還ってきたユリシーズと私②
日に日に寒さが増し、王都で初雪が降った頃。
ユリシーズが王太子に戻ってから初めての地方公務が決まった。地方で改修されたばかりの教会で行われる初めての祈祷式に、王太子が参加することになったのだ。
執務室で訪問先の資料を読み込んでいたユリシーズは、公務を説明する担当官が退室して室内に私と二人きりになると、いたずらっぽく目を踊らせ、ニッと笑った。
「地方公務の訪問先が、あのシェルン州とはね」
シェルン州といえば、マックとシンシアの故郷だ。
ユリシーズもそれを覚えているのだろう。
「シェルンには行ったことがないんだ。だから楽しみだよ。リーセルは行ったことがある?」
手に持った書類の束をトントンと机上に押し付けて綺麗に揃えながら、ユリシーズは視線を入り口に控える私に向けた。
束の間、私は記憶の片隅にいる別の王太子を思い出す。
同じ姿の同じ声だったけれど、彼ならこんなに優しい口調で私に尋ねはしなかっただろう。
彼だったなら、絢爛豪華なこの執務室の大理石の床を、神経質そうなカツカツとした足音を立てながら、きっとこう言った――「おい、お前はシェルン州に行ったことがあるか? お前の故郷のバラル州より、よほど田舎にあるんだぞ?」と。どこか小馬鹿にしたような冷たい瞳で。
だが目の前にいるユリシーズの茶色の瞳は、ただ私の答えを期待して穏やかにこちらに向けられている。
「いいえ、私もありません。北部にありますので、既に雪が積もっているらしいです」
「シェルンでも私の護衛を頼める? この公務はリーセルに一緒に行ってほしいんだ」
「ありがとうございます。光栄です」
事務的に返事をすると、ユリシーズは眉を下げ、少し寂しそうな表情になった。彼は机に置いた書類に一度視線を落とし、肘をついて手を組んだ。そうして考え事をするかのように数回瞬きをしてから、言った。
「リーセルは私がこの体に戻ってから、なんだか他人行儀だな。――一緒に過ごしたギディオンがここにいることに、まだ慣れない?」
私は聖女が断罪され、あの雨の降りしきる庭園でユリシーズが還ってきた時。学院で共に過ごして王宮で愛を温めたギディオンに接するように、敬語も忘れて彼と話していた。でも冷静に考えて状況を俯瞰して見れば、そんなことは今とてもできない。
「王太子殿下ですから、失礼がないようにしているだけです。とはいえ……そうですね、この状況にはまだ慣れません」
ユリシーズはやっと自分の体を取り戻したというのに、まだ私は時々不安に思った。瞬きをするような短い間に、ユリシーズがまた彼ではなくなってしまうのではないか。
そして何より、王太子と聖女アイリスが二人で抱き合い見つめ合っている姿は、まだ記憶に鮮明だった。
思い出したくなくても、ふとした拍子にかつての二人の様子をつい思い出してしまう。
今の王太子はギディオンが中にいた時とは、言動だけでなく表情まで違う。
それでも。
あの日を境に、二人の魂が元に戻ったと頭の中では分かっていても、どうしても少し前までの王太子の残像が、頭の中でチラつくのだ。毎日護衛していたからこそ、尚更なのかもしれない。
シェルン州は私の出身地のバラル州より、北に位置している。
移動途中に宿に二回泊まり、三日目の午前。
吹き付ける雪にここが北の地なのだと実感しつつ、馬上で震えながら私は王太子一行の随行員として進んだ。
「ううっ、寒っ」
首にマフラーを巻き、厚手のマントを着ていても、冷たい風は容赦なく体温を奪っていく。王太子は馬車に乗っているものの、しがない護衛の私は馬で移動するしかない。
革の手袋をしてきて本当によかった。これがなければかじかんで手綱が握れなくなるところだった。
手袋は地方公務が決まった後に、シンシアが「絶対持っていくべきよ」と言ってプレゼントしてくれたものだ。
流石シェルン出身のシンシアは、冬のこの地に必要なものが分かっていた……。
やがて降りしきる雪の中に、小さな町並みが見えてきた。
