51-5
その日、H市のタクシー会社に勤める榊原はもう昼近くになってから退勤して、営業所近くのスーパー銭湯に来ていた。
夜勤専門のタクシードライバーである榊原は普段なら午前の9時頃には職場を出る事ができていたのだが、安全教育とやらでDVDのビデオを見せられ半ば寝ぼけた頭で感想文を書かせられていたためにこのような時間になっていたのだ。
五十路近くにもなって学生や運転免許取りたての若者のように感想文など書かせられるとは、と鬱屈した胸中を抱え、老眼で霞む目ともはや大脳の表面しか稼働していない頭脳は溜まったフラストレーションの解放を求めていた。
とはいえ榊原という男はもう若くはない。
20代の頃のように深酒をして全てを忘れるのも体に差し支えるし、そもそも彼の趣味ではない。
結局、職場近くのスーパー銭湯で汗を流して食堂で缶チューハイとツマミを楽しむくらいの選択肢しか彼には思い浮かばなかった。
脱衣所で服を脱ぎ、鏡に映る自身のハリを無くした皮膚と太っているわけではないがたるんだ腹から目を反らして浴場へと入り、髪と体を洗う。
熱いシャワーは榊原の夜勤明けの頭脳を一気に覚醒させ、仮初とはいえ活力を取り戻させる。
だが、まだこれからだ。
榊原が得た活力は自身の肉体を苛め抜くために使われるのだ。
かつての挫折によって牙を抜かれ、精神的に去勢されてしまったと言ってもいい榊原は社会に己の存在意義を問うような意気はもはや持てず、代わりに自身をただ苛め抜く事でしか自分自身と向き合う事ができない人間となっていた。
「……っこらせっ、と」
わざとらしく声を上げて立ち上がった榊原はタオルを固く絞ってから、入り口近くに置いてあるマットを取りにいってからサウナへと向かう。
(……まずは15分)
夜勤明けの疲れた肉体をサウナで極限まで追い込み苛め抜く。そうであってこそ風呂上りの安酒は彼に至福をもたらすのだ。
サウナのドアを開けるとムッとする熱気が榊原の体を包み込み、室内へ1歩足を踏み入れるだけで感じるジリジリと身を焼かれる感覚が彼を喜ばせる。
(ああ、今日の1発目のロウリュは終わったのか……)
熱気の中に針葉樹の香りを感じ取った榊原はそれがロウリュの時に使われるアロマオイルの物だと気付いた。
未だ日本においては珍しいロウリュは榊原も物珍しさもあってこれを逃した事は悔やまれる。
だがじっくりと自分を追い込んでいくにはロウリュなど無いほうがいいのかもしれないと気を取り直して座る場所を探す。
(……ん? 女の子!? なんで男湯に!?)
2段になった座席の先客の少ない場所を見つけて榊原が座ると、「コ」の字型になった座席スペースの向かいに女の子がいるのを見て思わずギョッとする。
女の子とは言っても父親と一緒に男湯に入ってくるかもしれないであろう幼い年齢ではない。
タオルで股間を隠して座る少女は胸を隠してはいないが、雌雄の分化が未成熟であるために胸は薄い。だがそれでもその少女の年齢は中学生くらいであろうか?
榊原は周囲を見渡し他にサウナ内にいるのが男性だけであるのを確認し、記憶を辿って浴場でも脱衣所でも男性しかいなかったのを思い出す。
彼が男湯と女湯を間違えているというわけでもなさそうだ。
とはいえ、たとえ間違えているのは少女の方でも自分のようなオッサンと中学生くらいの少女が股間だけをタオルで隠したほぼ全裸の状態で一緒にいるのは社会通念上よろしい事ではない。
(ん? あれ、もしかして……)
どうしたものかと思案していると、サウナマットの上にどかりと座り込んで目を閉じてじっとしている少女の顔をどこかで見た事があるような気がしてきた。
榊原が記憶を辿ると彼の脳裏に浮かんできたのはボロボロのマント、人の身の丈を超すような大鎌、そして大海原を進む巨大な空母……。
(ああ、デスサイズか。石動……、確か弟の方は誠だったか?)
向かいにいるのが少女ではなく、まるで少女のように可愛らしい少年である事に気付いた榊原はホッと胸を撫でおろす。
それにしても話には聞いていたが本当に可愛らしい少年だと思った。
濡れた黒髪はしっとりと艶と帯び、長い睫毛は妙な色気を放っている。
榊原の故郷であるグンマ。
地元の者は海に接せず陸地に囲まれたグンマを“中つ国”と呼ぶが、中つ国に生息するオークならば石動誠ほどに可愛らしい少年なら男でも構わず襲うだろうと思わず榊原はクスリと笑って郷愁の念を抱いた。
だが所詮は榊原は故郷を捨てた男だった。
もはや戻る事も叶わない故郷を思うよりは今を楽しむ事を選ぶ。
さしあたってはサウナを共にした縁だ。石動誠と我慢比べといこうではないかと榊原は密かに対抗心を燃やす。
いちいち石動誠に声を掛ける事などしない。
そもそも彼がいつからサウナにいるかも分からないのだ。
ただただどちらが先にサウナを出るか勝手に我慢比べするだけ。
ただ勝手に対抗心を燃やしてどちらが長くサウナにいれるか勝手に競うだけ。
勝ったとしても負けたとしても何かあるわけでもない。
すでに榊原の頭からは自分を追い込むだの自分を苛め抜くだのといった気持ちはすっかりと消え失せていた。
いわば、すでに終わってしまった中年のオッサンである自分がまだいくらでも明るい未来を掴み取る事のできる若い少年に何か1つでも勝てる事があるのではないかという嫉妬のようなものである。
だが榊原は忘れていた。
たった小1時間前まで営業所の休憩室で自分がレポート用紙を前にうんうんと唸っていた事を。
その時には加齢によって明らかに頭脳の冴えが失われている事を自覚していたのだが、その冴えを失った頭脳ゆえにすっかりとその事を忘れてしまっていたのだ。
もし榊原の頭脳が若かりし頃のものであったなら、あるいは夜勤明けで半ば弛緩しきったものではなかったならば気付いただろう。
改造人間相手にサウナで勝負を挑むという事の愚を。
いかに榊原が故郷である館林の真夏の暑さを知っていたとしても生身の人間がどうして改造人間よりもサウナの熱に耐えられるというのだろう。
サウナでじっとりと汗をかき全身の皮膚を紅潮させている少年はいかにもそれらしい。
だが石動誠が汗を描くのも毛細血管が拡張して皮膚が紅潮して見えるのもサウナの熱に耐えての生理反射ではない。
あくまでそれらは人間らしく見せるための擬装である。
改造人間である石動誠が周囲の人間に気取られる事を防ぐためのカムフラージュ。
その事に榊原が気付く事はできなかった。
だったら何でサウナに来てんだよって話ですが、擬装のためとはいえ体から水分を抜いた後のコーラは美味いんじゃないですかね?
私的にはサウナの後の冷凍自販機のヤキソバとノンアルコールビールが鉄板です。
お酒も飲みたいのですが、行き来で車を使うとなれば飲めないのです。




