組み、懇願するように床に膝をついた。
「お許しください、お父様」
バシッと音がしたと思うと、アイリスの体がかしいだ。左側に倒れそうになった体を、片手を床について慌てて支えている。
一瞬のことで何が起きたのかわからなかったビクターは、みるみる赤く染まっていくアイリスの頬を見て、数秒遅れて事態を理解した。
ゼファーム侯爵がアイリスを殴ったのだ。
「私の目の黒い内は、我が家の没落など決して許さんぞ!」
頬を押さえて父を見上げるアイリスの大きな瞳からは、ポロポロと涙が溢れる。
「お父様、わたくしをどうかお見捨てにならないで。今日も王太子殿下に手紙を書きました。必ず、またあの方はわたくしを助けてくださいます!」
ゼファーム侯爵はカツンと無機質な足音をたて、一歩アイリスに近づいた。
「殿下がお前からの手紙を、本当に読んでくださっているかは、分からん。我々に出来るのは、せめてお手に渡るようにするところまでだ」
手に渡りさえすれば、きっと読んでもらえる。アイリスはそう信じて、手紙を侯爵に手渡した。
侯爵が来た時と変わらぬ仏頂面で王立病院を出ていくと、ビクターはアイリスの様子が気になり、彼女の部屋に戻った。
アイリスは腫れた頬を治そうともせず、ぼんやりと椅子に座っている。
ビクターは思わず彼女に話しかけた。
「侯爵様は随分な態度を取られるのですね。娘の顔を殴るなど……信じられません」
アイリスが顔を上げ、弱々しく首を左右に振る。
「仕方がないわ。お父様は何より名誉を重んじる方だから」
「ですが、聖女様は日々祈りを欠かさず、癒しの力を患者達のためにお使いになり、清廉な生活をされています。あなた様のような汚れない女性への扱いとして、許されないことだと思うのです」
侯爵の態度によほど憤慨したのか、ビクターは顔を赤くして語気を強めた。
アイリスは目を伏せ、ポツリと呟く。
「わたくしにそんな優しい言葉をかけてくれるのは、今はもう貴方だけだわ、ビクター」
「だって、そうじゃないですか。聖女様は毎日ここで、弱き者達のために尽くしているというのに。貴女への不当な扱いに憤らない方が、おかしいです」
アイリスは自分の胸に片手をそっと当て、静かな声で尋ねた。
「ねぇ、ビクター。貴方はわたくしが本当に世間で言われているような、悪女じみた罪を犯したと思う?」
王立病院での奉仕は国王が命じたものだ。レイアに仕える兵士としては「当たり前だ」とすぐ簡潔に答えねばならない。頭ではそう分かっていても、ビクターは答えられなかった。
王立病院でビクターが見ているアイリスは、悪女からはほど遠い女性に見えたからだ。
ビクターは答えかねて、ただ悩ましげに視線をさまよわせた。
「わたくしの周りで起きたことは、全て偶然なのに意図的にわたくしが起こしたこととして、罪をでっちあげられたのです。聖女と言えど、悪意ある企みの前には、無力なのです」
膝の上で組んだ白い手を見下ろすアイリスの瞳はとても澄んでいて、天使のような容姿の彼女の弱々しい姿に、ビクターは胸を打たれた。とても嘘をついているようには見えず、困惑してしまう。誰の言うことが正しいのだろう、と。
「聖女様、とにかく頬をお治しください。放っておくと紫色のアザになりますよ」
ところがアイリスはあやふやに微笑んだ。
「どうせ外に出ることもないから、このままで構わないわ。治癒力は患者のために使いたいもの」
「そんな。少しくらいご自分のために聖なる力を使われるべきです」
ビクターが我知らず部屋に踏み込んで力説していると、アイリスがハッと顔を上げた。
つぶらな瞳を数回不思議そうに瞬き、指先でそっとビクターの右腕に触れる。
「ビクター。貴方もしかして、腰痛が慢性的にあるのでは?」
「な、なんのお話ですか……?」
警戒するように眉を寄せ、ビクターが一歩身を引き、アイリスの手を振り払う。だが彼女は彼の腰回りをじっと見つめ、確信を持ったように続けた。
「これはきっと、日常生活に支障をきたすほどの痛みだわ」
「何のおつもりですか。藪から棒に。そんなことはありません」
「もしかして、腰痛持ちだと知られると仕事に不利益が出るかもしれないと思って、今まで隠してきたの? 普段痛がるそぶりを見せないから、貴方のことをよく見ないと、貴方が腰痛持ちだとは気づかないんだわ。お強いのね……」
ビクターの顔が青くなり、硬い口調でアイリスに尋ねる。
「なぜ、それを? 今まで誰にも話したことはなかったのに」
「わたくしは聖女だもの」
ふふふと笑い、アイリスは椅子に腰掛けたまま両手を広げてビクターにかざすように前に出した。
「貴方を苦しめるこの痛みを、治癒術で取り去ってみせるわ」
「そんな、そんなことが本当に? いや、聖女様の貴重なお力を僕なんかのために使うなど、よろしいのでしょうか?」
問題など何もないと答える代わりに、アイリスは目を閉じた。すぐ後に彼女の両手が輝き始め、光は生き物のようにビクターの方へ向かい、彼の腰を包み込む。
ビクターが期待と困惑の混じった面持ちで自分の腰を見下ろす中、じんわりとした温もりを伝えて光はゆっくりと消えた。
「どうかしら? これで腰の不具合は治ったと思うの。まだ痛みはある?」
「いやいや、こんな一瞬で消えるはずが……」
アイリスに問われるがまま、腰を恐る恐る前後に動かしたビクターは、息を呑んだ。半信半疑で腰を屈め、更には後ろに伸びをして大胆に腰を動かしてみる。
見る間にビクターの頬が上気し、興奮に目を見開く。
「嘘のようです。全く痛みがありません! こんなことは子どもの頃以来です!」
「お役に立ててよかったわ」
アイリスの顔に笑みが広がる。ビクターが喜ぶ様子を見て、彼女まで嬉しくなったと言いたげな、慈悲と優しさの溢れる笑顔だ。
その笑顔をビクターは惚けたように見つめた。
「今まで、どんな医者も僕の腰痛を治せなかったのに!」
長年自分の生活の質を著しく落とし、苦しめてきた腰痛が突如として消失したのだ。まるで生まれ変わったかのような喜びと安堵を感じる。
ビクターにとっては人生で一、二を争う大きな出来ごとであるにもかかわらず、治癒術を施したアイリス自身はなんでもないことのように、天使のように微笑んでいた。
ビクターは無意識に両手を胸の前で組み、ごく自然に膝を床についていた。頭を深々と垂れ、感謝の気持ちを言葉にする。
「聖女様。貴女は間違いなく、誰がなんと言おうと、唯一無二の聖女様にあらせられます」
アイリスはただ、不思議そうに小首を傾げた。
「困っている人がいれば、誰でも手を差し伸べるでしょう? 貴方が喜んでくれるなら、それ以上のことはないわ」
「貴女は、本当に……、まさに貴女様こそが、聖女様と呼ばれて万民にぬかづかれるべきお方です」
低頭するビクターのつむじを見つめながら、アイリスの口元に深い笑みが浮かんでいく。




