50-10
「んじゃ、僕は帰るけど、面倒かけさせないでよ?」
「あ、ちょっと……」
ボロが出ない内に退散しようと踵を返して狭いネットカフェのブースから出ると、すぐにもう1人の僕に呼び止められた。
僕は内心ビクビクしながらも努めてゆっくりと奴の事を振り返る。
「……なあに?」
あくまでも僕は奴の事など知らず偽物だと扱うために面倒くさそうな顔をしながら振り返って見た奴の顔は照明の悪戯か、先ほどよりも暗く見えた。
パソコンのディスプレーの光は背後からもう1人の僕の輪郭を青白く照らし出し、それが奴の異名を想起させて思わず肝が冷える思いを味わう。
「君、これから学校?」
「うん、まあ。2時間目の途中からは間に合うと思うけど……」
真愛さんを一時的に保護してもらっている「天昇園」に飛んでいって彼女を迎えに行こうかとも思ったけれど、時空間エンジンの出力を上げてペイルライダーに僕の動きを気取られるのは避けた方がいいだろう。
やはり当初の予定通りに電話で明智君に前もって定めておいた符丁で計画通りに話が進んだ事を伝え、真愛さんには別口で学校へ戻ってもらった方が間違いがない。
ペイルライダーがそのハッキング能力で電話やE-メールなどの通信を傍受できても符丁を知る事はできないハズ。
なんたってその符丁を決めたのは今朝、僕と真愛さん、明智君が面と向かって直接、決めた事であるからだ。
その点、特別養護老人ホーム「天昇園」の強い点は通信に頼らなくてもそれなりに戦えるというところだ。
高度な情報通信技術を前提とした自衛隊や警察とは違い、「天昇園」の泊満さんや西住さんたちならばペイルライダーに勝てないまでも何かあった時に真愛さんを逃がす事はできるのではないだろうか。
でも何でペイルライダーは僕に学校の事を聞いてくるのだろう?
「ニュースのアーカイブで見たよ。君、今、高校に行ってるんだってね」
「うん。1年遅れだけどね」
奴の顔に少しだけ羨望の色が浮かび、それ以上に大きな諦観が奴の表情を支配していた。
「楽しい?」
「うん。クラスメイトは僕の事をデスサイズだと分かっていても優しくしてくれるし、こっちに来て友達もできたしね」
「へぇ……」
椅子に座ってこちらを見上げていた奴はゆっくりと目を伏せていく。
僅かに浮かんでいた羨望の表情はすっかりと消え失せ、諦観は絶望にも近いものへと変わっていった。
でも奴が自分の世界で学校に行っていないのも、学校に行けなくなったのも奴自身がしでかした事のせいなのだ。
とても可哀そうだとは思わない。
「それじゃ彼女とかは? もうできた?」
「まだだよ! こっちの引っ越してきて高校に入学してまだ2ヶ月くらいじゃん!」
なんだか親戚のオジサンみたいな事を言い出したもう1人の僕の顔にはゲスい笑みが浮かんでいた。
「それじゃ好きな子は? もしかして『まだ』って言う事は狙ってる子でもいたりすんの?」
「そ、そりゃあ、いるけどさ……」
僕はこんなに他人の恋バナとか気にする方だったっけ?
1つの惑星の人類を滅亡させようという極悪人とはとても思えないような顔で食い気味に続きを促してくるもう1人の自分に思わずタジタジになってしまう。
……いや、奴からしてみれば「他人の恋バナ」なんて話ではなく、自分にもありえたかもしれない別の可能性の話なのか。
そりゃあ気にはなると思う。
ただコイツのせいで昨日、真愛さんに告白スレスレ、あるいはもう言ってしまったも同然で今朝も気まずい思いをしてしまった僕からすれば「お前のせいでなぁ!!」と顔面ブン殴ってやりたくなる。
「ハハッ、そんな怒んないでよ?」
「…………」
どうやらイラッとしていたのが顔に出ていたのか、もう1人の僕は笑いながら謝ってきていたけれど、不意にその表情が再び深く沈みこんだものとなった。
「……まぁ、君にこんな話をするのもなんだけどさ。君は今それなりに幸せなんだろう? そしてその幸せが当たり前の事ではない事を君は分かっていると思う」
当たり前の幸せは当たり前のものではない。
それは僕も良く分かっている。
僕がこんな体になる前には何事もなく暮らしていたその裏側、春の湖に張った薄氷のように薄いモノに隔てられた場所の暗い側では誰かが命を賭けて血を流して戦っていた。
僕もその暗い場所に放り込まれて、自分で戦い、そして陽の当たる場所に戻ってこれたのは一重に幸運と人の優しさによるものだ。
人並みに学校に通うとか、誰かを好きになるとか、そういう当たり前の事はまだ暗い側にいるペイルライダーからすれば夢のような世界だろう。
そう思えば先ほどもう1人の僕が浮かべた羨望や諦観の表情の意味も分からないではない。
「だからさ。君が今の幸福を大事に思うなら、君は自分で守らなくてはならない。分かる?」
「……分かるよ」
「君に残っている生身の脳味噌は損得勘定が下手かもしれないから『後味が悪い』とか『何とかなるんじゃない?』とか思って余計な事に手を出そうとするかもしれない。けど、良く考えてほしい。二兎を追う者は一兎をも得ずって諺があるよね? 自分が本当に守らなければならないモノに手を出して、結果、全てを失う事になったら目も当てられない」
「……そうだね」
奴は僕に手を出すなと言ってきているのだ。
その内、ペイルライダーが“こっち”でも行動を起こす時、僕に出てくるなと。
僕が余計な事に手を出さずにどこかに閉じこもっていれば死ぬ事はなく、これまで通りに学校生活を楽しんで生きていられると。
ただし、僕は奴の言葉を聞いて奴の思惑とはまったく別の覚悟を決めていた。
当たり前の幸せは当たり前のものではない。
だから戦ってでも守らなくてはならない。
そして僕にとっての幸せとは真愛さんがそばにいてくれる事なのだ。
『君が今の幸福を大事に思うなら、君は自分で守らなくてはならない』
そら、そうだ。
奴は僕に平穏に暮らしていたいなら余計な事に首を突っ込まない覚悟をしろとでも言っていたのだろうけど、僕はその言葉で真愛さんを守るためなら例えペイルライダーが相手であろうと戦ってやろうという決意を新たにしていた。
以上で第50話は終了となります。
それではまた次回!




