EX-3-2 声だけの少女とパンツだけのマッチョ
長い間、微睡んでいたように思う。
それがどれほどかは分からない。
頭の中に靄がかかったように夢すら見る事もできずにただ長い間、微温湯の中で俺は揺蕩っていた。
『…………。…………て。……きて』
心地良い環境。
喉の渇きやベッドの僅かな硬さすら感じる事のないそこは一切の苦痛というものは無く、俺はただ惰眠をむさぼっていたのだ。
だが俺の眠りを覚まそうと声をかける者が。
『……て! 起きて! 起きるのよ!』
何度も、幾度となく俺に呼びかけ続けるその声はまだ幼さの残る少女のものだったけど、根気強く俺に呼びかけ続ける声は芯のある強さを感じさせ、どこか中性的な印象を受ける。
『起きろッ! 石動仁!!』
その声に弟の面影を感じたその時、一気に俺の意識は覚醒した。
たった今まで母の胎内のような心地良さを感じていたそこは黄緑の蛍光色に怪しく光る液体の中。
その黄緑色の液体は濃い塩水のように比重が重い物のようで、俺はその液体で満たされた水槽の中で足が底に付くこともなく立った姿勢のまま眠っていたようだ。
『落ち着いて! 今、保存液を抜いているから!』
溺れる事、ひいては溺死の恐怖によりパニックになった俺は遮二無二、手足を振って何とか液体の中から逃れようと暴れだしていた。
この液体の中で眠りこけていた事も忘れ、自分を起こしてくれた少女が俺を落ち着かせようとかけてくれた声も聞かずに。
なおも水槽のなかでもがき続けていた俺は肺が液体で満たされているというのに呼吸ができるという事にも気付かなかったが、代わりに体が液体の中で斜めになった拍子に手足がそれぞれ水槽の壁面に触れた事には気付く事ができた。
この水槽が置かれている場所について心当たりはなかったけど、誰か俺が目覚めている事に気付いてくれとガラスかアクリルのように透明な壁面を俺は叩いて、そしていとも容易く破壊。
破孔から黄緑色の液体が流れ出いていく勢いに乗せられ、俺は水槽の外へと放り出されてしたたかにコンクリートの打ちっぱなしの床へと叩きつけられる。
不思議と痛みは無かったが、その時の俺にはそんな事を気にしている余裕はなく、ただ生理反射的に肺や胃の中に入った黄緑色の液体を吐き出し続けていた。
やがてひとしきり体内の液体を吐き終えると口内に入っていた1本のケーブルに気付く。
それは直径数ミリほどの細い物、パソコンと周辺機器を接続するのに使われるような見慣れた物だったが、それが自分の口から体内へと入っているとなれば不快な事この上ない。
自分が入れられていた水槽、そして水槽が置かれているこの施設。
なぜ自分がこんな所にいるのかは分からなかったけど、このケーブルが医療目的か何かで必要があって入れられている物ならば、後で頭を下げてもう一度入れ直してもらう事にして、俺はケーブルを引き抜く事にした。
このケーブル、どこまで深く入れられているものなのか。そもそも黒いケーブルの被膜はとても医療機器のようには思えず、むしろそれはやはりパソコンなどで使われる物に似ている。
幸い、いくらケーブルを引っ張ってもえづくという事は無かったのは、長い眠りから覚めた後で肉体の感覚が鈍麻していたからなのか。
やがて僅かな抵抗があって、ケーブルの接続が外れたのか、スルスルとケーブルを全て引き出す事に成功。
そこで俺はケーブルの先端を見て驚愕した。
「……あん? USBコネクタ? なんで体の中にこんなモンが?」
ケーブルの先端は俺もよく知る長方形の断面のUSBコネクタ、オス型の物だったのだ。
一瞬、やはり体内に収められていた医療機器との接続のためのものなのかとも思ったが、USB規格で体内と接続する医療機器など聞いた事がない。
……まあ、そもそも俺は医療機器など別に詳しいわけではないのだけれど、それでもこれが異常な事である事は理解できる。
USBコネクタの取り付けられている俺の体内に接続されていた側とは反対側、そちらは先ほど俺がブチ破った水槽の天井側から伸びてきており、となるとこのケーブルは何らかのデータのモニタリング用という事なのだろうか?
