どこでもないどこかにて 2-1
僕は見知らぬ丘でただ一人、立ち尽くしていた。
風は心地よく、潮と土と緑の香りが綯い交ぜとなって僕の心を慰めてくれているかのようで。
それでも僕の中に重く圧し掛かっている喪失感を晴らす事はできなくて、どうしようもない思いを抱えて僕は立ち尽くしているしかなかったのだ。
遠くには今まさに昇ってこようとしている太陽が海の水面を照らし、砂浜で海藻を干したり魚の干物を作るための作業をしている人たちは海面の眩さに目を細めているけれど、彼らの表情はとても嫌そうには思えない。
そして丘のすぐ下には田畑が広がっている。
そのほとんどは日の光を受けて黄金色に輝く小麦畑で、まだ朝も早いというのに大勢の人たちが収穫のために額に汗を流しながら作業をしていた。
やはり彼らの顔も労働を厭うというよりも収穫の喜びがありありと浮かんでいた。
砂浜で働く者たちの小唄は風に乗って運ばれ、田畑で作業している者たちの歌声と混ざって1つの歌となる。
僕はその者たちの中に鱗やイルカのような海獣の質感の肌を持つ者たちを見つけ、ここがどこなのかを理解した。
「そうか……。ここは香川か……」
厳密には香川県ではないのだろう。
でも、ここにいる者は皆揃ってウドンを愛して、ウドンを作るために働き、ウドンを食す。
だから人間であろうと半魚人であろうと分け隔てなく共に暮らしているのだ。
なら香川と言っても良いのだろうと思う。
僕がここに来るのは先週の金曜に続いて2度目。
ロキからここがどういう場所なのかは聞いて理解していた。
自分と他人、少なからず違いはあれど、そんな事に目くじらを立てるのではなく、共に「ウドンを愛する」という共通点を認めあう。
現世の対極、故にここは彼岸。
香川の魂が行き着く場所。
「僕は……、死んだのか」
ここに来る前の最後の記憶は鈍く煌めく刃。
平行世界から来た自分、ペイルライダーとの戦闘だった。
「それをご理解しているなら話は早そうですね」
「うん? 誰?」
ふと背後からかけられた声に驚いた僕が振り返ると、長い白髪頭の女性がいつの間にかいたのだ。
女性はまるでブーメランのように腰を直角に近いような角度で曲げて頭を下げているために顔を見る事はできない。
「え~と、貴女は?」
「父がご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした……」
顔を見ることはできなかったけれど、その色素が抜け去ったかのような死者のように白い肌に白髪頭の特徴的な人物など見覚えがあるわけもなく、失礼にならないように聞いてみると、やっとの事で遠慮がちながらも女性は顔を上げてくれた。
とても丁寧に「父」とやらの不始末について詫びる女性だったが、その死者が朽ちたかのような印象の黒くひび割れの入った目元と、彼女の口から溢れる黒い瘴気のようなモノを見て僕も彼女の正体について合点がいく。
「ああ、貴女はロキの……」
彼女は北欧神話で語られる冥界の支配者。
“死”のイメージから冬の季節とも結びつけられる存在だ。
「はい。ロキの娘のヘルです」
ああ。やっぱり。
彼女とは直接的には会った事はないのだけれど、「ハドー総攻撃」の最終局面において、ハドーが占拠するHタワーに突入した僕たちの内の1人であるアーシラトさんが、ハドーの幹部格であるゴリラ怪人との戦闘に際に彼女を魔法で召喚していたのが防犯カメラの映像に記録されていたのだ。
「そして石動誠さん。私が日本の冥界の神に頼み込み、貴方の魂をこの地に招き入れました」
「貴女が?」
なんでまたそんな事を?
別に僕もウドンは好きといえば好きだけど、どちらかというと蕎麦派だと思うのだけれど……。
少なくとも自分が香川県民が死後に向かう場所が相応しい人間だとは思わない。
「ここは色々とユルいのですよ。この場所ができてからあまり時間が経ってはいないですし、そもそもここの管理者はウドンとウドンを愛する者以外には興味が薄いわけでして」
「はぁ……」
「貴方が『何故、自分がここに?』と疑問に思うのも分かりますが、ひとまずは“中継地点”だとお思いください」
「中継地点?」
中継という事はここからまたどこかへ行くという事なのかな?
