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元聖女アイリスの反乱⑤

 翌朝、ビクターがアイリスの部屋を訪ねると、彼女は紙を片手に何やらとりこみ中のようだった。

 サラサラとした長い髪を無造作に後ろに束ね、一人用のテーブルセットの下にかがみ込み、紙を使って何かをしている。

 治療を施してもらうため、アイリスを重症者のいる病棟へ連れて行かねばならないビクターは怪訝な顔で部屋の中に入っていく。


「聖女様、何をなさっているんですか? そろそろ部屋を出ていただくお時間なのですが」

「小さな蜘蛛がいるのよ。紙の上に乗せて、窓から外に逃がしたいのだけれど、うまくいかなくて」


 テーブルの下を覗き込むと、たしかに黒い小さな蜘蛛がいた。アイリスが紙を近づけるだけで、素早くよけている。

 ちょうど机の下から這い出てきた蜘蛛に近づき、ビクターは右足を上げた。


「紙に乗せるより、踏んで捨ててしまった方が早そうです。――いきますよ」

「だめよ!」


 アイリスが声を張り上げ、蜘蛛の上に覆い被さるように上半身をテーブルの下から突き出す。

 そのまま必死の形相でビクターを見上げる。


「何もしていないのに、潰してしまうなんていけないわ。少し工夫をして逃がしてやればいいと思うの。だって、可哀相だわ」


 ビクターはまごついた。

 居住空間に現れた虫など、さっさと退治する方が効率的だし、逃してやろうと時間をかけるうちに見失っては始末に悪い。

 虫を逃がそうなどと考えたことがなかったビクターは、まじまじとアイリスを見下ろした。

 必死に屈んで紙を床に押し付け、片手であおいで蜘蛛をなんとか紙の上に誘導しようとしている。その白く弱々しさを感じさせる細い手が、妙に印象的だ。

 少し前まで王太子の恋人と言われ、最も高貴だった女性が、今は暗く狭い部屋の床に膝をつき、小さな害虫を助けようとしている。

 ビクターはその事実を消化するのに時間がかかった。

 その時、廊下で待っていた同僚兵士の苛立った声が聞こえた。


「おい、元聖女を連れ出すのに何分かかってんだよ! 病棟患者が死んだらどうすんだ。さっさとその女を連れ出せ!」

「わ、分かりました! すぐ行きます」


 自分の任務を思い出したビクターは、聖女から紙を取り上げた直後、右足を振り上げてダン! と靴裏を床に押し付けた。

 再び足を持ち上げると、木の床の上で潰れて丸くなった蜘蛛が、ピクピクと脚を震わせている。


「ここに時間をかけていられませんので……。後で部屋の掃除をさせますから、ご安心ください」

「そんな……」


 聖女は白磁のように白い顔を一層白くさせ、もう動かなくなった蜘蛛を見つめている。大きな蜂蜜色の瞳には隠しきれないショックが浮かび、ビクターはアイリスをそれ以上見ているのが辛くなり、顔を逸らす。


「さぁ、行きますよ」

「はい」とアイリスが弱々しく答えた。




アイリスは急患を治療することが多かったが、中には長期入院している回復の見込みのない患者をみることもあった。

 長年苦しんだり、悪化の一途を辿っていた患者だろうが、アイリスの治癒術をもってすれば、元の健康な状態に戻すことができる。

 寝たきりだった高齢の女性は、アイリスの治癒が終わると弱々しく笑みを浮かべた。

 長年絶え間なく続いていた腹部の痛みが、嘘のようになくなっているのだ。けれども弱りすぎて声が出ない喉からは、感謝の言葉を出せない。

 アイリスは老人に寝具をかけてやりながら、言った。


「これでもう、痛むことはないでしょう。ここに来られてよかったわ」

(ああ、くだらない。こんな老婆を助けることに何の意味があるの? わたくしの力の無駄遣いだわ)


 ゴクリと喉が鳴る音がして、振り返ると入り口に控えるビクターが目を見張っていた。


「聖女様のお力は、本当に奇跡のようです」

「んあ? 元聖女だろ。あいつはもう、聖女じゃねぇ」


 もう一人の兵士が、ビクターの腕を肘でこづく。

 アイリスは苦笑しながら、次の病室へ移動した。

 治療の間はもちろん術を施すことに集中せざるを得ない。だがそれ以外の時間は、ぼんやりと考えごとをしてしまう。

 ふとした隙間に脳裏に蘇るのは、王宮で過ごした煌びやかな日々のことだ。

 とりわけあの優しい茶色の瞳が名残り惜しい。思い出すだけで心の底から震えるような満足感を覚える。アイリスにとって、王太子の自信溢れる仕草の全てが魅力的だった。

 王宮で王太子から見つめられた時、アイリスはいつも自分に真っ直ぐに向けられた揺るぎない好意を感じていた。

 王太子は完璧な男性だった上に、アイリスにだけ優しかった。

 だから時折、アイリスは自分にとって王太子とは別の意味で大事な存在である、ギディオンを使ってあえて彼に焼き餅を焼かせたりもした。

 アイリスがギディオンと親しげに話す時に、王太子が悔しげに顔を暗くする瞬間は、いつも彼女に快感を与えた。

 王太子ユリシーズは間違いなく、アイリスに夢中だった。

 彼と手を取り合い、権力の頂点に座し、誰からも羨望の眼差しを浴びながら過ごしていくであろうこれからの人生を、確信していた。


(なのにどうして? あの日々が嘘のようじゃない!)


 アイリスと王太子が恋仲だったことを知る看守は、嫌がらせのようにしばしば「元王宮魔術師と王太子の恋」についての記事が載る新聞をアイリスの部屋に置いて行った。


「許さない。貴女になんて、彼はふさわしくないのよ……」


 休憩時間に自室に戻ったアイリスは、便箋の隅から隅までリーセルの名を書いた。そうしてそれを両手でつまみ上げ、思いっきり力を込めて真っ二つに破る。紙が音を立てて破れる瞬間だけは、ほんの少し気持ちが晴れるのだ。

 破れた紙を重ね、次々に半分に破っていく。指でつまめないほど小さな紙片になるまで。

 それらを集めて丸めてくずかごに捨て、中に散らばった紙片を虚ろな瞳で見下ろす。


「こんなんじゃ、足りないわ。身の程知らずにも高貴な者に刃向かった罪は、償わなくちゃね? リーセル=クロウ……」


 憎い女の名を口にする時、アイリスの頭の中にはドス黒い感情だけが渦巻いた。


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