51-6
どれほどの時間が経っただろうか?
サウナの中はテレビもラジオも無く、時間を推し量るものは自分の感覚だけ。
「ふうぅぅぅ……」
榊原はもう何度目かも分からない溜息をつく。
すでにサウナに入って最初の数分間の頃のようなさらりとした汗は出なくなり、代わりにねばっこい脂のようなものが全身を覆っていた。
すでにサウナ内の客は何度も入れ替わり、水風呂を浴びてから第2ラウンドに挑もうとする者の爽快な表情を見ると榊原もつい自分も、と気持ちが揺れてしまう。
だが石動誠は動かない。
サウナマットの上にどっかりと座り込み、目を閉じて微動だにしないその姿はまるで苦行に喜びを見出す修行僧のようでもあった。
いや、宗教者に例えるのならば苦行僧というよりは神罰をただ受け入れる殉教者だろうか?
事実、彼の顔には喜びの色は見られず、深呼吸をすれば肺まで火傷しそうな熱気の中で石動誠は顔色一つ変える事なく平然としているのだ。
(さすがにもう限界か……)
榊原ももうこれ以上は限界だとついに根を上げる。
石動誠が兄とともにあのARCANAという組織を全滅させたという事は知ってはいるが、それでもまだ中学生くらいにしか見えない少年に、髪から爪先まで全身が細い少年にサウナの我慢比べですら勝てないとは。
そもそもサウナとは我慢を競う場所ではないし、石動誠が先にサウナにいた上、勝手に榊原が相手に黙ったまま我慢比べをしていただけなので勝ち負けもあったものでもないのだが、それでも榊原は勝負に負けた惨めさを甘受して重い腰を上げた。
(……こりゃ第2回戦は無理だな)
一度、腰を上げてしまえばこれまで石動誠に対抗心を燃やしていたのが綺麗サッパリ嘘だったかのように体は冷たい水風呂を求めていた。
1歩、2歩、3歩とゆっくりと歩いて出口を目指すが、そこで榊原は眩暈を覚える。
夜勤明けがゆえの立ち眩みというよりはあまりに長時間の間サウナにいたがために彼の体は必要最低限の水分すら失っていたのであろう。
あと少し歩けばこの灼熱の地獄から抜け出せると榊原は歩を進める。
サウナから出れば冷たいシャワーと水風呂が待っている。その後はレモン味の利いた缶チューハイで脂こいを流し込むのだ。
あと少し、あと少しだけと自分の体に言い聞かせながら出口へと進むが、出口まで後1歩というところで榊原の肉体はついに脳の制御下から離れてしまう。
足がもつれ、フラつきながらも何とかドアの取っ手を掴んで支えにしようと手を伸ばすが榊原の半ば暗くなりかけた視界は距離を測り損ねたのか虚しく宙を切る。
「だ、大丈夫ですか!?」
榊原はそのままサウナの床板に倒れて体を打ち付けるかと思ったが、脇から飛び込んできた何者かが彼の体に手を回して支えてくれていたがために転倒することは避けられていたのだった。
「あ、ああ。すまない。のぼせてしまったようだ」
「それじゃ一緒に外に出ましょう」
榊原の左から体を密着させるような形で支えてくれていたのは石動誠。
サウナの出入り口付近にいた榊原と先ほどまで石動誠が座っていた場所とは大股でも2歩は離れていたハズであるが自分で思っていた以上の時間をフラついていたのか、それとも石動誠が疾風のような素早い動きをしたのか、もはやそれすら榊原には考える余裕もなかった。
「よっと!」
石動誠は軽い調子で榊原の体を支えたまま片足でサウナのドアを蹴って開け放ち、扉が開けられると同時に室内に流れ込んできた冷たい空気に朦朧とした榊原の意識もわずかばかりに息を吹き返す。
それと同時にまるで少女のように柔らかい少年の体と密着している状態に気恥ずかしさを覚えるが、いまだ体は自由に動かせる状況ではなく、先ほどまで勝手に対抗心を燃やしていた相手に体を支えてもらわねば立ってもいられないという醜態を晒していた。
「ゆっくり歩いてください」
「……ああ」
体を支えている石動誠が先に1歩歩き、少年が背中に回してくれている腕に押されるような形で榊原はサウナの外へと出る。
それにしても榊原が倒れないように少年の肩へと回された腕を通して感じる少年の体は大岩のようにずっしりとしたものだった。
頭2つ分は背の低い少年は中年の男が揺らめいても動じる事はなく、それでいて歩く度にフラフラと揺れ動く体重をしっかりと受け止める柳のようなしなやかさも感じる。
「ふう。助かった。ありがとう」
「いえいえ」
石動誠は榊原をサウナ脇の水風呂の縁に座らせ、備え付けの洗面器で冷水を彼の脚に浴びせる。
もう1度、浴槽から汲み取った冷水で満たされた洗面器を少年から受け取ると、榊原は思い切り体を屈めて後頭部から冷たい水を浴びた。
冷たい。
ただただ冷たい。
水風呂に注がれる水道の蛇口は開け放たれたままで、たとえ人の体温で温められていたとしても水温は20度に満たないであろう。
だが榊原にはそれがありがたい。
