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元聖女アイリスの反乱②

 今夜の乗馬のレッスンが終わり、厩舎から出た私の前に現れたのはゼファーム侯爵夫人だった。

 乗馬服を着ているので動きやすく、また今夜のために予約した店に早く行きたくて、大股で歩いていたため、庭園の木の陰から現れた華奢な侯爵夫人が飛び出してきた時、私は彼女と正面衝突しそうになった。

 ぶつかっていたら侯爵夫人は吹っ飛んでいたに違いない。

 これから友達との食事を控えている私にとっては、あまり歓迎せざるタイミングであるが、ぶつかりそうになったことを詫びる。


「ゼファーム侯爵夫人! すみません、急いでおりまして前をよく見ておらず……。失礼いたしました」


 侯爵夫人は握れば折れてしまいそうなほど細い手で、白い封筒を私に差し出す。


「貴女のレッスンが終わるまで、待っていたのよ。今日は王立病院まで娘に面会に行ったから、手紙を預かってきたわ。――また王太子殿下に渡していただけるかしら?」

「お渡しするだけでしたら……」


 手を伸ばして手紙を受け取る。

 侯爵夫人は、落ち窪んだ目を赤くさせ、震える声で言った。


「王太子殿下はアイリスが捕えられた時も、最後まで庇ってくださったもの。きっともっと寛大な処置をいただけるはずだわ。親である私も責任を感じているの。ゼファーム家は四大名家として名高いせいで、矜持と信念がとても高いのよ。あの子が小さい頃から、厳しくしすぎた私も悪かったのだわ」


 侯爵夫人が顔を歪ませ、さめざめと泣き始める。鼻を啜りながらハンカチで目元を押さえるその姿を前に、こちらも動揺してしまう。


(困ったな。急いでいるんだけど、こんなふうに目の前で泣かれてしまうと置いていくわけにもいかない……)

「アイリスは今の生活の惨めさと、犯した罪の大きさの両方に苦しんでいるの。それに……」 


 そこまで言うと、侯爵夫人はハンカチから目を上げ、チラリと私を見てから続ける。


「王立病院に差し入れられる新聞には、貴女と殿下のことも書かれていて、アイリスはさらに心を痛めているの。あの子は本気で王太子殿下を愛していたのだから」


 アイリスはユリシーズとギディオンが入れ替わったことを知らない。ユリシーズが心変わりしたように思えているのだろう。

 とはいえ私が謝るのは違うし、かと言って「私だって王太子を愛している」なんて主張するのもよろしくない。

 精神的に不安定な様子の侯爵夫人を、なるべく刺激したくない。私が黙っていると、彼女は独り言のように呟いた。


「けれど当然の報いだわね。面会に来た父親にもいつも責められているから、どうか謝罪文だけはせめて受け取ってあげて頂戴」


 侯爵夫人は穏やかに微笑んだ。だがその目だけは全く笑っておらず、彼女と別れた後も違和感と怖さが残った。  




 王都の繁華街にある大きなレストランに、マックの陽気な声が響く。


「はいはい。それでは皆さんご一緒に。かんぱーい!」

「皆さんって、三人しかいないのに」

「どうして一人で二杯も持ってるのよ」


 マックは二脚のワイングラスを両手に持ち、左右交互に飲み始めた。飲み干してプハーと息を吐き、グリンと大きな目を私に向ける。


「さぁ、食おうか。腹減ったー。で、十五分も遅刻したけど、リーセルは相変わらず忙しいの?」


 私の到着を律儀に待ってくれていたようで、食事はまだ手をつけられていない。

 大皿から三人分を取り分けようとしたシンシアを制して、マックが素早く三皿に分け始める。

 周りの客に聞こえないよう、私は声を落として話した。


「忙しいのもあるんだけど、今日は帰りにまたアイリスの母親に会ったの。アイリスの手紙を渡しに来たのよ」


 マックはトングでハムを挟んだまま、眉を顰めた。


「また? そもそも王立病院に軟禁って処罰が軽すぎるくらいなのに、アイリスは王太子殿下に何を嘆願したいのかね。言うことを聞いてあげちゃう侯爵夫人も、娘に甘いよなぁ」

「一番の目的は減刑でしょうけど」

「無駄なのにねぇ。だって、以前の王太子とは中身が違うんだからさ」


 シンシアが手元のパンをちぎりながら、神妙な顔で言う。


「流石に娘の罪の責任を、ゼファーム侯爵家に問うには限界があるものね。本当はゼファーム家の王宮への出入りを禁止してくれれば、安心だったけれど」

「そうね。でも、ここまで名声が地に落ちてしまったら、いかに四大名家と言われていたゼファーム家でも、どんどん衰退して没落しちゃうんじゃないかしら……」


 マックはとりわけたサラダを一気にかき込み、むしゃむしゃと咀嚼してから腕組みをした。


「俺はさ、アイリスが王立病院で治療をしているのが気に食わないな。何度が仕事で監視に行ったけど、治療してもらった患者は『流石は聖女様』って騙されちゃうんだよな」


 アイリスのその後を直接見たことはなかった私とシンシアが、「そんな状況なの?」とほぼ同時に声を上げる。

 マックは串刺し肉を口に突っ込み、重々しく頷く。


「どれほどの悪人か本性を聞いてはいても、実際にあの可憐な見た目にコロッと騙されちゃう奴らは、一定数いるんだよな〜。まぁ、もう一生王立病院からは出られないから、一安心だけど」