俺は立ち上がって水槽の方へとゆっくりと歩いていった。
「……おいおい、こりゃどういう事だよ?」
水槽は円柱状の物で俺が破壊した透明のアクリル様の物質は厚さが2センチもあるような物で、とても水中に浮いた状態、力の入らない状態の拳で壊せるような物ではなかったのだ。
円柱状のカプセルはまるでSF映画に出てくるような大層な物で、透明な壁面に手で触れて確かめてみても特に劣化しているようには思えなかった。
「火事場のクソ力という奴か……。さすがは俺!」
『んなわけないだろう? ついでにいうと“火事場の馬鹿力”だよ。クソ力だと昔、ジャ〇プでやってたマンガになっちゃうよ』
「ん? そういえば、ええと、君はどこにいるんだい?」
先ほど俺を起こしてくれた少女の声がどこからともなく聞こえてくるが姿は見えない。
俺が入れられていたカプセルが設置されていた部屋は大学の研究室くらいの広さの部屋で、カプセルを取り囲むようにいくつかの机が置かれていて見慣れない電子機器や、友人が持っているゲーミングパソコンなんかよりも遥かに巨大なフルタワーサイズのパソコンが設置されており、机の上には紙や薄型のプラスチックに印刷された資料が大雑把に積まれていた。
照明はあるがどうにもほの暗く、室内の乱雑さからして声の主である少女が隠れる場所はいくらでもありそうだが、どうにもそういうわけでもなさそうだ。
少女の声はハッキリと聞こえるというのに、どちらの方向からという事はなく、まるで頭の中に直接、少女が話しかけているかのような、いや俺の頭の中に少女がいるかのような気にすらなってしまう。
『生憎と僕は直接、君に会う事はできなくてね。そういうわけでデータ通信で君に直接的に僕の声を送っているんだ。同じ要領で君が見たもの、聞いた事も私は把握できるからその辺は気を使わないでくれていいよ』
「うん? データ通信って、俺、スマホ持ってねぇ……。ってか、そもそもパンイチじゃねぇか!?」
そりゃあ俺は今までカプセルの中でプカプカ寝ていたわけで、服なんか着ていても濡れるだけだろうというのは分かる。
でも、だからといって黒のブーメランパンツだけというのはいかがなものか?
俺はこの時、ここがまともな医療施設などではない事を確信した。
よく分からないが、まともな病院がなんで患者に黒のパンツだけを穿かせて水槽に漬けておくというのだろう。
どう考えても絵面がヒドすぎる。
『ねえ? 君は何も持っていないハズの自分とどうやってデータ通信を、って事よりもパンツ一丁の方が大事なのかい?』
「当たり前だろ! ていうか、このパンツ、誰んだよ!? まさか誰かの使い古しって事はねぇだろうな!?」
『そ、そう……。で、でもホラ、男の正装は黒って言うだろ?』
「なるほど、そういう考え方もあるか……」
『……納得するのか』
俺もこんなキワどいブーメランパンツ一丁の状態で女の子に話しかけられて少し我を忘れていたようだ。
なるほど、考えてみれば下半身を鍛えないフィジークの選手と違い、全身を鍛えるボディビルダーの人たちはブーメランパンツ1つで大勢の人様の前に出て眩い笑顔を振りまいていらっしゃる。
そして俺もボディビルの人たちとは方向性が違うものの、同じくらい、いやそれ以上に肉体を鍛えぬいているのだ。
ならばパンツ一丁で何を恥ずかしがる必要があるというのか?
むしろパンツすら必要ないのかもしれない。
『ちょっ!? 石動さん、なんでなけなしのパンツすら脱ごうとしているの!?』
「いかんのか?」
『いかんでしょう』
俺がはちきれんばかりに伸びきっているパンツの腰の部分に手をやると、慌てた様子の少女の声が頭の中に鳴り響いてきた。
「君のおかげでこの世の真理に気付いてしまったってよ。ありがとう。礼を言わせてくれ。ええと、君の名前は?」
いくらか落ち着きを取り戻していた俺は自分に話しかけてくれている少女らしき声の主の名前すら知らない事に思い至り尋ねてみた。
『ああ、僕の名前は……、いや、いい。……僕の事は“世界”とでも呼んでくれよ』
それがその後、ある意味で生涯をともにすることとなる女性との出会いだった。
どうすればもっと兄ちゃんを馬鹿っぽくできるだろうと思います。