シェルンは白い漆喰の家が多いのだが、屋根に雪を被っているせいか、建物全体が白に染まっている。決して大きくはないが、たくさんの家並みと中心部を通る川があり、馬車が何台も横に並んで渡れそうな立派な橋もかかっている。
その中でも一際高い塔を持つ石組みの建物があり、塔の天辺には大きな釣鐘が取り付けられている。
あれが新しくできた教会に違いない。
馬車はまっすぐに州庁舎に向かい、州知事の歓待を受けた。
州知事は地元貴族階級の男性が任命されているが、宮廷に出入りできるほどの家柄ではなかったため、王太子による初めてのシェルン訪問に恐縮しきりの様子だった。
丁度雪もやんでいたため、知事はユリシーズを街中のあちこちに案内し、シェルンの魅力を伝えるのに大変な努力をしていた。
シェルンで一番活気ある市場や、学校や病院。地元の婦人方開催の手芸大会の視察まで組み込まれ、知事のやる気の高さのあまり分刻みのスケジュールだった。
「ああ、めっちゃくちゃ疲れたわ。あの知事、張り切り過ぎよ……」
今日来たばかりだというのに。
夜になると私はあまりに疲れて,倒れ込むようにしてして寝台に突っ伏した。
王太子一行の宿泊先はシェルンの高級ホテルなので、寝心地が素晴らしい。
このまま寝てしまおうか。
瞼が重くて、目を閉じればあっという間に寝てしまいそうだ。
全身が脱力し、ふわふわと意識が眠りの世界に向けて漂い始めた矢先。
コンコンという不規則な音で、意識が再び現実に戻された。なんだろうと片目を薄ら開けたところ、先ほどより強い音が続き、完全に目が覚める。
(窓を叩く音? いやいや、まさか)
半信半疑で寝台を下りてランプを持ち、小さなテーブルの向こう側にある窓に近づく。
真っ暗だった窓をランプで照らした直後、窓の外に人が張り付いているのが分かり、私は叫び出しそうになった。
幽霊か強盗かと思いきや、窓の向こうで満面の笑みでこちらに手を振っているのは、王都にいるはずのマックとシンシアだった。
急いで窓を開け、吹き込む冷たい風に震えながら二人に話しかける。
「何してるの⁉︎ というか、二人ともどうしてここに?」
すると二人は顔を見合わせてから声を立てて笑った。
「リーセルがシェルンに来ると聞いて、私達もそれに合わせて休暇を取ったのよ。こんな機会、二度とないもの!」
「そうそ。今回の公務はシェルンで年に一番盛り上がる、雪祭りと日程が被ってるみたいだったからさ。それなら俺らが案内しなくちゃダメだろ?」
「ここで雪祭りがあるの? いつから?」
「今日だよ。だからさ、ほらさっさと外套着て出かけようぜ!」
「えええっ? まさかそのために今迎えに来たの?」
「貴女の部屋が一階でよかったわ! 二階だったらマックが私に風の絨毯の魔術で飛べって言ってたのよ。あれ、着地に成功したことないのに……」
仕事を休み、警備のあるホテルまで何らかの方法で窓の外まで来てくれた二人を、これ以上寒空の下で待たせるわけにはいかず、大急ぎで外套を着る。
マフラーに手袋にと防寒に努め、誰にも見つからないように私も窓から外に出る。
雪は足首辺りまで積もっているものの、既に止んでいるので出かけるには支障がない。
シンシアは私の手袋を満足そうに見つめながら言った。
「市場まで行くわよ。屋台がたくさん出ていて、シェルンでは雪祭りが一番の楽しみなの」
「人出が多くて祭りは警備が難しいから、多分王太子の日程には組み込まれなかったんだろうな。でも俺らの誇りの雪祭りだからさ。シェルンに来たら、絶対行かなくちゃ。楽しもうぜ!」
ガッツポーズを決めて、助走をつけてからマックがホテルの塀をヒラリと飛び越える。超人的な運動神経に唖然としていると、上から縄梯子が下ろされる。
「上りましょう!」と可愛らしく微笑むシンシアに苦笑してしまう。
正直、ここまで原始的な侵入方法だったとは思わなかった。私はコソ泥にでもなった気分で、ホテルを後にした。




