③王太子と妃
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温室の中で咲き誇る赤い薔薇から手を離し、私は隣に立つ王太子ーーユリシーズを不満げに見上げた。
帝王学を学んでいたユリシーズは、魔術学院生のローブなど羽織ったことすらないが、彼はあの頃私と確かに学び舎で五年間を過ごした、ギディオンなのだ。
温室に差し込む陽光を浴び、柔らかに透き通る栗色の髪と、薄茶の瞳。気温と湿度が高い温室の中では、王太子然とした煌びやかなジャケットも今は脱いでおり、パリッとしたシャツの襟元も少し緩めに開いて、こうしてわずかな執務の休憩時間をくつろいで過ごしている。
あの交換留学生が来ていた、かつての学院での温室の一幕を語り終えると、私は眼前の茶色い目を見上げながら、少し非難がましい口調で問いかけた。
「覚えている? 四年生の時のことよ」
ユリシーズは滲むように笑うと、私の腰に両手を回した。
「もちろん。君から悪い虫を追い払えて、達成感でいっぱいだったからね」
「む、虫だなんて! そんな風に見ていたの?」
「オーガュストは、間違いなく君を狙ってた。私の妃を掻っ攫おうとする輩を、警戒して何が悪い?」
「殿下ったら」
その時はまだ私は妃じゃなかったし、ユリシーズもまだギディオンとして生きていた。
王宮の庭園に聳える大きなドーム型の温室は、かなり暖かくてユリシーズに抱きしめられると、さらに暑くなってしまう。
温室の扉の前に控える衛兵や侍女達が私とユリシーズを見ているのが、今更ながらに恥ずかしい。
私たちの結婚後は、こうしてユリシーズが公務の合間に、人前で愛情を示す機会が著しく増えたので、恥ずかしくてまだ慣れない。
恥ずかしさを誤魔化そうと、お喋りを始める。
「この間、久しぶりに魔術庁に顔を出したの。丁度みんなの仕事が終わりそうな時間に」
「シンシアに会えた? たしか、シェルン州の実家が縁談を持ってきて、悩んでる様子だったと言ってたよね」
「そうなの。親のお勧めのその男性に実際に会ってみたら、素敵な人だったらしいんだけど、なんかピンとこなかったんですって」
魔術庁で久しぶりに会った時のことを思い出しながら、ユリシーズにシンシアの様子を話して聞かせる。
私とシンシアは、魔術庁のホールに置かれた来客用のソファに並んで腰掛け、近況を語り合った。シンシアは衛兵に聞かれないか気にしつつも、止まらない勢いで話してくれた。
「あのね、リーセル。その人、本当に文句のつけどころのない、シェルンの名士だったの。でもね、なんか違うの」
「縁談のお相手は、もしかして落ち着き過ぎてた?」
「う、うん。なんだかそんな感じ。穏やかな紳士過ぎて」
「その人はシンシアには、面白みがなかったのね、きっと」
「よ、よく分かるわね。そうなのよ、多分」
シンシアはうろたえた様子で、悩ましそうに両方の頰に手を当てていた。
なんとなく、聞いてみる。
「もしかして、――もっと、振り回してくれそうな、少し荒い感じの男性の方が、好みなんじゃない?」
「そうかも」
「シンシアは、ざっくばらんな感じの人の方が、一緒にいて居心地がいいんじゃない? 違う?」
「言われてみれば、その通りかも……」
その時の会話を思い出しながら、ユリシーズに言う。
「シンシアは、穏やかな紳士よりも、明るくて少し生意気なハラハラさせてくれる男性の方が、好きなんだと思う」
するとユリシーズは呟いた。
「まさにそんな感じの男が、シンシアのすぐ近くにいるのにね。それも長年」
「そうなのよねぇ」
「その調子だと、まだまだ二人は時間がかかりそうだね」
「どうなろうと、私の親友に変わりないんだけどね……」
「私も二人が王宮に就職してくれて、本当に感謝しているよ」
ユリシーズはそう言うと、一転して少しイタズラっぽく目を輝かせた。
「ところで、件のオーガュストが今どうしてるか知ってる?」
「ううん。もしかして、知ってるの?」
「魔術師にはならず、実家の伯爵家を継いで、今は西部の州にいるよ」
「そうなんだ。みんな、色々ね。同じ学院にいて、机を並べて勉強していたのに、それぞれの道を歩いているのね」
今後、二度と会わない友人も多いだろう。
人生とは、無数の出会いと別れから成り立っている。
こうして彼らのことを私が思い出しているように、ほんのひと時でも、学院にいたリーセル・クロウをーー私のことを思い出してくれることがあるのだろうか?