 シンシアが私を見て、にっこりと笑う。


「馬上槍試合の後、殿下とリーセルもすっかりうまくいっているものね。もう少ししたら、王太子妃になっちゃって、こんな風に気軽に一緒に外でご飯を食べられなくなると思うと、少し寂しいわ」

「ちゃんと変装して一緒に食べに行くから、これからも誘って!」

「だーめだっつの。リーセルに何かあったら、殿下がどれだけ怒るか。想像するだけで俺の心臓がノミくらいの小ささまで縮みあがっちゃうよ」


「それどういう例えなの?」と私とシンシアが爆笑する。

 私は笑いすぎて溢れた目尻の涙を拭いているシンシアを見て、王太子の話を思い出した。


「そうだ。殿下がシンシアの魔道具を作る才能を褒めてたよ。私も魔力吸収石を入れる巾着、凄く愛用しているから」


 するとシンシアが照れたようにグラスを両手で包み込む。


「本当? 使ってもらえてよかった。私、実は王宮を定年退職したら、魔道具屋を開きたいと思っているの」


「ええっ、それ初耳なんだけど」とマックが目を剥いてシンシアを凝視する。


「あくまでも、定年後よ?」

「いや、今からもう定年後を考えているのはシンシアくらいだと思うよ? でも夢があって素敵だな。シンシアの魔道具は独創的だし、質がいいもの」

「開くとしても、小さなお店よ。本当に趣味程度のね。特にシェルンには、魔道具屋自体が数店舗しかないから、開店したらみんな喜んでくれるんじゃないかと思って」

「シェルン州で開店する予定なの?」


 正直ちょっとショックだ。シンシアは歳を取ってもずっと会いたい時に会える距離にいてくれると思っていたから。シンシアが故郷のことが大好きなのは知ってはいたけれど。

 気になって様子を窺うと、マックはよほどショックだったのか、顔面を白くさせていた。手に持っているグラスが傾き、こぼれそうになっている。 


「マック! そのワイン、こぼれるから!」

「おっと、ありがと。――シンシア、シェルンに帰るつもりだなんて。じゃ、俺も色々支度をしておかないといけないな」

「えー、何の?」

「いや、こっちもこっちで色々計画があるからさ。なんつーか、いつまでにどれくらい貯金して、場合によっては早期退職したり」

「ええっ、まさかマックもシェルンに魔道具屋を開店するつもりだったの⁉︎ あんな小さな州に同じ時期に競合他店ができるなんて、困っちゃう」


 思わずブハッ、と口の中の飲み物を噴き出しそうになった。

 マックはシンシアと一緒にシェルンに戻って、彼女の魔道具屋を手伝うつもりでの発言なのだろうに。シンシアは結構鈍感なところがあった。


(それにマックが自分の魔道具屋を開店するのを想像すると、面白くて笑っちゃう)


「ちょっと想像しちゃったわ。マックが魔道具屋を開店したら、どんな商品を売るんだろうって」


 するとマックはニヤッと歯を見せて笑った。得意げに胸を張って、私とシンシアを見つめる。


「俺のアイディア聞きたい? 俺に魔道具発明の才能があったら、絶対『どこでもパン屋さん』を作るね。小麦と水を入れたら、五分で焼きたてパンができる、超絶便利グッズだぜ。問題があるとすれば、名前がダサいことくらいかな」


 どうだ凄いだろ、とドヤ顔を披露するマックを、私とシンシアは温い微笑をたたえて無言で見つめ返す。


「あ、でもシンシアが作ってくれるなら、このアイディアをタダで譲ってもいいけどな!」

「ありがとう。だけど私なら必要な材料は小麦と水じゃなくて、小麦粉と水にするわ。だって小麦を手に入れるのは、むしろパンを買いに行くより大変そうだし……」

「うわー、俺恥ずかしい間違いをしたわ」

「いやでも、マックのことだからてっきり武器系の魔道具かと思ったわ。そこをあえて食べ物なのが、逆にマックらしいかも。パンは毎日の食事に欠かせないし、老若男女が好きだもんね」


「へへ」とマックが照れた様子で頭をかいている。


 私は王宮の妃教育で窮屈な生活が続いていたせいか、いつもよりたくさんお酒を飲んだ。こうして自由に飲んで楽しめるのも、後少しかもしれないと思うと名残惜しく、また学生時代を共に過ごした二人と気兼ねなく料理を囲んでいると際限なく会話が溢れ、いつの間にか夜はすっかり更けて、私達はレストランのその日最後の客になっていた。


 陽気な気分で三人で外に出て、夏の夜のやや湿気を帯びてひんやりした風に当たる。

 王宮までは目抜き通りを歩いていくだけだが、時間が時間だけに外を歩いているのは私達だけで、足音がやけに大きく響く。

 マックが先頭になり、私はシンシアと並んで歩きながら、石畳を見下ろして口を開いた。


「今日はすっごく楽しかったわ。それにお料理も美味しかった! 流石マックの行きつけのお店ね」

「私も楽しかったわ。やっぱり三人で飲むのが一番最高よね」


「これからの俺達も、最高で最強だぜ〜」とほろ酔い気味に言った直後、マックが突然立ち止まった。

 すぐ前を歩くマックが急にピタリと止まったせいで、私とシンシアは彼の背中にぶつかる。


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