脳髄から一気に覚醒していく感覚を楽しんで生気を取り戻した榊原はまだ少しだけフラつく足ですぐ近くのシャワーまで歩いて汗を流し、本能の赴くままに水風呂へと飛び込む。
「大丈夫ですか?」
「ああ、済まない。助かったよ!」
そうこうしている内に石動誠がサウナ室の中から自分の分と榊原が忘れていたサウナマットを持って出てきて彼に声をかけるが、水風呂ですっかり気力を取り戻した彼の笑顔を見て少年も安心したような表情を見せる。
少年はサウナマットに付いた汗をシャワーで洗い流した後で水風呂へと入り、榊原の顔をまじまじと見つめていた。
「サーモグラフィーで見るとまだ頭部が熱を持っているみたいですからもう少し冷やしてみるといいですよ?」
「さあも? あ、ああ……」
そこでやっと榊原も石動誠が改造人間であった事を思い出し、自分の挑戦が無意味であった事を自覚する。
「いやぁ、すいません。オジサンが30分もサウナにいたのは分かってはいたんですが、さすが江戸っ子は違うなぁって思ってました」
「ハハハ! いやいや、俺は君とおんなじで東京に流れてきたクチさ!」
水風呂の容赦無い冷たさは榊原の体を震わし、妙に愉快な気分にさせていた。
「どうだい? お詫びというかお礼に風呂上りに冷たい物でもご馳走させてもらえないか?」
「え? いいんですか?」
少年らしい遠慮がちな、それでいて嬉しそうな反応に思わず榊原も頬が緩む。
同僚がキャバクラ嬢に入れ込むのを榊原は阿呆らしいと思っていたが、なるほど今なら気持ちも分からないではない。
僅かばかりの金額で若い子に笑顔を向けられるというのはけして損な話では無いような気すらするほどだ。
それから榊原が水風呂から上がるタイミングに合わせて石動誠も上がり、2人とも脱衣所でレンタルの浴衣に着替えて自販機へと向かう。
榊原が「何にする?」と少年に聞くと500mlペットのコーラを指し示したので、彼が購入して与えると「ありがとうございます」と屈託の無い笑顔で礼を言われて彼も満足した。
さて榊原は湯上りに缶チューハイとツマミで軽くやるつもりであったのだが、冷静になって考えてみると倒れかけるほどにのぼせてしまった後でいきなり空きっ腹に酒を入れるというのもあまりに体に悪そうだ。
しばらく思案した後、結局、榊原は先にスポーツドリンクで水分補給しておく事にした。
さすがに500mlのペットボトル1本では多すぎるが、どの道、軽く酒を呑んだ後はいつも仮眠スペースで夕方まで昼寝するのだ。半分残しておいて昼寝の後で飲んでもいいだろう。
すっかり口の中がレモンチューハイと鶏軟骨の唐揚げの気分になっていたのをグッと堪えてスポーツドリンクを買ってソファーコーナーへと向かう。
「隣、失礼するよ」
「あ、どうぞ!」
丁度、先に来てテレビを見ていた石動誠の隣が開いていたので一声かけてから榊原も座り、スマホを起動する。
タクシー運転手である榊原は仕事中にスマホを使う事はあまりないのだが、今日は職場で感想文を書かされていたのだ。
歳を取るにつれて漢字が書けなくなってきていた彼はスマホを電子辞書代わりにしていたためにバッテリーの残量は3割ちょい。
それでも彼はいつものネット掲示板を見ずにはいられなかった。
別に彼はそのネット掲示板の中毒者というわけではない。だが、彼がライフワークと定めた事の情報とは密接に関係ある事でもあった。
(……おや?)
彼がブックマーク機能で「(凸厳禁!)真愛ちゃんを見守るスレPart810」のスレッドを開くと妙にスレの消費が激しい。
「真愛ちゃん」というのは元魔法少女で、引退してから数年経った今ではスレの消費も大分緩やかになっていたハズである。
だが、これまで羽沢真愛が引退した後にスレッドの書き込みが活発になった事が無かったわけではない。
ゴールデンウィーク初日の未明から起こったいわゆる「ハドー総攻撃」の時は羽沢真愛が後輩であるヤクザガールズたちに協力するというので書き込みが盛んになっていたし、昨年の春、ARCANAの大幹部であった頃のデスサイズが日本に迫っていた時もスレの中で彼女の疎開計画が議論されたものである。
その時の事を思い出して榊原がチラリと横目で石動誠の方を見ると、先ほどまでテレビを見ていた彼もスマホを取り出して画面に見入っていた。
榊原が大雑把に昨日の勤務を始めた頃の時間を頼りに未見のレスを探して、スレッドの流れを把握していく。
やはり僅か半日ほどで600近いレスがあるとは異常事態と言ってもいい。
榊原も自宅に戻ればTorを利用して深層ウェブにあるWikiを見る事ができるのだが、スマホではそれもできない。
食堂で酒を呑むのは諦めてとっとと自宅に戻るべきだろうか?
思案していると隣からボソりと呟くような声が聞こえてきた。
「何だよ? 『Ω-ナンバーズ』って、おっかねぇ……」
最近、7-11のUFOヤキソバとコラボのヤキソバパンを良く食べています。
「お前、コラボ元に悪いと思わねぇの?」ってくらいに美味しいです\(^o^)/