申し訳なさそうな様子を崩さないヘルさんだけれども、それは僕がこれから行く場所に対しての事ではなく、平行世界の存在とはいえ、自分の父親の不始末のせいで僕が死んでしまった事に対する事のように思われて自分でも意外なくらいに不安というものはなかった。
「とりあえずはここで立ち話もなんなんで、麓におりましょうか?」
ヘルさんに促されて僕は彼女とともになだらかな丘を下り始める。
天ぷらにでもしてウドンに添えるのだろうか? 途中で山菜取りに来ていた籠を背負った半漁人に出会うと手を上げて挨拶してきてくれたので僕も手を振って返す。
もしかすると、あの派手な色のヒレはルルイエで戦った巨大半魚人だったのかもしれない。
でも、その事よりも僕の頭の中で渦巻いていたのは現世に残してきた真愛さんの事だった。
「……あの、真愛さんは無事か、ペイルライダーはどうなったか分かりますか?」
「いえ、すいませんが私には……。ただ、私が分からないという事はつまりは私の管轄外という事なのでしょう」
「ああ、それだけ分かれば十分です」
ヘルさんは北欧神話の冥界の支配者で、日本の冥界の管轄者に頼めば僕の魂も引っ張ってこれる。
そのヘルさんの管轄外という事は真愛さんはまだ生きているという事か……。
それだけで僕の心はホッとして、少しだけ足取りも軽くなる。
そんなに長時間歩いていたつもりもないのだけれど、ここが現実に縛られた世界ではないからか、それともヘルさんの不可思議な力によるものか、しばらくすると立ち上る炊事の煙が見えてきて、やがて素朴な民家が立ち並ぶ集落へとたどり着いた。
「おっ! 来たな!!」
「誠く~ん! 元気だったか~い!」
「母さん? 父さん!?」
集落の入り口には僕の知る人たちが何人も集まってきていて、僕を出迎えてくれていた。
まずは細身の女性のウエストほどの太い二の腕をした筋骨隆々の女性に、もう、というか享年で50近いというのに紅顔の美少年という表現がピッタリくるような男性。
僕の母さんと父さんだ。
「…………」
「ヴィっさん……!?」
続いて長身の女性。
「松田さん」と呼ぶべきか少しだけ悩んだものの、結局は彼女のよく知るニタリとした笑みを見て僕の口から飛び出してきたのはいつもの呼び方だった。
黒いトレンチコートに皮手袋、カカシのように長い手足。
世にはびこる悪党たちにとっては恐怖の対象である彼の姿も僕にとっては懐かしさで涙が出そうになるほどだ。
「い、石動の兄ィ!!」
「米内さんも!?」
彼女のトレードマークとも言える白い特攻服に木刀、頭のテッペンが黒くなってるいわゆる「プリン」の状態というヤンキースタイルなのはヤクザガールズの先代組長、米内さんだ。
彼女こそが僕にARCANAとの因縁に決着がついたらH市に引っ越して来たらどうかと進めてきてくれた人物なのだった。
そして……。
「よっ!!」
膨れ上がった筋肉でパンパンになったTシャツとジーンズ。
けれどアロハシャツと長いロンゲのせいで、けしてむさくるしくはなく、むしろ爽やかさすら感じさせる1人の青年。
そこにいたのは僕の知るいつもの姿と変わらぬ兄ちゃんの姿だった。
無造作に、それでいて人懐っこい笑顔を向けてくる兄ちゃんの姿に僕も思わず泣きだしそうになる。
「兄ちゃん……!!」
兄ちゃんだけではなく、もう会えないと思っていた人たちとの再会に僕は涙をこらえるのに必死だった。
でも、こんな時に涙をこらえる必要なんてあるのだろうか?
「……ところでさ、いきなりこんな事を聞くのもなんだけどさ……」
「うん?」
「なんで、あのオッサン、磔にされてんの?」
この場には僕の良く知る顔がもう1人だけ来ていたのだけれども、なんでかそのトレードマークともいえるテンガロンハットを被った中年男性は横の棒が斜めになった十字架に磔にされていたのだ。
しかも磔にされている割になぜか恍惚の表情を浮かべている。
ホント、わけわかめ。
「ああ、あのオッサンなぁ……」
「うん?」
「なんか誠の事を待ってる時に、ウドン屋のネ~チャンの尻を触りにいこうとして……」
「はぁ!?」
「で、タコの親玉みたいなのに触手攻めにあってたぞ?」
「えぇ……」
ウドン屋のネ~チャンって、もしかして「この世界の管理者」の……?
これにはクトゥルー君、グッジョブ!と思わざるとえない。
ていうか、似たような年頃の娘がいるのに何やってんだよ!? 譲二さん……。
「こういうのになんだけど、誠、交友関係は選んでもいいんだぞ?」
「……うん」
まさか死後も眉間に皺を寄せた母さんから小言を言われるとは思っていなくて、溢れ出しそうになっていた涙がススッと引っ込んでいくのを感じた。
クトゥルー君、鉄壁の守備!!