「私のことも皆が、思い出してくれることがあるといいな」
するとユリシーズは小さく笑った。
「……思い出さなくても、時々君の名前は耳にするんじゃないかな。王太子妃なんだから」
そう言うとユリシーズは私をさらに引き寄せ、額にそっとキスをした。
その後で、小声で囁く。
「キスは頬にしないといけないんだっけ? お妃様」
それは私が王宮魔術師だった頃、友達だったギディオンに言ったセリフだ。
あまりに頻繁にギディオンがキスをしてくるものだからーー。
いまだに思い出すと、恥ずかしくなってしまう。
「あれは、もう時効よ」
「そうだね、時効だ」
ユリシーズは意味深に言うと、私の顎に指先で触れると、私を上向かせた。そのまま彼の顔が近づいてきて、慌てて目を閉じた直後、唇に彼のあたたかな唇が降ってくる。
衛兵とか侍女達が近くにいるからやめてくれ、と何度言っても効果がないようだ。
やたらに長いキスがようやく終わり腕の中から解放されると、ユリシーズは左手で何かを私の髪に挿した。
確かめようと手を上げて触れてみると、耳の少し上に小振りの薔薇の花が挿し込まれている。
棘は綺麗に取られてるし、手折る音もしなかったのに。
「いつの間に……あっ! あなたまさか、」
「これは風の魔術書の……何巻だったのかな。最近は魔術書すら開いていないから、忘れてしまったよ」
「いけないわ。王太子のユリシーズは、魔術は使えないんだから」
ユリシーズは焦る私をよそに、ちらりと視線を少し離れた所にいる衛兵達に投げた。
「見えない位置の薔薇を摘んだから、安心して」
「万が一近くを王宮魔術師が通ったりしたら、見てなくても魔術を気取られるかもしれないでしょ」
なおも言い募ると、ユリシーズは両手で宥めるように私の二の腕をさすった。
「そうだね。もう二度としない。――さぁ、公務に戻ろうか」
蕩けるように甘かった表情が、ほんのひと時の間に、真面目な為政者のそれに変わる。
王太子としての務めと、それ以外との切り替えの良さには、いまだに感心させられる。
ユリシーズは近くの低木に掛けていたジャケットを取り、自分の肩に掛けると、私に左手を差し出した。
手を繋いで戻るつもりらしい。
当然のように差し出されたその手に、おかしくなって笑みが溢れる。
「お忙しい王太子様。執務室まで、お供致します」
手を重ねると、満足げにユリシーズが微笑み、私の手が彼の手に包まれる。
出口の近くにいた侍女が、微笑ましげに私の髪の薔薇を見ながら扉を開けてくれると、私とユリシーズは温室の外に出た。
ひんやりとした晩秋の風を心地よく頰に受けながら、庭園に敷かれた石畳の歩道を進んでいく。
灰色の石畳はよく整備され、落ち葉一つない。代わりに私とユリシーズの影が、並んで落ちている。
ふと顔を上げると、ほとんど同時に顔を上げたユリシーズの優しい目と目が合う。無言でそのまま微笑みを交わすと、私たちは再び前を見た。
手を取り合うと、もう言葉はいらなかった。
番外編までお付き合いくださり、ありがとうございました。
書籍版は2021.12.02発売予定です。うっとり間違いなしの美麗イラストが、たくさんの一冊となっております。よろしくお願い致します!




